第6話 ヴォイス
パソコンを叩く音が響くオフィス。
夜11時を回った室内は、
疲れ果てた目を
ぁぃぉ…………ぃで
深山はその声にゾッとして振り向いた。
それは、聞こえるはずのない声。
ここに――この世にいるはずのない者の声に聞こえたからだ。
▼▼▼▽
終電で帰り、真っ暗な住宅街をアパートに向かって歩く。
そういえば夕食がまだだったことを思い出したが、疲れたし、今は一刻も早く部屋に帰って眠りたかった。
明日も朝から仕事だ。
頭を使う仕事だけに、眠らなければやっていけない。
重くのしかかる疲労感を背負いつつどうにか足を動かしていると、スマホが鳴った。
深山の母親からだった。
『あ、やっと繋がった!』
慌てるような声。
何かあったのだろうか。深山は少し心配になる。
「お母さん、どうしたの? こんな時間に」
『どうしたじゃないわよ。最近なかなか連絡付かないと思ったら、今日はこんな時間にようやく電話に出て……ずっと何してたの?』
「何って、仕事だよ」
『仕事ってあんた……ねえ、その会社大丈夫なの? ちゃんと休みは取れてるの?』
「うーん……今はなかなか休めない時期だから仕方ないよ。ちゃんと休める時期もあるから大丈夫だよ」
『そう言っても……』
「もぉ、お母さん心配しすぎだよ。ほんとに大丈夫だから」
『あまり大変だったら転職とかも考えるのよ?』
「結構大変だけど、大丈夫、大丈夫。それに、今はどこの企業も同じような感じだと思うし」
学歴も資格もなく、経験が薄い深山にとって転職をするのは現実的に難しい。
疲れているし、この話はもう終わりにしたかった。
話題を
ふと彼女は、謎の声について思い出した。
「あ、それよりお母さん。ちょっと変な話していい? なんか最近、お婆ちゃんの声が聞こえるんだ」
『お婆ちゃん?』
家だろうと会社だろうと、時も場所も問わず聞こえてくる声。
しかしその声は、もう何年も前に他界した祖母のものだった。
亡くなった人の声が聞こえるなんて不気味だが、お婆ちゃんっ子だった深山は気持ちが和やかになるのを感じていた。
「だから昔のことを色々思い出して、なんだかそっちの家に帰りたくなっちゃって。今度休み取れた時に――」
『ねえ、真理。今すぐその会社を辞めてこっちに帰ってきて』
「え、どうして?」
先ほどまでとは違い、母の声のトーンは一気に低いものになっていた。
深山は、昔
『お願いだから言うこと聞いて』
「でもダメだよ。今結構責任のある仕事してるし。あ、そろそろ家に着くから切るね」
『待ちなさい! このままじゃ死んでしまうのよっ!』
「は……?」
母からそんな言葉が飛び出すなんて思ってもみなかった。
しかし、深山はそれが冗談であるとは欠片も思えない。
彼女の母は嘘が嫌いなのだ。
『いい? 今から言うのは冗談じゃないわ』
そう念を押し、深山の母は重い声音で話し始めた。
『実は、お爺ちゃんもお婆ちゃんも、去年亡くなった叔父さんも言ってたのよ。亡くなった人の声が聞こえるって』
「え?」
『それも、亡くなる一週間くらい前から』
一週間前。
自分は声が聞こえるようになってから何日経つだろうか。
恐らく明日で、ちょうど7日目。
その事実を頭の中で確認した時、深山は背筋に氷を当てられたように身体を震わせた。
『お爺ちゃんはその声のことを“お迎え”と呼んでたわ』
「……そ、その話を信じて仕事辞めろって言うの?」
『おかしくなったと思うだろうけど、本当の話なのよ』
いや、待って。
深山は少し冷静になって考える。
亡くなった人の声が聞こえるなんて科学的にあり得ない。
ただの耳鳴りか何かで、祖母の声に聞こえたというのもきっと偶然。
そもそも深山には声が聞こえても、何を言っているかまでは聞き取れないのだ。
恐らく家系的に、疲れると声っぽいものが聞こえるとかではないだろうか。
しかし、この言いぶりからすると母をそう納得させるのは難しいだろうと深山は思った。
「そっか……じゃあ、考えておくよ」
『あ、ちょっと真理――』
適当に話を終わらせて電話を切った。
アパートに帰りつくとベッドに横になる。
その後も何度か母から電話がかかってきたようだったが、それに気付いたのは翌朝のことだった。
▼▼▼▽
朝になると、すぐさまシャワーを浴びてまた出勤。
途中コンビニに寄って朝食を買い、電車の中で食べた。
最近忙しすぎて昼食を取る時間も無いため、これが一日で唯一の食事になる。
職場に着くとすぐに仕事に取り掛かる。
早朝の時間は職務時間外。
給料にはならないが、この時間から頑張らないと仕事が終わらないのだ。
濡れた服を着ているような倦怠感。
ここ数日は特に仕事がハードだったため、疲れが限界にきているのかもしれない。
全力で仕事をして夕方を迎えても、まだまだやらなければいけないことはたくさんある。
今日も終電コース決定だ。
ふらつきを感じ、視界がぼやける。
目薬を差して目頭をマッサージ。
もうひと頑張りしようとしたところで――
……ねぉあ…………ぉ……ぃで
――例の祖母の声が聞こえた。
何を言っているかは聞き取れなかったが、言葉だということははっきりと分かった。
深山の祖父が“お迎え”と呼んでいた声。
昨日は現実的にあり得ないと結論付けた彼女だった。
けれども、過労による身体の限界を感じた時に声が聞こえたことで、母の話に
そうだ、これはいい機会なのかもしれない。
そもそもこれは、自分の身体を犠牲にしてまで続けることなのだろうか。
このままでは過労死してしまう。
深山はノートパソコンを閉じ、紙と筆ペンを使って退職願をしたため、窓際、課長の席へと向かった。
「あの、わたし、この仕事辞めます。退職金もいりません」
そう言って退職願を机にそっと置き、くるりと回れ右してオフィスを後にする。
「ちょっと待ちなさい!」
課長の怒号が聞こえてきたが、深山は速足で振り返ることもなく去った。
職場を後にし、外を歩く深山。
今朝までとは違い、彼女は宙へ浮きそうなほど肩が軽くなっているのを感じた。
これでもう、あの声が聞こえることもないだろう。
それはそうと深山は、仕事をなくしたが、きっとなんとかなる気がした。
実家に帰って、ハローワークへ通って。
これからの計画を立てる前にまず、母に連絡しようとスマホを取り出す。
…………まぃ…………おいで………
と、そこでまた声が聞こえてきた。
仕事を辞め、過労死のリスクから解放されたのにどうして――
そう考える深山の耳に、今度は布を引き裂くような悲鳴が。
後ろを振り向いた彼女の目に映ったのは、歩道に乗り上げなおも進行しようとする一般車両だった。
ここ数日の声は、この時のことを予言していたのか。
気付いた時にはもう遅かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます