デザイア・フォーレン
【デザイア、滑落】
「⋯⋯おはよう」
とたとたと階段を降りると、ブラックペッパーの香ばしさが鼻をくすぐった。こんな沈んだ気持ちでも腹は鳴る。不本意ながら食欲が湧いてくる。昨夜は飯を抜いたのだ。
(ベーコンエッグ⋯⋯)
なんでもない、簡素な朝食。朝起きたら、母が朝食を用意してくれる。それがマギア・スパート、御子子寧子の世界だった。
(ヒロさんは、毎日自分で作ってるんだよね⋯⋯)
当たり前のように、あの英雄はなんでもこなす。そんな師匠が誇らしかったし、とても遠くに感じていた。寝起きは低血圧気味な寧子は、自分で朝食の準備をするなんて考えすら起きない。
「ありがと。いただきます」
母親がびっくりした顔でこちらを見る。いつも無言で黙々食べている娘とのギャップ。父親はもう仕事に出ている時間だ。食べ終わったらすぐにでも中学校に行かなければならない。そんな当たり前にふと疑問が挟まる。
(ヒロさん、学校に行ってるのかな⋯⋯?)
高校生なのか大学生なのか、流石に中学生ではないだろう、いまいち判別がつかないあの女性は。そういえば、ヒロイックの家に居候している高梁のマギアたちは自分と同い年らしい。彼女たちも学校に通っているようには思えない。
それが、マギアという存在なのか。
あまりにも当たり前。ただただ正義感が強かっただけの少女は苦悩する。果たして、こんな当たり前の自分が戦いの運命を享受してよい立場なのかと。正しくあることを夢想しただけの、当たり前の少女に。
(あたしは――――ここに立っていていいのかな)
♪
「この陣営はもうダメだ。デッドロックに取り入ろう」
一間が真顔で言った。
確かに、虚ろな目で掃除機をかけているヒロイックはしばらく戦線離脱を余儀なくされている。特に治癒力に秀でているわけではないらしい彼女は、身体に空いた穴をラッピングリボンで塞いでいる。
――――可愛いでしょ?
そう言い放った傑物に、さすがのあやかも顔を固まらせた。無駄にデザインに凝っているのが救いようもない。あんな身体では、とてもじゃないが前線には出られない。それはあやかと一間の共通認識だった。
「寝返って、それでなんになる?」
「このまま沈みかけた泥舟に居座る気かよ」
一間の意見には正直賛成出来ない。損得以前に、寝返って取り入ってきた相手にデッドロックが信頼を許すわけはない。あやかには知ったことだ。
「俺はこのままここにいるよ。寧子も気になるし」
「あの役立たずぅ?」
その言葉にあやかはむっとした。
「そんな顔するなよーだ! たまにいるんだよな⋯⋯英雄気質に好かれるのが」
「え? なんて?」
後半が聞き取れなかった。あっかんべーを返される。
「お夕飯、なに食べたい?」
「俺が作りますよ!」
家主の言葉にあやかが反応した。一瞬呆けた表情を浮かべたヒロイックが満面の笑みを浮かべる。
「あら、お料理出来るのね。任せてしまってもいいかしら?」
「いいよいいよ。アンタはちゃんと休んでいてくれよ」
「あ、今日は寧子ちゃんも来るけど大丈夫?」
「いいっていいって!」
にこやかに笑うあやか。一間はそっぽを向いて玄関に向かった。あやかはともかく、ヒロイックは確実に気付いているだろう。だが、彼女は少し困ったような顔を浮かべるだけだ。
「準備くらいは手伝うわ!」
気を利かせた行動のつもりか。橙の少女は小さく舌打ちする。
一間は、人知れず英雄の住処を後にする。
♪
拉麺屋『一刀両断』。
「⋯⋯よく見つけたな」
「僕が本気を出せばこんなものさ」
ふーん、とつまらなさそうに雑誌のページを捲る。煤けた赤、マギア・デッドロック。
「まー座りなよ。奢らせてやる」
「うん、じゃあ醤油。⋯⋯え、なんて言った?」
豚骨ラーメン。頼んだものが出てきてデッドロックは口元を弛ませた。これが好きなのだと、デザイアは知っていた。小分け用のお椀を箸で引き寄せるデッドロック。熱を冷めしながら小型ラーメンを作っていく。デザイアは大人しく待った。
「なに見てんだよ。お前のじゃねーぞ?」
「え、この流れで僕のじゃないの!?」
素で驚くデザイア。内心そわそわしてしまったのは内緒だ。
「こいつ、猫舌だからな」
反対側に流されるお椀。影に隠れて見えなかった少女が、ひょこりと顔を出す。
「な」
「あたしの同盟相手、でもってリーダーだ」
「えぇ!?」
少女がギョロリと睨む。艶のある長い黒髪。スレンダーな肢体、日本人形のように整った顔立ち。だが、最も目を引いたのはその目だ。
その双眸には呪いが宿っていた。
あくまで、印象の話。見開かれたような眼球、目下の隈、瞳孔の揺らぎ。その全てが不吉を連想させる。あのデッドロックが一目置くのも頷ける。
「マギア、か」
「⋯⋯マギア・ジョーカー」
ペコリと首を倒す。黒の少女は一本一本ちびちび麺を啜っていく。
「⋯⋯おいしい」
「だろお!?」
テンション高めなデッドロック。デザイアは若干のもやもやを抱えながら出されたラーメンに手をつける。
「デッドロック。僕もそっちに入れてもらっていいかい?」
「んーいらね」
バッサリと、一言で斬って落とされる。
「ヒロイックは今手負いだ。彼女と組んでいる二人の魔法も僕は知っている」
「それ、交渉材料になると本気で思ってる?」
デザイアの額に一筋の汗が浮かぶ。昔からそうだ。この獲物を見つけた猟犬のような視線が、何よりも苦手だった。
「あまり侮らない方がいい。特に高梁から僕が連れてきた奴はとんだ虎の子だよ」
「もー見たって」
「ブラフを張られていたとしたら?」
デザイアが手を止めた。デッドロックはラーメンを啜る手を止めない。
「んぐ。そいつぁ賢しいこった」
「でしょ?」
「本気であたしにかかっても勝てない、そー踏んだんだろ? 見る目あるよ、あいつ。数で有利を取っていても、冷静に分析して次を見てやがる。けど、その賢しさは、やっぱりあたしに敵わないと認めている裏返しだ」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
デザイアの口と手が止まる。
「お前が来てくれたのもいー報せってもんだ。わざわざ探してくれるなんて下手に出たもんだな。お前が来なくてもあたしたちに分があるって言ってるよーなもんだ」
レンゲを、一口啜る。
「あんがと。これでよゆー見て準備出来るよ」
カウンターに置かれたどんぶりとお椀。三枚分の伝票を持って立ち上がるデッドロック。
「おれーに奢ってやる。だから、まー⋯⋯⋯⋯お前はヒロの近くに居てやれよ」
割り箸がへし折れた。デザイアの手が固く握り締められる。それを見て見ぬフリをするデッドロックと、何食わぬ顔でペコリと会釈するジョーカー。
ラーメンから、湯気が消え始めていた。
♪
帰り道。とはいえ、デザイアは英雄の城に戻る気なんてなかった。帰るのは正真正銘自分の家、神里からの離脱を。
「やっぱり、僕の役者じゃなかったな⋯⋯」
ぽつぽつと雨が降り始める。もうそろそろ陽が沈みかける時間帯だ。境大橋の入り口で、デザイアが真上を見上げる。満天の星が嘲笑うように煌めく。
(ん、雨なのに⋯⋯⋯⋯?)
浮かぶ疑問を解消する間も無かった。橙色のマーキングが境界を照らした。目線を前に戻したデザイアが絶句する。
夥しい数の、橙の矢印。
深い絶望の輝き。それらがマギアを高梁に戻さぬよう、矢印でブロッキングしている。神里を指す矢印、その意味は容易に想像がつく。
「お前が、僕の死神か」
にたりと、破滅を受け入れる。魂に刻んだ欲望が、今、成就する。
「『
長い髪を波のようにはためかせ、両手のマーカーを振るう少女の姿が。
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