バスルーム・ウェディング・ゾンビ
木古おうみ
上
窓もなく湿気った熱の立ち込める脱衣所の蛍光灯が切れると、世界が死んだような気分になる。
廊下の明かりは半開きになったアコーディオンカーテンに遮られてほとんど入らない。全開にしようかと思ったが、腰を浮かせた瞬間、浴室の中の母が磨りガラスを一際大きく叩いたので、僕はまたドアを塞ぐように置いた椅子に座り直した。
扉の向こうはときどき海が凪いだように静まり、すぐにまた母が暴れる音が聞こえ出す。引き戸の開け方がわからないのだろう。ドアの冷たさで、押し付けている背中が濡れたような気がした。
夜の十時を回ったのに、制服のままだったことに気づく。家に帰ってから四時間はこうしていることになる。
スマートフォンを開くと、青白い光の眩しさが目を刺した。通知はなし。充電もそろそろ切れそうだ。
リビングから聞こえてくるテレビは、野球選手と女優の結婚を伝えていた。
アナウンサーの声が低くなり、『新不自由者』を国会で「ゾンビ」と呼んだ議員の辞任の話題に変わる。
僕は耳を塞いだ。聴覚が消えて、仄暗い視界だけになる。
目の前にあるのは、半分に切った歯磨き粉のチューブと新品のものが一本ずつ、首吊り死体のようにぶら下がるヘアアイロン、緑とオレンジの二層になったカクテルのような整髪剤、ベビーパウダー。これは母が油染み防止用にシャツの襟に塗る。
洗面台に細長い茶色の髪が張り付いてひびのように見えた。
母がドアを叩く音に、嫌に湿った響きが混じり出し、僕は背後のガラスに血濡れの手形がついているのを想像した。
僕はまぶたを閉じる。
耳を塞いでも聞こえてくる鈍い音と自分の血潮の他に、規則的な水音が響いてくるのがわかる。シャワーが水漏れしているのだろう。
僕は目を閉じて水滴の音だけを数え、自分の身体から一滴ずつ血が流れていくのを想像する。
このまま死ねたら、と思う。
暗闇を甲高いインターホンのチャイムが切り裂いた。
僕は目を開け、椅子から飛び降りる。一瞬迷ってから、昨日の体育で使ったジャージや母の寝間着の詰まった洗濯カゴを椅子の上に置いた。
ドアを開けると、土気色の顔をして息を切らせた
慌てて解いたのか、くしゃくしゃのネクタイを左手に持ち、シャツのボタンが胸元まで開いていた。
「翔子さんは?」
「風呂場」
と、答えると、奥多は僕を肩で押しのけるように玄関に入る。土足で廊下に上がりかけてから、もどかしげに石畳に踵を打ち付けて靴を脱いだ。
僕の記憶では一度しか来たことがないように、自分の家のように風呂場へ奥多の後を追って廊下を進んだ。
「幸太くんは、ケガないか」
「大丈夫、です」
僕たちは脱衣所のアコーディオンカーテンの前で立ち止まった。
暗がりにカチカチという音が響いて、電気のスイッチを探っているのだとわかる。
「電球、さっき切れちゃったんです」
奥多は無言でトイレの電気をつけ、個室のドアを開け放った。
薄くぼやけた光に、浴室の母の姿が浮かび上がる。
光の屈折でゆがんだ黒い影は人間というより巨大なトカゲやヤモリのようで、ガラスに貼りつく十本の指だけがやけにくっきりと見えた。奥多の喉仏がわずかに下がる。
「いつから?」
「夕方帰ったときはもう、こうでした」
「俺が入るから、幸太くんはドア開けてくれ」
僕は頷き、ひと思いに扉を押し開く。ドサリ、と影が質量をもって倒れてきた。奥多が割り込んで、僕の視界を遮るように立った。
「幸太くん、タオルとガムテープみたいなもんないかな」
「今、持ってきます」
