二話「遭遇」
叫び声の主を探して走り回っていたが、一向に見つかる気配はない。あれだけ叫んでいたと言うのに通りの様子は変わりなかった。只の悪戯だったのだろうか。丁度通りを抜けた先にある十字路までたどり着いた所で、スワンは肩で息をしながら立ち止まって仮面を外す。
白磁の様な透き通った肌に汗を滲ませながら、一柱だけぽつりと立っている街灯に背を預ける。早く人斬りとやらを見つけ出して手柄としなければならない。ラセツに先を越されるのはもう沢山だ。先程の事を思い出しただけでも腸が焼き付くようだった。あの男は富も名声も不要だと言う。相応の力を持っておきながら、己よりも劣る人間に手柄を放り投げたのだ。
「お尋ねしたい事があるのですが」
屈辱に打ち震えているスワンに、遠くから声がかけられた。
それは人の言葉ではあったが、その音色は人ならざる物だった。男のように低く力強く。女のように高く艶やかな。気色の悪い音だった。彼女は声の主を探し辺りを見渡したが、人の姿はない。
「この先の居住区が担当の剣兵さんの名は、ご存じですか。
聞きそびれてしまったもので」
返答を待たず声がかけられる。相変わらず人の姿は見当たらない上に問いかけの目的も見当が付かない。止めどなく頭から湧き出る疑問を何とかねじ伏せながら、スワンは何処にいるかもわからぬそれに声を張った。
「背の高い方がニールで、低い方がダリオだ!」
返ってくる言葉はなかったが、その代りとでも言うかのように上から何かが落ちてくる。余りに無残な姿になっていて理解が遅れたが、落下物はニールとダリオの欠片だった。そして彼らのおかげで声の主の居場所を知る事ができたスワンが、背を向けていた建物の屋根を睨目上げた。
それは夜で編まれたような黒い頭巾に、白い笑顔の面を付けた大柄な人型で、その手には焔のように波打った刀身の剣が握られていた。そんな人型の様相を目に焼き付けるより先に、それが吐いた言葉が鼓膜を衝いた。
「スワン様ではありませんか」
「気安く私の名を口にするな」
悪党に名を呼ばれたことも怒りの火種ではあったが、それ以上にその音色が我慢ならなかった。今日は普段より多く薪を
「失礼。まさか王族が、このような下働きをしているとは思わなかったもので」
声色は相変わらず気に入らなかったが、その言葉使いは有難い限りだった。何の気兼ねもなく殺す事ができる。敵対者の鑑ではないか。
「
もう本当に気持ちが悪かった。怒りは振り切ると寒気になるのか。冷静にそんな事を分析しながら、スワンは腰に携えた刺剣に手をかける。
「そんな人を殺せるなんて、光栄だなぁ」
その言葉が出たのは、彼女が己の得物に手をかけたのと同時。恐ろしく冷め切った声だった。スワンはその声の主から決して目を逸らす事無く、得物を抜いて構える。細く鋭い刀身が、街灯に照らされて銀に光った。それを合図と取ったのか、眼前の人型が蜥蜴の様な足運びで距離を詰めてくる。最初の一撃は何の変哲もない袈裟懸け。スワンはそれを難なく躱して後方へと退いた。
「貴様は一体……?」
彼女は己の代わりに剣戟を受ける事になった街灯の有様を見て青ざめる。そこまで太く無いとは言え、鉄製の柱をへし切って見せたのだ。
「人斬り、とでも呼んでいただければ」
先程とは打って変わって退屈そうな声で、人斬りと自称する者は漸く問いかけに応えた。期待していた答えとは違う物だったからか、スワンは軽く舌を打つ。その膂力には驚かされたが、己の得物の特性上斬り結ぶ事は皆無。全てを躱して戦わなければいけない事には変わりない。もとより長期戦には向かない剣技だ。状況的には不利だが、圧倒的ではない。
そうやってどれだけ思考を巡らせようが、人斬りが動く事はなかった。ただ何も言わずに立ち尽くすそれが向ける眼差しは、彼女のよく知る物だった。
――失望。
正室が男を生んだ途端。城の連中は皆一様に視線にそれを宿らせた。もう必要ないのです。剣を振るう最中そう止められた事もあった。努力など幾らしても王位は継げない。今まで男としての所作を刻み込んできた癖に、本物が生まれたからなんだというのだ。スワンは憤りに身を任せ、一足飛びで距離を詰める。姿勢は低く、胸元で構えた刺剣の切っ先を相手の胸へと向ける。人斬りが動く気配は相変わらずない。そのまま得物で抉り上げるように突くと、確かな手応えと共に鮮血が石畳に零れた。
