トロイメライ・ダイアリー

【トロイメライ、日常を思い出す】




「ただいまー!」


 明るい声が十二月三十一日ひづめ家に響く。玄関に設置されている小さな鳩時計は、6時過ぎを指していた。


「おぅ、ご苦労さん」


 出迎えたのはパジャマ姿の女性。すらっとした長身は凛々しい印象を与えるが、ぼさぼさの髪と眠そうな顔がそれを台無しにしていた。

 十二月三十一日ひづめあすか、28歳。現役バリバリのキャリアウーマン。女手一つであやかを養ってくれる、あやか自慢の姉だ。


「あ、姉ちゃんまたお寝坊さんかよ。ちょっとは俺のこと見習えー」


 あやかはにっかりと笑みを浮かべると、甘えるように姉にぶつかる。あすかは朝から元気な妹の頭をぐしゃぐしゃ撫でると、勢いのまま浴室に放り出す。きゃっきゃとはしゃぐ妹を見て、姉は口元を綻ばすのだ。

 両親は、あやかが物心ついた頃に交通事故で亡くなったらしい。

 だから、あすかはあやかの、唯一の家族だった。


「あー、はいはい。お前はその粗暴な言葉遣いをいい加減直せ」

「いーやーだっ。なよなよした弱っちい女言葉なんて使えるかよ」


 あやかの夢は、勇者ヒーローになることだ。毎朝のジョギングと毎晩の筋トレは欠かさない。スポーツ少女なのだ。


「そんなんだからモテないんだよ、お前」

「いーんですっ。俺には真由美がいるもんねー」


 あっかんべーしながらあやかは浴室に駆け込んだ。ジョギング後の朝シャンも彼女の日課だ。


「あいつ、ほんっと面白いなー」


 言われて気にしたか、ぼさぼさの寝癖を撫でつけながら呟くあすか。

 頼れる親戚も居らず、女手一つであやかを育ててきた。苦労はあったが後悔は無い。あの子はよく笑う。それがあすかにとってはなによりの救いだった。


「ほんっと馬鹿みたいに幸せそうなやつだ」


 綻んだ口元を押さえる。今日も、大事な妹に元気を与えられた。だから、あすかは一日を頑張れるのだ。

 一方、浴室の床を叩く激しい水音。沸き立つ湯気。あやかは、泡まみれの身体を水流で流しながら、自分の身体を見下ろしてみる。


(んー、やっぱあれだなー)


 程良く全身に筋肉がついて、ガタイもいい。だが、あまり高くない身長と女性的なラインがそれを感じさせない。自分の身体がこうなったのも中学に入ってからだった。正直、二次性徴期に突入した自分の体に辟易していた。


「こんなの成長しても邪魔なだけなんだけどな……」


 身体の一部分、具体的には胸部を揉みながら呟く。同年代の女子と比べればそこそこ大きい方だろう。だが、いかんせん超アクティブ体育会系一直線なアウトドア少女にしてみれば、とっても邪魔な重りでしかない。

 そんな愚痴をあの水色の親友に漏らしたことがある。結果、無言で鳩尾に正拳突きを決められてダウンした過去がある。


「むしろ真由美に全部あげちゃいたいなー……」


 あやかとは真逆の、儚げな妖精みたいに可憐なお嬢様の姿を思い浮かべる。もちろんそんなことを再び本人の前で口に出すつもりはないが。あやかであろうと、あの一撃はひとたまりもなかった。

 女って怖い、とあやかはしみじみと思う。自分を棚に上げながら。


(でも、ま。あの一撃は何とかして攻略してやるぜ!)


 それでも、考えることはポジティブに。あやかはにっかり笑って拳を握った。







 朝シャンの後の登校は、あやかの日常だった。


「遅い」


 そんなあやかを待っているのは、水色の少女。親友は、いつも家の前で待っている。

 大道寺だいどうじ真由美まゆみ

 庶民のあやかとは違う、良家のお嬢様。なんでも江戸時代から続く血統らしい。どちらかというと小柄な方であるあやかと比べても、その身長は頭一つ分低い。その感じもあやかのツボなのだが、これも本人に言ったら大層不機嫌になられてしまった。


「悪い悪い、てか今日も早いなー」


 腰まで伸びる、透き通るような淡い水色の髪が波を打つ。あやかと同じ高梁中学の制服を着ているはずなのに、雰囲気がまるで違う。


「アンタ、毎回集合時間に数分遅れてくるから……」

「いやいや、学校には余裕で間に合うし」


 通学路途上でありながら人も疎ら。良家のお嬢様なりの誇りなのか、品行方正であろうとする真由美はやたら神経質であった。

 そんな真由美が時間にルーズなあやかを待ってくれているのは、どんな心境か。あやかは胸中で、勝手な妄想に悶える。正反対な者同士の奇妙な友情だ。


「そ・れ・よ・り・も♪」


 そして、悪びれる様子もなく真由美に近寄っていたあやかの身体が沈む。地面を蹴り、一足で真由美の背後に。


「今日も姫はカワユスな~」


 で、脇から制服の下に手を入れて揉む……ほどの膨らみはなかったので、撫でる。


「アンタは、また……ッ!」


 来る。鳩尾だ。

 先読みしたあやかは片手を腹の下に添える。インパクトをずらしてクリティカルを回避すれば、ダメージは最小限に食い止められるはず。


(取った……!)


 勝利を確信し、もう片方の手で摘まみとる。


「うぐぅ――ッ!?」


 しかし、あやかから漏れたのは苦悶の声。ガードした鳩尾に拳は来ない。代わりに鋭い蹴りが脛を打ち抜いていた。別名、弁慶の泣き所。意味、とっても痛い。若干涙目だ。


「おぉぅ……うっふ…………」

「…………なんで微妙に嬉しそうなの? 全国中学校陸上大会インターミドル、見たわよ。学校の英雄様がこんな変質者だと…………みんながっかりしちゃうわ」


 その蔑まれる目線もご褒美である。

 快活なあやかは、学校でも人気者だった。勉強も出来て、部活動ではヒーローで、人格者で。そんな絵に描いたような完璧少女は、同級生のちいさな女の子に蹴られ、ちょっと嬉しそうに悶絶している。


「んーにゃ? 俺、ほんと幸せなんだなって」

「バカ」


 そっぽを向く真由美。

 にっかりと笑うあやかを見ると、その言葉に一切の偽りはないのが十全に伝わったのだろう。その笑顔が、果てしなく眩しくて、少女は目を背ける。







 家族のこと。親友のこと。

 それだけじゃない。学校のことも。町のことも。夢のことも。あやかには鮮やかな想いがあった。

 だからこそ。

 彼女が投資する夢とは――――

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