ヒロイック・リミット
【ヒロイック、極限】
不快と不穏が混ぜっかえしになった腐臭。ドロドロに腐敗した呪詛。蛆の小山があちこちで蠢く。耳を潰す程の蠅の羽音。嗅覚・視覚・聴覚から魂を犯される感覚。ネガの結界の中央には、巨大な女王蠅が震えていた。その全身には黒い矢印がのたくっている。
「うげぇ…………」
結界に入って一秒、スパートが嘔吐した。あやかも顔を歪ませながら胃液を吐き捨てる。そんな二人に黄色のリボンが伸びた。
「心を平静に。『M・M』につけ込まれるわよ?」
振り返った先、変わり果てた英雄の姿があった。頭部をリボンでぐるぐる巻きにした完全防備。いや、正しいと言えば正しいのである。笑いをこらえる二人も、あっという間にリボンマスクにされてしまった。
「おわっ!? すげえよく見えるぞ⋯⋯」
「臭いも音もなんともない⋯⋯」
「さあ。これで戦いに集中出来るわね」
リボンマスク三人組が地を蹴った。絵面がシュールだ。
まず飛び出したのはあやかだった。続こうとしたスパートがヒロイックに止められる。編み上がったリボンが大風呂敷となって蠅の群れを削る。
「リロード、ロード!!」
加速。握った拳を前に。だが、ネガを目前に蛆の山が聳え立つ。
「インパクト――――キャノンッ!!」
弾け飛び、肉を散らす蛆山。その向こうで歪な
「アシストは任せて」
ヒロイックがスパートの背中を押した。リボンに包まれた鎖の道が繋ぐ。空中で無防備に晒されたあやかの前へ。
「だあ、らああああああ!!!!」
振るう。剣を、正義の象徴を我武者羅に振るう。剣が折れて、それでももう一本と。ネガの突進が逸れた。転がり落ちた二人のマギアをリボンが守る。
「りりり」
鈴のような鳴き声。ヒロイックだ。結界内に縦横無尽に張り巡らせるリボンが蠅と蛆を覆い隠す。何重にも封じ込めて、圧殺。くるりるり、と踊るようにステップを踏む英雄が大きく飛び立つ。
ネガの突進に、あやかはスパートの前に立った。黙って受けてやる気は無い。カウンター気味に放つ拳も、しかし押し負ける。
「引きつけてくれて、ありがとう」
蹴り。
ヒロイックのハイキックがクリーンヒット。肉体を凹ませたネガが結界の地に這いずる。じゃらり。鎖の音が。
「しゃがんで」
ヒロイックが一回転すると、両の五指から鎖が鞭のように伸びた。リボンを食い破った醜悪な使い魔どもをまとめて払い落とす。だが、標的の身体は小さく、動きは素早く、なにより数が多すぎた。
「自衛、任せても?」
「はは、舐めすぎっすよ」
スパートの腕を掴んでヒロイックは後退した。あやかは逆に前に出る。予想外だったか、ヒロイックが思わず手を伸ばして。
「リロード!!」
「……本当に大丈夫そうね」
機動力で、蠅の群れに負けていない。多少喰らいつかれようが、振り払うだけの地力はある。
「ヒロさん! 囲まれてる!?」
手当たり次第に剣を投げ放つスパート。その後ろからヒロイックが覆い被さるように抱きついた。身体が密着して変な声が上がった。
「あ、あの、色々当たって」
「当ててるの。あともっと力を抜いて」
幾重にも折り重なったリボンの鎧。英雄の防護がマギア二人を包んでいた。スパートの目線の下で、ヒロイックの右手が天を指した。
「
その異様な光景を、あやかは射程範囲外から見ていた。降り注ぐ鉄槌。まるで、細かい鉄の粒のような。妙な既視感に行き当たる。使い魔どもの頭上から降り落ちるのは、大量の分銅だった。
質量自体は大したことはない。仮にネガにぶつけたとしてもダメージは皆無だったろう。しかし、無数に這い回る蝿や蛆には効果覿面だった。的確に撃ち落とされ、使い魔の数がみるみる減っていく。
「ぐおッ!?」
注意を逸らした隙に、ネガの突進をモロに食らった。鎖がネガの追撃を阻み、雁字搦めに絡め取る。振り返ったあやかは、ヒロイックと目が合う。その目つきは鋭い。
「油断しないの!」
全く以ってその通りなので、返す言葉もない。拘束されたネガにトドメを刺すため、あやかが走る。
「いや――――ダメだッ!!」
スパートの悲鳴。
足を止めたあやかにリボンが巻きつく。全力で引き戻されるあやかの目の前、異様な悪夢が展開していた。
「bb」
ヒロイックの鎖が食い破られる。ネガから伸びる四本の黒い触手に。否、それらは蝿の集合体だった。漆黒の矢印に巻き上げられ、巨大な四枚翅が飛翔する。
「b、bb――bxuxuxuxuxuxubbb――――bびぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっぃxxxbxbxbxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbb」
蝿の王が、呻いた。『M・M』の刻印。その真なる脅威は呪詛の加速。ネガの力が内側から膨れ上がるように爆発する。引き戻されつつあるあやかが投げ捨てられた。一緒に投げつけられたスパートを受け止める。
「ヒロイックッ!!」
蛆山が、開いた。黒い霧のように霧散する。無数の蝿に浮かした呪詛の幼体が英雄に殺到する。
声は無かった。不快な音は全て魔法のリボンにシャットアウトされている。あやかはスパートと背中合わせに立ち上がる。目の前には四枚翅の蝿の王。そして、後ろではヒロイックが蝿の群れに埋もれている。
「俺がこいつを引き受ける。行けるな?」
「⋯⋯うん。あたしが、ヒロさんを、助ける」
