トロイメライ・リバイバル

【トロイメライ、再上映】



 寝汗が気持ち悪い。嫌な夢を見てしまったようだ。夢の内容は思い出せないが。

 十二月三十一日ひづめあやかは、ぼうっとした頭でベッドから起きた。視界がぼやける。足元がふらつく。気怠い倦怠感を引きずって、リビングまで。


「はよー…………」

「おう、珍しくお寝坊さん――っておい!? あやか、大丈夫か!?」


 下着とブラウスだけのラフスタイルでコーンフレークを頬張っていたあすかが駆け寄った。死にそうなくらいに消耗した妹の姿。顔が真っ赤で、パジャマは汗でびしょびしょだ。


「ねーちゃん……水ぅ…………」

(風邪? いや、この症状は脱水か!)


 テキパキと備蓄棚から経口補水液を取り出すと、寝汗でぐっしょり濡れた妹のパジャマを剥ぎ取った。額と脇に手を当てるが、体温は不思議と平常だった。下着だけのあやかをバスタオルで包むと、ソファまで運ぶ。


「いいか? ゆっくり、少しずつ飲め」


 経口補水液が入ったペットボトルを傾ける。物欲しそうに飲み口に吸い付こうとするあやかを制しながら、少しずつ、口内ににじませるように水分を補給させる。


「うめぇ…………」

「呑気な奴だよったく!」


 大丈夫そうで、あすかはほっと胸を撫でおろした。


「今日は学校休みな。私も今日は仕事休んで家にいるから」

「へへ……姉ちゃんと一緒らぁ~やったー」


 甘えるように頭をすり寄せる妹を抱き締める。ひとまずは問題なさそうだが、尋常ではない様子だ。心因的なものを感じながら、だとすればなおさら家族が傍にいてあげなければ、と。







 翌朝、あやかは全快していた。流石に朝のトレーニングは止められたが、学校にはいつものように通っていた。


「ふぅん、珍しいこともあるものね」

「なー! おかげで無遅刻無欠席の記録がぱぁだよ」


 真由美が首を傾げながら顔色を覗き込む。なんだか上目遣いで迫られているようで、あやかは照れながら顔を逸らした。


「まだ本調子じゃない?」

「あ、いや……そうじゃなくてな!?」


 あはは、と愛想笑いを浮かべるあやか。不審げに見てくる真由美と目が合わせられない。


「ふーん。まあ、いいけど……」

「あ、真由美はさあ……大丈夫?」

「どうして?」


 謎に気遣われたのが疑問で、真由美が顔を上げた。珍しく、素の反応だった。


「んー、あーなんでだろ? 元気ならいいや!」

「……変なの」







 いつもの学校。いつもの日常。


「しっかし、お前も体調不良になったりするもんなんだな」

「タクは俺をなんだと思ってるんだ……」


 リングの上で行われるスパーリング。小気味良い音が次々と鳴らされた。ギアが、一段、また一段と上がっていく。


「でも、元気そうで良かったよ」

「んーなんか脱水症状だったらしいんだよね。嫌な夢を見たような気がする」


 そして、ついにボクシング少年があやかのギアに追いつけなくなった。拳の被弾回数が増え、防戦一方に切り替わる。それでも、ステップは止めない。隙あらば打ち込んでいく。


「シュ――――ッ」


 ついに、あやかのストレートにカウンターを合わせた。入りは浅いが、数歩後退させた。ダウンした少年が満足げに笑う。


「食い下がるなぁ……けど俺の勝ちだぜ」

「いいんだよ。また一歩、お前に追いついた」


 あやかに助け起こされる少年は、汗に濡れた顔を輝かせた。鍛錬に鍛錬を重ねた、逞しい肉体をしていた。


「あやか、なんか大変なことがあったら俺を頼れよな」

「はあ? 俺より弱っちい奴に何を……」

「ちゃんと追いつく。お前より強くなってみせる」


 ボクシング部部員一同が、リングの上を固唾をのんで見守っている。当の二人は気付いていないが。


「お前が俺の目標なんだ。お前を一生守ってやるのが、俺の夢なんだッ!!」


 部員一同にどよめきが走る。少年の顔が赤いのは、なにもスパーリングで身体を温めたからだけではないだろう。


「え、なんで? だから俺の方が強いじゃんての」


 安藤少年、ずっこける。


「タクって……時々わけわかんないこと言うよなぁ」

「お前、そういうとこだぞ……」


 リングにタオルが投げ入れられた。そういうことだった。







 そんな、いつもの日常の世界。

 親友と登校して、授業を受けて、ボクシング場に茶々を入れて、女友達と二人で立ち上げた部活動でだらだらする。そんな、日常。毎日の学校生活の締めくくりとして、あやかは図書室に足を運んだ。帰り道の途中まで、親友と一緒に帰るために。


