ネズミ殺し

 そこはロンドンでも治安の悪いことで有名な場所だった。かつてシェイクスピアの活躍したシアター座を作ったジェームズ・バーべリッチが一番初めの劇場を作った場所。ジョディッチ地区にロビンとエドワードの姿はあった。

 工業化に伴い、アイルランドやウェールズ、ユダヤ人などの移民を多く抱えるこの地区は、壮麗なロンドンのシティ街とはうって変わり、違法に建築された家屋が空き地に混じって点在している。

 焚火をしながら不気味に微笑む浮浪者のすみを通る。すると、彼はお恵みをと言ってロビンの先をいくエドワードに手を差しのべた。エドワードは薄く微笑み、彼に少しばかりの硬貨を渡す。

「ミス・レッドから聞いた。今日は生きのいいドブネズミたちがたくさん捕れたんだって」

「へい、坊ちゃん。ライオン座にてご覧いただけますよ。あの小さいライオンみたいに生き残ってる猛者の小僧もいやがる」

 ぴくりとエドワードの眦がかすかにあがるのを、ロビンはみた。彼はすっと眼を細め襤褸をまとったその老人に言葉を返す。

「案内してくれないか。金ならこの前の倍持ってきた」

 蒼い彼の眼が氷のような冷たさを帯びる。金を受け取った老人はびくりと肩を震わせたが、ぎこちない笑みを浮かべ言葉をはっした。

「畏まりました、旦那。料金は3ギニーとなっております」




 ネズミ殺しを自分たちは見に来たのではなかったのだろうか。そんな疑問を抱きながら、ロビンはエドワードに連れられ、とある劇場へと足を踏み入れていた。劇場といっても木造でこしらえた粗末なものだ。平土間には何匹かの犬が鎖で繋がれ、その犬に向かって負けるんじゃねえ、やっちまえとヤジを飛ばす観衆たちがいる。

 ロビンはその観衆たちの座る桟敷席にいた。3ギニーというかなり高い金額を払ったにも関わらず、通されたのは襤褸同然の劇場。犬がいるところをみても、これから始まるのは市内のジンハウスでもよく見られるネズミ殺しとしか思えない。

 ただ気になるのは、劇場の大きさがネズミを追いかける場所としては広すぎると思うことだ。巨大なドブネズミでも放つつもりだろうか。

 周囲にいる客も貧民層が多いのか、糞尿のような匂いをまとったものが多いい。その中に自分たちのような身ぎれいな格好をした男たちも混じっているから、とてつもなく奇妙な場所に思える。

「ここのネズミ殺しは、でかいドブネズミでも使ってるのか?」

「そうだね、とびっきり大きいドブネズミを使ってるよ……」

 冷たいエドワードの声が隣から聴こえる。ロビンがエドワードを見つめると、彼は平土間に繋がれた犬たちを鋭い眼差しで睨みつけていた。

 鋭い牙を剥き出しにして吠える犬たちはかなり大型だ。犬の種類に詳しくないロビンが見ても、猟犬かそれ用に育てられた犬だと分かる。

 そんな犬たちがいる平土間に、大人たちと共に数人の子供たちが入場してきた。よく見ると、子供たちは鎖で足を繋がれている。その鎖を付き添っている大人たちが、そっと外していくではないか。

 嫌な予感がした。予感以前に、ここでいう『ネズミ』が何なのか、ロビンは悟っていた。

「今日は生きのいい泥雲雀たちが活躍します! どうぞ皆さん、彼らに声援を!!」

子供たちを引き連れた男が、賭けの開催を高らかに告げる。それと同時に、足に巻きついた子供たちの鎖が外されていく。鎖を外された子供たちは、泣き叫びながら平土間を駆け巡る。その子供たちを、一斉に解き放たれた犬たちが追いかけだした。

 歓声が劇場を満たす。何が起こっているのか、ロビンは理解できなかった。ドブネズミを追いかけるはずの猟犬たちが、捕らわれていた子供たちを追いかけ回していく。地面に倒れ、泣き叫ぶその子を、猟犬たちの群が襲う。

「何かあったら、これで身を守って……」

 隣に座るエドワードの声が、遠くで聴こえているみたいだ。彼は唖然とするロビンの膝に拳銃を乗せ、桟敷席から身を乗り出していた。

 平土間に降り立ったエドワードの乱入に、観客席のからざわめきが起こる。エドワードは子供に襲い掛かる猟犬の群へと、物凄い勢いで突っ込んでいくではないか。

「エドワードっ!」

 我に返りロビンは叫んでいた。そんなロビンの叫びをあざ笑うかのように、エドワードは犬の一匹を回し蹴りで吹き飛ばし、唸り声をあげる別の一匹の首をナイフで切りつけていた。

 子供に群がっていた犬たちは、いっせいに吠えながらエドワードへと向かっていく。首元に肉薄する一匹を、体を捻った蹴りで撃退し、足に食らいつこうとするもう一匹には姿勢を低くしゃがんでナイフの刃を食らわせる。腰を曲げたままエドワードは平土間を駆け抜け、自分に襲い掛かる犬たちをナイフで切りつけていくのだ。

 エドワードの出現に、観客たちは狂ったように喝采を送っていた。どうやら、このネズミ狩りの主催者が仕掛けた余興だと思っているらしい。

 余興なんて生易しいものではないとロビンは思う。襲い掛かる犬たちに向けられるエドワードの眼は、氷のように冷たかったからだ。鋭い殺意をその眼は宿し、襲い掛かる猟犬たちを確実に仕留めていく。

 やがて、平土間に犬がいなくなる。

 そこにいるのは、血濡れた犬の死骸を怯えた様子で見つめる子供たちと、地に濡れたナイフを持つエドワードだけだ。会場は乱入してきた青年への歓声で沸き立つ。涙に顔を濡らす子供たちへと、エドワードは髪を翻して駆け寄っていく。子供たちは、返り血を浴びた彼に怯えた眼差しを向け、彼を見るなり悲鳴をあげて逃げ出していく。

 そんな子供たちに片手を伸ばしながら、エドワードは立ち止まる。彼の眼は悲しげに潤み、エドワードは力なく頭を垂れた。

「エドワード……」

 彼が子供たちを助けた。その子供たちに拒絶される彼を見て、ロビンは胸を痛めていた。そんなエドワードのもとへと数人の男たちが駆け寄っていく。子供たちを平土間に連れてきたやつらだ。

 エドワードが鋭く眼を細めてそんな奴らを睨みつける。男たちの手には、エドワードを襲うためなのか得物が握られていた。エドワードが危ない。そう思った途端、ロビンは膝に乗った拳銃を握りしめ、桟敷席から平土間へと跳び込んでいた。

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