前も、後ろも、どちらも地獄だった。ロードの魔法で飛び出したあやか。
「頼んだぜ――――リロード!!」
この役目は、治癒の
「こっから先は、通さねえ!!」
拳を、堅く。
♪
スパートは雄叫びを上げながら疾走する。折れそうになる心を、決死で繋ぐ。
(いやだ。
こわい。
行きたくない。
あたしじゃどうしようもない。
でも⋯⋯ヒロさんはいつもあたしを助けてくれた。だから、あたしは行かないといけないんだ。自分の魂にまで嘘をついたら――――きっと、あたしは何者でもなくなってしまう)
スパートが剣を投げ放つ。いくらでも、何度でも。突貫。緑のサーベルを両手に、何度も何度も斬りつける。蝿が纏わりつく。不快だ。蝿が皮膚を食い破る。痛い。それでも、前へ。
ふわりと、スパートは優しい腕に抱きとめられていた。
頭に、ぽんと置かれる手。べったりと鮮血で濡れた、それでもなお力強い手。思っていたよりも小さな英雄の手。ぽつりと呟かれた言葉が脳まで届かない。虚ろな目は、それでも昏い光を灯して。
「りり。りりり」
己を奮い立たせるように、鈴が鳴いた。
ヒロイックの防護は完全に食い破られていた。口の端から胃液が漏れ、それが黒い血と混ざって胸に落ちる。艶のあった金髪は無残に萎れ、絢爛なマギア衣装はあちこちが破れている。そこから覗く傷痕。無造作に食い破られた皮膚と肉。
「あんまり、無理しすぎないでね?」
それが自分に向けられた言葉だと、スパートは遅れて気付いた。左目を瞑っているのは、ウインクをしているわけではないだろう。顔のいたるところから肉が覗き、それでも英雄は、いつもと同じようにふわりと回る。
傷口から一斉にリボンが飛び出し、十指からは鎖が鞭のように躍り出た。
「
踊る。躍る。オドり狂う。
まるで、蠢く要塞のようだった。
蝿を叩き落とし、包み潰し、撃ち落とす。
「り、りり。りりりり。りりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりり――――!!!!」
英傑怒濤。スパートは治癒の魔法を展開した。少しでもヒロイックの傷を癒す。自分に出来ることはそれしかない。
だが、他勢に無勢が過ぎる。トロイメライも辛うじてネガに食い下がっている状態。ヒロイックはもう限界を超えている。明らかに動きがおかしい。
(ダメだ。あたしが、あたしが――――なんとかするんだッ!!)
剣を握る両手を、リボンに叩かれる。はっとしたスパートが顔を上げた。
「大、丈夫。私に、りり、任⋯⋯せて。貴女は、私が⋯⋯守、る」
「ヒロさん、どうして――――!?」
ここまで。こんなに。
色んな感情が混ぜこぜに震える。今は魔法を、ただただ治癒を最優先に。ジリ貧は目に見えている。だが、英雄の目は依然として死んでいない。
「――――お前は、いつまでもそんなんだから」
妙に響いたその声。英雄の目から溢れる透明な雫。
「見てられねーてこった」
爆炎が虫ケラを焼き尽くす。小さな槍が乱れ落ちた。あれだけ猛威を震っていた蝿の群集が綺麗さっぱり焼失する。地に刺した大槍の上に仁王立ちするのは、煤けた赤。マギア・デッドロックだった。
「お前⋯⋯⋯⋯」
「行きな。こいつはプライド高いから、あんまり無様を見られたくねーんだ」
肩越しに親指で向けた先。傷だらけでネガに殴りかかる灰色のマギア。
「うん――――ヒロさんを、お願い」
地を蹴ったスパートと同時、英雄の身体が倒れる。受け身も取れずに崩れるその身を、デッドロックが静かに支えた。
「は、魔力からっけつじゃねーか」
「⋯⋯⋯⋯来てくれたのね」
「あいつら見捨てときゃ、あんたならよゆーだろ」
「⋯⋯⋯⋯いじわる、言わないで」
そうかい、とデッドロックは黒い飴玉を取り出す。
「どうせ、自分の分まであげちまったんだろ」
「………………うん」
「その果てがこのザマかよ。三倍返しな」
緩く震えた口に、デッドロックが
虚ろな目と、だらんと空いた口。蠅の群れに壊された精神。それでも、きっと、この手を離せば、英雄は戦場に駆けていくだろう。
「……………………」
それが、デッドロックにはよく分かった。使い魔どもはほとんど全滅。腐臭もだいぶ落ち着いた。あとは触手を翅のように震わせる蠅の王を討つだけだ。デッドロックは、血と唾液で濡れた飴玉を、もう一度ヒロイックの口に押し込んだ。
ただし、落とさないように、自分の口で塞いで。
力無くぐったりしていたヒロイックの身体が、ぴくりと跳ねた。デッドロックの舌がヒロイックの口内を舐め取る。だらりと垂れる舌を掬い上げ、強引に飴玉を舐め取らせた。
「んぅ」
「……んだよ、見んじゃねーよ」
魔力が回復し始めたヒロイック。それでも、くったりと身体を預けたままだ。為すがままに蹂躙させている。
飴玉が小さくなる。ヒロイックは湿った視線をデッドロックに向けた。顔を背けるデッドロックが手で視線を遮る。
飴玉が、完全に溶けきった。
「……ふふ、三倍返し――――ね」
「
二人が離れる。ヒロイックは口の端から垂れる唾液を指で押し戻した。潤む両目は妖艶に、傷だらけな肉体のまま気丈に立つ。
「行けるか、英雄様よ」
死闘は続いている。醜悪な蠅の王は、ルーキーたちには荷が重い。
即断即決。英雄は不敵に笑った。
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