第4話 ローザ・ロッサ

 ふと視線を感じて振り向いた。


 朝の通勤通学の時間帯。

 クールビズのサラリーマンや夏服の中高生、私服姿の若者。

 様々な人が往来おうらいする駅前で、ただ一人だけ足を止めてこちらを見つめる女性がいた。


 赤い長袖ワンピースに黒タイツ、赤い靴。

 雨でもないのに差している赤い傘。


 傘のせいで胸元より上は見えないが、恐らく若いだろうと思った。


 他の人にはその姿が見えていないのだろうか。

 明らかに浮いた格好をしている彼女のことを、誰一人として不思議がらず、それどころか見向きすらしていなかった。



 ▼▼▽▽



「……ということが最近何回もあるんだ」


 昼休みで混雑する大学の食堂。二人掛けのテーブルに男二人。

 正面に座った友人に、杉本すぎもとは自分に起こった奇妙な出来事を話した。


 すると友人は顔を輝かせて返す。


「いいなぁ、それバラ子さんだよ」


「ばらこさん?」


「そう、少し前から言われてる都市伝説なんだけど、確か片想いをしたまま亡くなった女性の霊だったかな」


「お前、適当なこと言ってないか?」


「違う違う、ほら、ネットにも書いてあるじゃん!」


 友人は杉本にスマホ画面を向ける。

 映し出されていたのは『バラ子さん』の掲示板。そこには、目撃情報や様々なエピソードが寄せられているようだ。


 普段の杉本であれば、こんな掲示板なんて、ただの戯言たわごとと笑って信じなかっただろう。

 しかし今も、窓の外には赤い傘を差した女がじっとこちらを見て立っている。

 信じざるを得ない。


 掲示板のコメントの一つ、『片想いをしたまま亡くなった女性の霊』というワードが目に入り、杉本は寒気を感じて身体を震わせた。


「怖いな……おはらいしてもらった方がいいのか……?」


「いや、それがそうでもなくてね。なんか、バラ子さんにかれると好きな人とうまくいくらしいんだ」


「は?」


「だから、今の杉本にはちょうどいいんじゃないのかな?」


 にやついた表情で友人がそう言った。

 杉本は複雑そうに顔をゆがめる。


「そう……かもな」


 杉本には今、想いを寄せる相手がいる。

 それはバイト先で知り合った大学生、水島優香。一つ年上なのに大人っぽくなく、杉本が守ってあげたくなるようなタイプの女の子だった。


 しかし、杉本が大学に入り、バイトを始めてこの1年。

 恋愛的な動きはまるでなし。

 デートに行ったこともあるが、お友達という雰囲気に満たされてしまい、全く進展がなかった。


 膠着こうちゃく状態の関係を進ませるためであれば、わらにも――いや、霊にもすがりたい思いである。

 その状況でのバラ子さんの登場は、良いことなのかもしれない。


「でもバラ子さんには、恋を叶えてくれるかわりに守らなきゃいけない条件があるんだって」


「その条件って?」


 友人が右拳を顔の前に出し、人差し指を立てて言う。


「条件1、バラ子さんを見つめてはいけない」


「いや、それは……」


 杉本は初めてバラ子さんを発見した時、あまりの不気味さに凝視ぎょうししてしまった。

 きっとそれも条件違反のはずだ。


「……もうすでに守れてないな」


「え、そうなの? でも条件はあと2つあるから安心して」


 まるでピースをするように、友人が今度は中指を立てた。


「条件2、バラ子さんに話しかけてはいけない」


「あ、いやそれも……」


「まさか……?」


 杉本は頷いて、つい昨日の出来事を明かす。


「実はあまりにも怪しくて、昨日話しかけてしまったんだ。何者なんだ?って」


「あちゃー……」


 友人は頭を抱えた。


「なら絶対に、条件3だけは守らなきゃダメだよ?」


「守らないとどうなるんだ?」


「確かなことは分からないけど、バラ子さんに好かれるとか殺されるとか、両極端な噂ばかりかな」


「それじゃ、あてにならないな」


「また詳しいことが分かったらすぐ言うよ。まあとにかく条件3なんだけどね」


 友人は顔の前に出していた手の三本目の指を立てる。


「バラ子さんに優しくしてはいけない」



▼▼▽▽



「お疲れさまです」


 杉本がバイト先の休憩室へ入ると、ファミレスのウエイトレス衣装に身を包んだ女性が振り向いた。

 黒髪ポニーテールに白い肌と、清楚で明るい雰囲気の女の子。

 あどけなさが残り、未だ高校生と勘違いされることも多い彼女の名前は水島みずしま優香ゆうか。杉本が密かに想いを寄せる相手である。


 水島は杉本ににこやかに手を振る。


「あ、杉本くん! お疲れさま!」


「水島先輩、お疲れさまです」


 二人の他に、休憩室には誰もいない。

 しかし、ふと廊下の方へ目を向ければ、明かりの消えた奥の方に、赤い傘がのおっと浮かんでいる。

 バラ子さんだ。


 その姿は不気味でしかないが、あれは一応恋を叶える存在。

 自分には追い風が吹いている。

 攻めるなら今がチャンスかもしれない。

 そう思い、杉本は水島とテーブルを挟んだ正面の椅子に腰を下ろした。

 そして、開口一番デートに誘おうと切り出す。


