第2話

 この全世界は、約十五パーセントを除き、人類が足を踏み入れてその観測下にある。

 だが、ほとんどの人類は知らない――その中に、観測することができない、未踏の領域が存在する、ということを。

 特殊な磁場により、空間すら歪められた、不思議な空間――それこそが、異境だ。

 そこには獣の耳や、鱗の肌を持つ人々が、のんびりと暮らしている――。


 身も蓋もない言い方をしてしまえば、異世界である。


 そこから来た少女は、ぱたぱたと犬耳を揺らしながら、出された冷たい麦茶を両手で包み込む。こく、こくと喉を動かし、美味しそうに目を細める。

「んんん――美味しいっ! 炎天下の後での、冷たい麦茶は最高だねっ!」

「ごめんな。サラ。待たせたみたいで」

「ううん、私も急に押しかけたみたいなものだし。気にしないで」

 ぱたぱた、ぱたぱた。嬉しそうに犬耳を揺らすサラ。

 昔に比べて、目鼻立ちも大人びて、すっきりとした魅力が帯びているが――ウェーブのかかった栗色の髪と、大きな琥珀色のくりくりした瞳は昔と同じ。

 里では着物姿だったが、こちらに合わせたのか、白い英字Tシャツに、ホットパンツと涼しげな服装だ。ホットパンツからは、ひょっこりともふもふの尻尾が覗かせている。

 面影はそのままだが、美少女になってしまった幼馴染を見て、少しだけ落ち着かない。

 ひとまず、と僕は座卓を挟み、サラの反対側に腰を降ろす。

「それで――サラ、なんでまた、こっちに? 里からの指示か?」

 その言葉に、サラは背筋を正すと、コップを座卓に置いて真っ直ぐに見る。

「うん――実は、里からの指示で、お兄ちゃんの護衛に来たの」

「ご、護衛――? 穏やかじゃないな……」

「実はね、隣の異境からの報告なんだけど――こっちにいる、私たちの同族が、襲われている、ってことなの」

 その報告に思わず目を見開く。

「僕たちを、狩る連中が? 本当か?」

「真偽は分からないけど、それを確かめる意味でも、私はこっちに来たの。ハルトさんに、連絡はつけられるかな。リントお兄ちゃん」

「兄さんに? もちろん、できるけど――」

 僕の兄、ハルトも異境の出身であり、今は探偵業を営んでいる。

 ちなみに、日本の興信所みたいな、身元調査ではなく、米国の探偵ライセンスを取得したガチガチの、ガチの探偵である。帯銃も、している。

 その権限で兄さんは、いろんな国を飛んで依頼を引き受ける。

 その依頼は基本的に、異境の住民関係――つまり、彼は異境のトラブルシューターだ。

「兄さんと、里の連絡を仲介する――それが、僕の役目だしね」

 スマホを取り出し、メールを素早く作る。サラが来た旨と、その用件、折り返し連絡が欲しいということを書き込んでメールを送る――これで、よし。

「これで、兄さんから折り返し連絡が来ると思うけど――サラ?」

 ふと、サラが身を乗り出し、きらきらと目を輝かせていることに気づく。その視線の先には、僕のスマホ――。

「ああ、見慣れない道具か。携帯電話――スマートフォンというのだが」

「こ、これが噂に聞く、スマホ……っ! 実物は、初めてっ!」

 そりゃそうだ。里ではつい最近まで無用の長物だったのだから。

 ちなみに、異境の里だが、各家には自家用発電機が備え付けられている。冷蔵庫などの家電もあり、実は少しだけ近代文化を取り入れてはいる。

 とはいえ、水道は山からの湧水、トイレは汲み取り式、ガスはなく燃料は薪だが。

 苦笑いを浮かべてサラに手渡すと、彼女は宝物を受け取ったように、ぱあぁ、っと顔を明るくする。

「うわ、光った――これが液晶……あぷり……うわぁ、うわ……」

「で、あとは兄さんの連絡待ちだな。で、護衛となると――しばらくは、サラはこっちで暮らすことになるのか」

