ジョーカー・シュレヒト・ウィッツ
【ジョーカー、悪意ある機知】
飛沫の『エラー・エントリー』――その性質は、散逸。
♪
絶望の海。水中を漂っているような浮遊感。遥か頭上を遊泳する巨大な深海魚。剣の涙がちっぽけな紫に落ちる。咲き誇る剣の山。しかし、鮮血の
「歪曲」
空間が歪み、まるでシェルターのようだった。切っ先を弾き、不自然に凶刃が捻じ曲がる。ジョーカーはつまらなそうに片腕を振った。
「メルヒェン――――どうやって、こんな」
呼ぶのは、この状況を引き起こした下手人の名。彼女以外に有り得ない。これまでの世界の記憶を保持しているからこそ、その答えまで辿り着いた。
だから、分からないのは方法だった。
動機は察するに余りある。実行するための能力もある。しかし、この場に立てること、その方法が皆目見当もつかない。
「だって、彼女は⋯⋯⋯⋯」
独り言を剣の華が封殺した。虚空に、生け花のように剣が咲いた。ジョーカーの歪曲空間を喰い破る。断絶した真空を壁に貼るが、貫かれる。空間という概念自体を封殺する。
深海魚が涙を落とす。暗緑色の矢印が涙を覆う。見覚えのある凶兆。
「マーカー・メーカー」
捻じ曲がる。隔絶する。ジョーカーの
「へえ、馬鹿に出来ない⋯⋯」
右頬をザックリと切り裂かれる。呪装強化。ネガの呪いを加速させる魔法。そう、これは魔法だ。情念が現実を歪めた結実。夢想の顕現。ジョーカーの背後で羅針盤が廻り出した。
「セット――――遅滞行動」
現象が停止する。ジョーカーが周囲の時間の流れを歪ませたのだ。近付けば近付くほど進みは遅く。ジョーカーは両手に小銃を構えた。引き金を絞る。
「加速、乱曲」
発砲音は二つ。だが、遅滞婉曲した時空では数多に引き延ばされる。無数の弾丸が断絶した空間を通り抜け、ネガを周囲八方に取り囲む。時間加速。威力を増した運動エネルギーが深海魚を蜂の巣にした。
魚が墜ちた。自身が生やした剣山に貫かれる。
ジョーカーが腕を下ろす。『時空』は、魔法としては最高峰のランクになるだろう。ジョーカー自身も十全に使いこなせているとは思えないが、ここまでやれれば十分過ぎる。
「メルヒェン。やはり、お前は危険」
意識を次に向ける。
だからこそ、反応が遅れた。肉をズタボロに落としながら深海魚が突進してくる。地を這う猪突のように。巨体を呪詛刻印の矢印が覆った。ジョーカーは小銃を盾にまともに受ける。空間を捻って衝撃を逃すが、それでも全身の骨が軋んだ。
呻き声を飲み干す。咽せる息を吐き出す。
「こん――――のッ!!」
ようやく勢いが止まった土手っ腹を、力任せに蹴り抜いた。ずぶりと沈んだ。不用意に突っ込んだ足に剣山が咲く。激痛に転がりながらも二丁小銃を上げる。深海魚が振り撒く涙粒。ジョーカーは小銃を盾に大きく飛び退いた。マジカルライフルが呪詛に貫かれ、一瞬離すのが遅れた両手を苛む。
「こいつ、なんでこんな⋯⋯⋯⋯」
ジョーカーもヒロイック同様、あまり回復力は高くなかった。加え、彼女はダメージを負うこと自体がまず少ない。慣れない痛みに唇を噛みながら、停止させた時間の中で少しでも回復を図る。
「所詮は、スパート。ネガ堕ちしても、実力は、たかが知れる。なのに⋯⋯⋯⋯なぜ? 『M・M』の刻印はそこまで⋯⋯?」
否、そうではない。
だが、ジョーカーは気付かない。
見下しているからこそ。
その想いの強さに。純粋さに。
「なら、捻じ伏せる。メルヒェン、私の世界で好き勝手はさせない」
時計の針が動き出す。ジョーカーの背後で歪む羅針盤。悪意の刺突を掌で受ける。
「セット」
羅針盤の導きを。
圧縮、狭窄、捻り切る。呪いの全てを歪み潰す。歪曲、歪みきった精神が為せる魔法。剣山が種籾まで巻き戻される。押し潰されて小さな粒に固められる。確かな手応えに、ジョーカーは嗤った。
「ああ、悪くない」
右手の中に小銃を生む。
「これが、私の魔法。私が、私である、
誇示する。力を。魔法の新たな領域へと至る。
想いの強さであれば、彼女だって引けを取らない。
「私の――――魔法ッ!!」
ぶっ放す魔力。異界そのものを歪め堕とす魔技。悲劇の深海魚を世界ごと、『M・M』の刻印ごと圧殺した。結界が泡沫のように崩れていく。まるで、淡い恋に零れた人魚姫のように。
暁えんまは、御子子寧子の額に手を当てた。それは、静かな黙祷のようだった。
「呪い、感情の渦を加速させる魔法」
粘っこい泡が肩に纏わり付く。ジョーカーは払わなかった。
「唾棄すべき悪徳」
吐き捨てる。獰猛に口角を上げた。
「⋯⋯アリス。貴女を必ずこの手に」
誓う。
魂に。
結界は崩れ、ジョーカーは噴水の前に降り立った。あの二人がこんなところで脱落するとは微塵も思わない。プリズムに煌めく噴水の向こう側に、彼女はいた。
「メルヒェン」
敵意と敵意が視線で溶け合う。湧く水の果てから垣間見える水色の煌めき。
「私は、もう、負けない」
誓う。
あの愛しい純白の少女に。そして、水色の悪夢に相対するトロイメライに。
「決着を――――――⋯⋯⋯⋯」
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