「あの、水島先輩」「あの、杉本くん」


 しかし、ちょうど話しかけようとした水島と被ってしまった。


「あ、えっと、先輩からどうぞ」


「ううん! 杉本くんから」


「いやいや、ここは先輩から」


「そ、そう? じゃあ」


 譲り合いの末、水島が話を始める。


「今度の日曜日、一緒に出掛けて欲しいところがあるんだけど」


「はいっ?」


「あ、ダメだった」


「いやっ! あの! そうじゃないです! 全然大丈夫です!」


 杉本はまさか相手の方から誘われると思っておらず、つい取り乱してしまった。

 何せ、水島の方からデートの誘いを受けるのは初めてのことだったのである。

 ともあれ、このようにして杉本は、意中の相手とのデートをすることとなった。



 その日を皮切りに、それから二人は頻繁にデートを重ねることに。

 そして、これまで関係の進展がなかったのが嘘のように、そのまま交際にまで至った。


 まさしくトントン拍子。

 バラ子さんが現れてすぐのことだけに、杉本は何の抵抗もなく彼女の力を信じたのだった。



▼▼▽▽



 三週間後。

 バイト先から帰ろうとした杉本。

 裏口の扉を開けたら、雨が降っていることに気が付いた。

 バイト前までは降っていなかったから、ついさっき降り始めたのかもしれない。


「うおっ!?」


 扉のすぐ隣にバラ子さんが立っており、杉本はひどく驚いてしまった。

 いつも近くにいるとはいえ、不気味なたたずまいなこともあり、こうして不意打ちを食らうとさすがに心臓に悪い。


 相変わらず傘のせいで胸元より上は見えない。

 何となくのぞき見るのも悪い気がして、見ようと試みたこともない。


 外見こそ不気味だが、バラ子さんのおかげで最近杉本の恋愛はうまくいっている。

 そう思うと彼は、なんだかバラ子さんが愛おしく思えてきた。


 もしかして彼女は、ずっとこの雨の中ここに立っていたのだろうか。

 自分がこのファミレスで働いているから。


 何かあげられるものはないか。

 そう思ってバッグの中を漁りだしたところで、不意に友人の言葉を思い出した。


 ――バラ子さんに優しくしてはいけない


 そうだ。

 危ないところだった。


 守らなければいけない条件3。

 これを破ったら、何が起こるか分からないのだ。


 だから杉本は、申し訳ない思いを込めてバラ子さんに視線を送ろうとした――が、しかし、そこにバラ子さんはいなかった。


 どこに行ったのか辺りを見回す。

 けれど、どこにも見当たらない。

 急に姿を消すことは今までもよくあったが、何となく胸騒ぎがした。


 ふと気配を感じて振り向く。

 開けっ放しの裏口。薄暗いバックヤードの廊下。


 その奥の方に、バラ子さんが立っていた。


 なぜ、そんな移動をしたのだろう。

 こんなことは初めてだ。

 理由を杉本が考え、固まっていた時だった。


 バラ子さんがわずかに傘を持ち上げた。

 すると初めて彼女の口元の辺りまでが見えるように。



 彼女の口は――――



 心底嬉しそうに、口の端をこれでもかというほど持ち上げて。


 そのまま、ゆっくりと口を動かして何かを話す。

 声は聞こえなくとも、何となく何を言っているのか分かった。



 あ  り  が  と  う



「いや、ちがっ――」


 バラ子さんがお礼を言った。

 杉本はその状況のまずさにすぐに気が付いた。


 彼は、バラ子さんに優しくしたことになったのだ。


 雨宿りのため、裏口から招き入れた。

 そう判断されたのである。


 杉本は途端に心拍数が上昇した。


 条件を3つ破れば、何が起こるか分からない。

 一体何が起こるのか。

 バラ子さんがいなくなる? バラ子さんに殺される? それとも――


 杉本は嫌な予感がして、すぐさま水島へと電話をかけた。


 彼の不安を拭い去るように、3コール目で彼女は出た。

 だが――


「優香先輩! とくに変わったことはない!?」


『もしもし?』


「ねえ、優香先輩!! 突然で焦るだろうけど――」


『もしもーし? 杉本くん? あれ、音聞こえないや』


「優香先輩……?」


 スマホ画面を確認するが、ミュートボタンは押してない。

 通話アプリの不調だろうか。


 そう考えていた時、バイト仲間が外から裏口へと駆け込んできた。


 ――ぶつかるっ!!


 そう思ってよけようとしたが、その必要はなかった。

 バイト仲間は杉本の身体をすり抜け、何事もなかったかのように休憩室へと入っていったからである。


 ……嘘だろ。そんなはずない……。

 杉本はすべてを理解した。


 誰にも見えず、声も届かず。

 ただ一方的に相手を見続ける。


 条件を3つ破った者は、バラ子さんと同じになるのだ。


 ――これは悪い夢か何かだ!! 早く目覚めてくれ!

 頭を掻きむしり、現実逃避をする杉本。


 そんな彼のことをバラ子さんは、ただ少し離れたところから見つめる。

 口が裂けそうなほどの笑みで。

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