デッドロック・ベトラーク
【デッドロック、記憶】
母親は、痩せこけた顔を娘に向けた。二人いる娘の、姉の方だ。力なく抱きついてくる妹の頭を優しく撫でる。妹は怯えた表情で、そして見下した目で少女を見ていた。自分の姉を、見ていた。
――――なんで分からないの。
皮が剥けて血が滴る両手をだらりと下ろす。切れた口内からは血が漏れているが、少女は拭おうとすらしなかった。
――――強盗を退治したよ。
少女は誇らしげに笑った。足元が覚束無い。決して軽くない傷を負っているのが見て取れた。痩せた母親は小さい娘を抱えて部屋に引っ込む。残された少女はついに力尽きたように倒れる。笑っていた。
どれくらいの時間が経ったのか。慌ただしく玄関の扉が開き、初老の男が駆け寄った。怒鳴り声が家中に響き、それから必死に救急車を呼んだ。
少女は、虚ろな目で顔を上げた。
――――父さん、正しいことをしたよ。
出血で震えながら、頭を突き出す。だが、父親と呼ばれた男は、もう頭を撫でることは無かった。事務的に応急処置をされながら、少女は頭の中で声を聞いた。
『僕と約束の賭けをしよう』
あの時投資した魂は、今もまだ脈動している。果たして賭けには勝ったのだろうか。
♪
「あたしは⋯⋯ちょいと頭が足りなかった子でね」
デッドロックの語り始めは、そんな言葉だった。焼き焦げたリビングに、おあつらえむきに椅子が二つ。渡された板チョコを片手に握り締めるあやかと寧子、二人が朗読劇の観客のように座っている。聴聞客に向けて、デッドロックは大仰に両腕を広げた。
まるで、嘲笑われることを望む道化のように。
「『本物の正義をこの目に映したい』。あたしはそんなありもしない幻想の願いで、めっふぃと契約したんだ」
陽炎が道化語りを囲う。
「だから、あたしには正しいことが全部分かるんだ。他の誰にでも、そいつを見せてやれる。だからなおさら⋯⋯なーんにも見えていなかった」
噴き出す業火を幻視する。あやかも寧子も、汗を拭う素振りすらしなかった。まるで熱病に侵されたかのようにデッドロックを注視している。
「魔法の力はすごいよ、知っているだろう? あたしは正義を執行した。たくさんたくさん悪を凝らしめた。成敗した。正義の大勝利だ!
そして、父親に絡繰りがバレて――なにもかもがおじゃんになった。
あたしは、悪魔だって罵られた。笑えるだろ? いっつもネガみたいな怪物を退治してるあたしがさ、似たよーな怪物だって罵られてやんの」
自嘲気味に嗤うデッドロックが人差し指を立てる。両手分。二人の視線がその指先に注ぐ。
デッドロックの指先が、二人の額に押し当てられた。
「「それでもあたしは正しさを捨てられなかった。
声がブレて、頭の中で反響する。糸の切れた人形が三つ、足元に転がっている。発火して、燃え上がる。喉の奥が干からびたような飢餓感。父親が娘の皮を被った悪魔を一家諸共に焼き殺そうと。
――――父さんは、あたしが壊した。
――――あたしの正義が偽物だったから。
少女の声が聞こえた。幻聴だ。
燃え盛る業火を振り払い、あやかが一歩前に進む。
「⋯⋯アンタだけ、生き残ったのか」
「そのつもりはなかったんだけどね」
ほら、あたしは――――マギアだから、と。
「⋯⋯マギアだから、どうだって言うのよ」
「魔法はちょーじょーの力だ。無理無茶無謀もお手の物さ」
全身を焼かれても、悪魔が生き絶えることは無かった。しぶとく生き抜き、そして目の前でのうのうと悲劇を語っている。
「間違えるな。あんたが正しさをとーせているのは、ズルをしているからだ。ただの錯覚だ。偽物の正義はな、必ずどこかで破綻する」
「だからといって、正義を諦めるの?」
「⋯⋯⋯⋯あんたらは、所詮ただの『偽物』だ」
『偽物』。
その言葉が、あやかに深く深く突き刺さる。心臓に
「関係ない。あたしは正しくあることを諦めない。『偽物』だから、やらなくていい――――そんなことには、ならない」
ヒーローになりたい。
その夢があやかの心臓を蝕んだ。真っ直ぐに言い抜く寧子に、焦がれるほどの嫉妬を感じた。荒れ狂う、獰猛な嫉妬心。まやかしが振り払われた後、あやかは心臓を抱いたまま震えていた。
「⋯⋯破滅するだけだ」
「だとしても、その瞬間までは正義のマギアでありたい。そう在ることがあたしの誇りだ」
「バランスだ。それなりの正義を、こなせる分だけやればいい。完全な正しさなんてものは、本物の英雄にしか成し遂げられない」
どれだけ傷ついて、どれだけ怯えても。
スパートという少女は止まらない。
そして、その先が破滅しかないことをデッドロックは知っている。
「理由は分かった。でも、それはあたしの理由じゃない」
あのデッドロックが、震えていた。まるで怯えた子どものように震えていた。突きつけられた正しさに、少女の心は何度でも破壊される。
「ねえ、このチョコどうしたの? どうやって手に入れたの?」
寧子は、渡されたチョコを掲げた。
デッドロックは答えられない。
「答えられないなら⋯⋯悪いけど、貰うことは出来ない。これは、当たり前のことだよ」
震える少女に、チョコを、差し出すように、返す。
「正しさなんて、本当は誰だって持ってる。些細なことなんだ。当たり前のことだ。その道から外れた相手を⋯⋯あたしは認めることは出来ない」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯あたしたちは、マギアだ。他に同族なんていない」
「あたしは、今でも自分が人間だと思ってる。よく分かったよ。デッドロック、あんたは自分が弱いから⋯⋯
赤い悪魔がビクリと跳ねた。頭を抱えて蹲る。泣いていた。嗚咽を漏らしていた。受け取られないチョコが、その目の前に置かれる。
「あたしは自分が信じた道を進むよ。自分が正しいと選んだ道、それだけを貫いていく。先輩が教えてくれたとおりさ」
はにかむように、マギア・スパートが笑った。
「だから、後はあたしに任せて。確かにデッドロックは何人も見殺しにしたけど、その分何人も救ったのをあたしは忘れない。その正義は、認めるよ」
スパートは振り返って、あやかにウインクをした。歩き出す。自分だけの道を。泣いているデッドロックを後に。そして、すれ違いざまにあやかに耳打ちする。
「あとは頼んだ。『終演』、あたしは⋯⋯みんなで戦いたい」
「応。お前、やっぱすごいよ」
互いに拳を重ねる。
あやかは泣いている少女の前に屈み込んだ。その頭をそっと抱きしめる。焦げつくような熱さだった。それだけの激情が少女の中に渦巻いている。
「――――ちくしょー……」
あやかの口にチョコが突きつけられた。されるがままに咀嚼するあやかの頭がぽんと叩かれる。うさぎのように跳ねた心臓を押さえて、赤面するあやかが立ち上がる。目と鼻の先に、怒りに歪んだデッドロックの顔があった。
「なんで……分かんねーんだ。破滅しかねーんだぞ。あたしたちはマギアなんだ。悪魔の手先でしかねーんだぞ……何が正義だ、バカバカしい」
「俺は……『本物』であれることが羨ましい。俺には、なれないものだったから」
あの、絵本の女王を下した。それが一体なんだというのか。未だに何一つ成し遂げられていない自分が情けなくなる。苦しくなる。痛くなる。無力感があやかから表情を奪っていった。
「お前は、どんなになっても『本物』を諦めないと思うよ……」
突き放すようにデッドロックは言った。あやかの心臓に指を突きつける。
「魂に覚えとけ。その形は執念の獣だ。英雄には似合わねーぜ」
(その言葉、なんの救いにもなんないよ)
胸に灯る黒い
「帰るぞ」「うん」
重苦しい言葉に、あやかは気の抜けた相槌しか打てない。
どろりと、真っ赤に溶けた太陽の頭が地平線から覗いていた。
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