「うんっ、そうなるよ……この、あぷりは……ふぁん、ざ……?」

「それは開いちゃいけない」

「……なんで?」

 大人のアプリだからです。

 ごまかしついでに、ゲームアプリを教えてあげる。パズルゲームを、犬耳をぴょこぴょこさせながら、サラが熱中していると、不意にその耳が立った。

「わふっ、ぴこぴこ点滅した。メール、みたい」

「ん、兄さんからか?」

 スマホを返してもらう。少しだけ名残惜しそうなサラに、僕は笑いかけた。

「そんなに残念そうな顔をするな。今度、買ってやるから」

「い、いいのっ!?」

 ぴょこんっ、と勢いよく犬耳が飛び上がる。心なしか、尻尾もうずうずと動いている。

「ああ、こっちに滞在するなら、必要になると思うし。いろいろあるだけで便利だからな」

 自分の名義で契約して、彼女に渡しておけばいいだろう。それはそうと、メールは――。

「兄さんから――確認して折り返し連絡する。しばし待て、だって」

「はえぇ、便利ぃ……」

「便利だよ。GPSとかの機能を使えば、今、どこにいるのか分かるし、地図で案内もしてくれる。いろいろと検索もできるし」

「ネット社会バンザイ、だねっ! 里でも通販出来るようになったし」

「何気にそれが謎なんだが……まあ、ひとまず置いといてだ。サラの住む場所は、どこに? 里はもう手配してくれたのか?」

 最後に気になっていたことを訊ねると、うんっ、と彼女は元気よく頷く。

「兄様のこの部屋だよ!」

「それは手配したって言わない。横着しているだけだぞ」

「べつに、私は構わないよ?」

「あのな……ここで僕は一人暮らししているんだぞ? 女の子の貞操とか考えなさい」

「昔は一緒に寝ていたじゃない」

「いや、確かに同じ布団で寝ていたこともあったけど……日本のことわざには、男女七歳にして、同衾せず、という言葉があってな……」

「十二歳まで、一緒に寝ていたよね?」

 楽しそうに目を細め、からかってくるサラ――昔から、こういう悪戯好きなところは変わらないな。僕は軽くその額に手を伸ばして小突く。

 あうっ、と悲鳴を上げる彼女に、苦笑いを向けた。

「あんまりからかうんじゃないの――言いたいこと、分かるよな?」

「分かるけど……ダメ?」

 上目遣いでのおねだり。思わず、どきっとするもの、平静を装って言葉を返す。

「ダメです。サラも、その、かわいくなったんだから、気をつけなさい」

「か、かわいい……えへへ……うん、分かった」

 にへら、と表情を緩ませ、尻尾を少し揺らすサラ。だが、すぐに舌をぺろっと出して告げる。

「でも、冗談。里が、ちゃんと部屋を用意してくれたよ? この隣だけど」

「隣、か。確か空き部屋だったな」

「うん、そっちに部屋を借りて、お兄ちゃんを護衛するの」

「ああ――心強いな。サラが、傍にいてくれるのは」

 手を伸ばしてサラの頭を撫でる。ふわふわの髪が手に優しい。彼女は居心地が良さそうに目を細めてくれる。

 異境の住民は、総じて身体能力が高い。護衛としては最適だ。

 僕の場合は『封印』のせいで、通常の人並みの力しか出せない。そこに来てくれたサラはありがたい、のではあるが……。

「問題は、その異境の住民を狩っている存在、か……」

「うん、純粋に私たちの実力を上回る可能性があるから、そこだけは気をつけないと」

「来ないことを、願うが」

「二人の暮らしが、乱されちゃうからね」

 しれっと二人で暮らすことを前提にしているサラ――まあ、隣人同士になるし、護衛だから生活も一緒になるとは思うが。

 新しい生活の予感に、胸が少しだけ高鳴る。

 サラは嬉しそうに笑うと、尻尾をぶんぶん振って見せた。

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