「まーゆーみー?」

「…………ん?」


 放課後、習い事が夕方にない日は下校時間まで勉強をする。それが、大道寺真由美という少女だった。いつもは無心に勉学に励んでいる姿を見せるのだが、今日は少し様子が違っていた。あやかが声を掛けた瞬間、がばりと顔を上げたような。


「あれ…………寝てた?」

「ん……………………寝てない」

(寝てた。絶対寝てた。そうでなくともうとうとしてた。うわぁ超レア体験!!)


 あやかがにやにや顔を浮かべると、真由美は気まずそうに目を逸らす。流石に誤魔化しきれないと気付いたのか、照れ隠しにノートで顔を隠した。


「とにかく」

「んー? 何がとにかく?」

「ぬぅ…………今日は、安藤君と帰るんじゃないの?」


 思ってもみなかったことを聞かれて、あやかはきょとんとした。


「あーーそういえば、誘われたな。真由美と帰りたいから追い返したけど」

「…………………………………………そういうところ」


 物凄い、何かを言いたそうな顔をされたが、あやかにはよく分からない。


「ほら、だから一緒に帰ろ。もう下校時間だぞ」

「……………………そうね」


 いそいそと帰り支度をする真由美。その姿をぼぅっと見つめるあやか。


(昨日から妙に頭が重いな……やっぱりまだ本調子じゃないのかも)

「どうしたの?」

「ん? ああ、行こうぜ」


 制服の袖を引っ張られる。


「真由美、マギアについてなんだけど」

「マギア?」

「いや、やっぱいいや」


 その反応に、怯えにも似た、忌避感があった。あやかは作り笑いを浮かべるが、それで欺けるような相手ではなかった。


「アンタ、先に帰りなさい。待たせているでしょ?」


 待ち人なんて、あやかには心当たりがない。だが、なんとなく、本当に珍しく、一人で考える時間が欲しいのは事実だった。考える時間が必要、な気がする。


「ああ、悪い」

「いいの」


 背中をつんつん突かれて、あやかは昇降口まで追いやられた。世にも珍しい健康優良児の体調不良の後だからか、真由美がほんの少し優しくなっていた。あやかは、それに気付かないほど、焦燥の色に蝕まれている。

 日常が、ヒビ割れていく。

 思い出す。非日常の世界に触れてしまったことに。

 あやかは、校門の陰からひょっこり覗くウサ耳を見つけた。二頭身、二足歩行。黒い点のような目に、口をバッテンに塞がれた白いウサギ。あやかは、マギア・トロイメライは、日常の象徴である学校から一歩踏み出す。


『やあ』

「めっふぃ、用があるなら学校で言ってくれりゃいいだろ。どうせ、お前がその気にならなけりゃ誰も認識できないんだから」

『あれ、知ってたんだ。でも、僕はこの学校に入るのを禁止されているからね。虚々実々、理不尽だ』

(禁止って誰にだよ⋯⋯)


 誰も何も候補は一人しかいないのだが。どうせ認識されないのなら、禁を破ってもバレはしないと思うあやかだったが、意外なところで誠実なのかもしれなかった。


「で、用件は?」

『君に会わせたいマギアがいる。

 マギア・デザイア。高梁市を取り仕切るマギアで――――即ち、君の先輩にあたる』


 ぼぅっと、あやかの脳内が霞みがかる。どこかで、聞いたようなフレーズだった。







 夕陽が、落ちかけていた。西陽に照らされ、その影は身長以上によく伸びる。あやかも昔よく遊んだ、寂れた児童公園。西陽が眩しく、あやかは咄嗟に手で遮った。だから前が見えなくて、しかし、不自然に伸びる細長い影が視界に入る。あやかは、目を細めて視線を上げた。

 影の主は、少女だった。

 鉄棒の上で器用に仁王立ちして、こちらを見下ろす橙の少女。


「デザイア!」


 横ピースの間から片目を覗かせ、マギア・デザイアが不敵に笑った。

 その目は――――笑っていない。

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