第四話 可愛いね、エマちゃんは

― 王国歴1043年冬-1045年初夏


― サンレオナール王都 貴族学院

 



 校舎の外に出るというナタニエルについて行きながら、私は彼に上着を取ってくると言えませんでした。外は少し寒かったのですが、彼を待たせることになってしまいます。そうすると校舎の外に出たところで、私の肩にナタニエルは自分の上着を掛けてくれました。


「こんなこと、いけませんわ。ナタニエルさまが寒いのでは?」


「大丈夫だから」


「本当によろしいのですか? ありがとうございます」


 私は素直に嬉しくて遠慮せずお礼を言い、ナタニエルに手を引かれて校舎の裏の森に入りました。流石にこの天候ではもう外に出ている学生はまずいません。速足の彼は森の奥深くに進んでいきます。


「ここだよ。この切り株の後ろ、ドレスが汚れないように気を付けて」


 彼が切り株の横の地面に落ちている木の枝をどけると、そこには穴が現れました。ナタニエルが先に降りて、私の手を引いてくれます。私は頭を屈めて穴に入ると横穴になっていて、かなり大きな洞窟でした。


「まあ、ここは……」


 地面には敷物がひかれています。ナタニエルが蝋燭に火を灯しました。二人で座っても余りある空間でした。外からは遮断されているので中は暖かく、快適でした。


「ルクレール第二秘密基地へようこそ。お嬢様お手を」


 ナタニエルは再び私の手を取って、彼はクッションの上に座らせてくれました。


「素敵なところですね。秘密の場所なのに私を招待して下さってありがとうございます」


「うん。だから誰にも言わないでね。パスカルにもだよ」


「分かりました。ありがとうございます、ナタニエルさま」


「ねえ、もうそんなに固くならずに、ナットって呼び捨ててよ」


「よろしいのですか? で、では……ナ、ナット」


「何どもっちゃってるの」


「だって緊張してしまって……」


「可愛いね、エマちゃんは」


 私はまだ十四で、恋愛の経験もなくて、憧れのナタニエルの言動に一喜一憂していました。まさか彼が私を恋の対象として見ているだなんて思ってもいませんでした。


 ナタニエルはその秘密基地などの由来を教えてくれました。彼のご両親や伯父さまたちの代から使われているそうです。第一秘密基地は同じ森の中の大木の上にあるとの事でした。そちらは気候の良い時期に使っているようです。


「いつでも好きな時に来ていいよ。僕が居なくてもね。今のところ他に使っているのは従弟のギヨームだけだし、彼はまず来ないから」


 ナタニエルがそんなに大切な秘密の場所を私に使わせてくれるなんて、信じられませんでした。




 それからは二人の距離が縮まっていくのに時間はかかりませんでした。


 冬の間、パスカルと昼食をとらない日に私は決まって秘密基地に行っていました。ナタニエルが居たら彼とお喋りをし、居ない時にはその快適な空間で一人で昼食をとり、くつろいでいました。


 クッションにもたれて蝋燭の明かりの下で本を読むのが私のお気に入りの過ごし方でした。洞窟の奥には穴が開いていて外は崖でした。そこも木の枝でうまい具合に覆われていて、浮遊魔法が使えるナタニエルは崖側から飛んで入って来ることが多かったのです。


 ある日私は一人でその秘密基地で宿題をしていました。そこにいきなりナタニエルが現れます。雪が降っている時など、彼は瞬間移動で来ることもあったのです。


「何をやっているの? 勉強?」


「明日提出の課題なのよ」


 少しずつですが、私もナタニエルに対して言葉遣いがくだけたものになっていました。


「どれどれ?」


 彼が覗き込んできます。そしてナタニエルの頭が私の顔に近づき、彼が私の方へ向きました。美しい青緑色の瞳が私の眼差しをとらえます。


 その瞬間、私の唇に何か暖かいものが触れていました。それは一瞬のうちに離れ、私は何が起こったのか分からないまま目を見開いていました。


「エマちゃん?」


 ナタニエルが悪戯っぽく笑っています。私は瞬きを繰り返しました。口もだらしなくぽかんと開いたままだったかもしれません。


「ちょっと、そこまで驚かなくてもいいじゃない」


「あっ、えっと……でも……」


 私の初めてのキスでした。確かにナタニエルとこの秘密基地で二人きりになることが多かった最近です。


 けれど、彼は女の子に不埒な行いをするような人ではないと信じていましたし、まず彼にとって私はそんな対象から大きく外れていると思い込んでいたのです。


「嫌だった?」


「そんなことないわ。けれど、貴方にキスされるだなんて……」


「この基地に君を招待してからずっと機会をうかがっていたのだけどね、僕は。だってマキシムみたいにどこでも人前でも堂々とする度胸はなかったから」


 私は真っ赤になって俯いてしまいました。確かにナタニエルの親友マキシムさんは女の子と良く一緒で、彼とは別の意味で有名人でした。


 私が恐る恐る顔を上げると嬉しそうなナタニエルの顔はまだそこにあって、今度は顎に手を添えられてもう一度口付けられました。


 何だかその日はそのまま午後の授業も上の空で帰宅してからも一人でにたにた笑いが止まらず、弟や家族に気味悪がられました。


(私、ナットにキスされたのよね……きゃー)




 けれど、学院では堂々と一緒に歩いたりも昼休みに二人で食事をしたりも出来ませんでした。何となく恥ずかしかったのです。ですからいつも秘密基地で会っていた私たちでした。


 季節は春になり、私とナタニエルは校庭で休み時間に会うこともありました。周りに交際を宣言したわけではありませんでしたが、私が仲良くしていた同級生やナタニエルの友人たちは私たちのことを応援してくれました。


 ナタニエルはいつも優しくて、時々やんちゃな一面を見せます。彼のことがどんどん好きになっていく私でした。




 知り合った時から二年近く経つと、軽い触れるだけのキス以上のことにも私は興味を持ち始めました。けれどまだそんなことを学生のうちから、しかも婚約もしていないのに、という考えが私の中には強くありました。


 ナタニエルは私のためらいを察していたのでしょう。大事にされている、と実感していました。彼は私が嫌がることはしないし、とても紳士的で二人きりの時も軽く抱きしめて口付けてくるだけでした。




***ひとこと***

ナタニエル君の愛称はナタンとナットです。家族はナタンと呼んでいます。他のシリーズ作にも出てきている彼の親友マキシムだけはナットと呼んでいました。私はエマにもナットと呼ばせたかったのです。地の文ではナタニエル、会話文ではナットとナタン、どれも同人物を指します。少々紛らわしくて申し訳ありません。

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