第5話 動き出す1

 みんな過ぎ去っていった。かつてのぼくはもうどこにも存在しない。キラキラとした人生からは遠くかけ離れていて、現代社会のどこにでも居るような歯車の内のひとつ。

 ぼくにとって空白の八年間だった。

 十九才から二十七才へ。

 お母さんを信じなさい。と言われ続けた。

 せめてもの救いは、母の方のおばあちゃんにたまに会っていたこと。アルバイトのしんどさを言わずに過ごして来た。けれども、それは長年の疲れによる感覚のマヒかもしれなかった。それでも、おばあちゃんがぼくの心の支えだった。

 どうしたらいいのだろう?

 自分の人生に光が見えて来ない。

 その八年間はいったいなんだったのだろう。誰か教えて。どんな意味があったの。みんな過ぎ去っていった。

 かつてのぼくはもうどこにも存在しない。

 どこにも……。

「お母さんを信じなさい」

 おばあちゃんはそう言うけれども、もう不安でいっぱいだ。お母さんと会えなくなって、十一年がたつ。ぼくは思わずこう聞いた。

「ねぇ、どうしてお母さんは離婚をしたの?」

 少しだけおばあちゃんの表情が無になる。

 え……? ちょっと怖くなった。

「いいかい? お母さんはね、病気なのかもしれないんだよ……」

「え? どういうこと?」

 おばあちゃんの目は悲しそうだった。

「周りは病院に行くように言ったんだけどね……。本人は聞かなかったよ」

 ぼくはその言葉で頭が真っ白になる。

「いいかい? お母さんは本当に悪いことをした……」

 ぼくは怖くなった。

「お母さんはね、統合失調症かもしれないの。どうかお母さんを許してやってちょうだい」

 ぼくは言葉が見つからなかった。

 信じた先がそれだなんて。

 もういやだ。

 ぼくは家に帰っておばあちゃんの言葉を思い出している。知らなかった。でもお母さんが出て行ったあの日の辻褄が合う。段々と呼び起こされる。ぼくの願いはお母さんなんていらない、ということを。

 しかし、心のどこかではお母さんのことが好きだ。例え統合失調症の母であったとしても、それは変わらない。

 昔、お母さんに怒られたことも愛情なのだ。

 そう思うとぼくの気持ちに変化があらわれる。お母さんに会いたい。ぼくは一枚のメモを取り出した。それは今のお母さんの住所が書かれた紙。おばあちゃんから渡されていた。

 レターセットを買いに行く。

 どうしてだろう。

 どうしてぼくは行動するのだろう。なぜ。何かがぼくを突き動かす。この感情はなんだろう。初めての感情だった。

 ぼくは母が恋しくなった。

 手紙を書き始める。

 言葉を伝えたい。現在のぼくの気持ちを。それは大切なお母さんへ。どうか届いてほしい。泣きたい感情を振り払う。

 母への手紙にはこう書いた。

「お母さん、お元気ですか? ぼくはアルバイトを頑張っています。早いものです。もうお母さんが家を出てから十一年はたちます。ここでひとつ、お母さんに伝えたいことがあります。それは、この十一年間、お母さんのことを忘れたことはありません。どうか、お母さんはいつまでもぼくの母であり続けてください。

 お母さん、大好きだよ」

 ぼくは手紙をポストに入れる。

 返事は来るだろうか。

 ぼくは来る日も来る日もアルバイトを頑張った。ただ、お母さんからの手紙を楽しみに。それがぼくの光だった。

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