「どこを見ているのですか」
掌を貫かせる事で攻撃を逸らした人斬りが、寂しそうにそう言った。まるで首筋に舌が這うような感覚に気が狂いそうだったが、大きく振り上げられた波打つ刃がスワンを嫌なほど冷静にさせた。ここで死ぬ。ただ静かに振り下ろされる刃を眺めながら、彼女はそれだけを考えていた。何も成し得ず、母の期待にも応えられなかった。許婿にも申し訳ない。
その刹那、硬い何かがぶつかり合う音が眼前で響く。恐る恐る目を開けると、人斬りは仮面を抑えて仰け反っていた。足元に落ちていた礫を見るに、誰かがこれを投げたのだろう。こんな事を平然とやってのける男を、スワンは一人だけ知っている。
「頭を下げろ!」
本当に腹が立つ。己の得物を手放すのは屈辱だったが、奴の足手まといになるのだけは嫌なので言われる通りに頭を下げて跪く。すぐさま風を切る音が二回。どれもが人斬りの顔面に命中した。奴が怯んでいる所にスワンはその低い姿勢のまま、間髪入れず蹴りを放つ。完全に虚を突かれた上の追撃だった為か、巨体が驚くほど軽く飛んだ。
「立てるか?」
微塵も心が籠ってないその声色は、スワンが嫌悪して止まない物だった。今振り返ってはいけない。毎晩悪夢となって苦しむ羽目になる。そう確信してか決して振り返る事無く、掠れる様な小さな声で大丈夫とだけ答えた。人斬りは仰向けに倒れたまま、面を無傷な方の手で頻りに撫でていた。何とかひびだけで済んだ事を確認したのか、安堵の溜息と共に立ち上がる。そしてスワンの前に立つ黒外套の男を見て、笑いながら問いを投げた。
「君か、この礫を投げてきたのは!」
答えは返ってこなかったが、人斬りはそんな事気にも留めない。眼前の黒外套の佇まいからして、今まで斬ってきた連中とは違うと気づいたからだ。彼の背後で跪いている女とは比べ物にならない程、それは殺気に塗れている。どれ程の場数を踏めばこう成り果てるのだろうか。考えるだけでも血が沸き立つようだった。彼を殺すのに何手必要なのだろう。彼は何手で私を殺すのだろう。まだ斬り結んでもいないと言うのに、期待で胸がはち切れそうだった。
「名前を教えてくれないか」
黒外套の男は依然として答える事は無かったが、その重々しい刃を振るう事で答えてくれた。足運びからその所作に至るまでの全てに無駄がない。独創性や奇抜さは皆無。魅せる事など考えてもいない。人を殺すためだけに磨き上げられてきた実践剣術。避けに徹する他ない中で味わわされるその苛烈さに、我慢していても頬が緩んでしまう。期待以上ではないか。だからこそ、どちらかが死ぬ前に名前を聞いておかなければ。何手目かの後に起こった一瞬の硬直。瞬きすら遅く感じる様な時間の隙間。その刹那にねじ込むように、人斬りの歪な刃が振るわれる。それは男が纏っている外套を裂き、そのまま足元の石畳を砕いた。しかし、血は流れていない。
「貴様らはどこから湧いて出た」
中途半端に繋がっている外套を強引に引きちぎりながら、男は初めて問いを投げた。
失礼な。そう言って笑う人斬りだったが、その問いかけの意味は確りと理解していた。だからこそ同じように答えない事を選ぶ。わざと尻尾をつかませるのも面白いと思ったが、名前を教えてくれない事への嫌がらせの方が気分がいい。それに優れた殺人者同士が出会ったのなら、問答は無用だ。人斬りが攻撃に移ろうとしたその瞬間だった。何者かの気配を感じ取り、先ほどまで自分が立っていた屋根の上を瞥見する。
「……もう終いかぁ」
何かを確認した後そう自分勝手に呟いた人斬りは、獲物を口惜しそうに眺めながら屋根へと跳んだ。スワンは逃がすまいと勇むが、外套の男が制止する。彼は気づいていた。視認こそ出来ていないが、こちらを見下す人斬りの隣に何者かが居ると。
「邪魔をするなラセツ!」
「追うな。奴は一人じゃない」
そのやり取りをしっかり聞いていた人斬りが、二人に手を振りながら声を上げる。
「今度は邪魔の入らない時に殺し合おう! またな、ラセツ殿!」
満足げにそう言い終えると、人斬りはもう一人の何かと一緒に夜の中に溶けていった。
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