薄い闇の中で、僕は洗面台の下の物置きを開ける。むき出しのパイプを隠すように並ぶ、クレンザーやスポンジの替えの奥から養生テープを取り出した。タオルは洗濯機の上のカゴごと渡す。
奥多は素早く受け取ると、
「あとは俺がやるから」
と、僕を押しのけるように風呂場のドアを閉めた。
ドアが閉まる前の一瞬、肩越しにはっきりと母の姿が見えてしまった。もつれた茶色の髪の中から除く、卵の白身のような目と、唾液が乾いて赤く割れた唇。
僕は静まり返った居間に戻って、ダイニングチェアに座った。そら豆型の小さなテーブルと椅子が三脚のセット。奥多と籍を入れたら買い替えたいと、母が話していたのを思い出す。
つけっぱなしのテレビは、脱衣所で聞いたニュースの続きをやっていた。脳及び多臓器不全者、新不自由者への差別的発言。どんな呼び方をしてもゾンビはゾンビだ。
五年前、父が家を出ていった頃、日本にゾンビが現れた。
新種の病気の一種だというが、白目を向き、死人のような歯茎を見せて噛みつく姿は映画のゾンビとしか思えなかった。
一時は避難命令が出て、僕と母は入学したばかりの中学校に集まった。結局、命令はすぐに解除され、ゾンビを保護し隔離するための法律も施設もできた。
あのときは、体育館に集まった友人や近所の住民みな僕を母の名字で呼ぶことの方が、ゾンビよりもずっと異様に感じた。別の世界に放り出されたようだった。
「どんな名前でも、ゾンビはゾンビだ……」
そう呟いたとき、視線を感じて振り向くと奥多が立っていた。微かに息を切らせ、ネクタイはゴミのように丸めて胸ポケットにあった。
「終わったよ……とりあえずな。タオルを噛ませて、ガムテープで留めた。腕も暴れて爪がわれないようにしておいた」
「ありがとう、ございます」
僕が立って椅子を引こうとすると、奥多は片手を上げて制し、崩れるように座った。
顔色は酷く悪いが、暗い目元には母にあった細かい皺がひとつもないのを見て、まだ若いのだと改めて思った。
来年から僕の父親になるはずの男は、僕と十歳しか変わらない二十七歳だった。
奥多の視線は細かい傷のついたテーブルの上の透明な灰皿に留まっていた。
縁に立てかけてあったピアニッシモの箱を退けて、奥多の方に押しやると、奥多は疲れ切った仕草で、
「いいよ」
と、首を振った。
僕は母の煙草から一本取り出し、中に押し込めてあった細いライターで火をつけた。味もなく喉を乾かすだけの煙を吸って吐く。
奥多は驚いたように目を見開いで、それから苦笑した。
「不良だな、幸太くん……」
奥多は胸ポケットから丸めたネクタイを放って自分の煙草を出す。
無風のリビングでも手で覆い隠すように火をつけるのを見て、どこかの町の喫煙所で母と笑いながら煙草を吸う奥多の姿を想像した。
「どこかで噛まれたのかな」
「たぶん、そうだと思います。帰ってきたときにはもうああなってて……」
「噛んだ方はもう回収されたんだろうな」
奥多は保護と言わずに回収と言った。母を噛んだゾンビが法で守られるのが気に食わないと思ってくれているからだろうか。
僕はまだ母の髪を歯の隙間に挟んだまま徘徊するゾンビを、後ろから硬い棒で殴り殺すのを想像する。
あまりにも現実味がない。
「幸太くんを噛まないように、風呂場にこもったんだろうな」
「それは、違うと思います」
奥多は片眉をわずかに上げて僕を見た。
「母さんは嫌なことがあると、いつもお風呂場に閉じこもるんです」
「昔から?」
「自分の物を持ち込んで、ひと晩中とか二日とか出てこないこともあります」
「そういうとき、風呂はどうしてるんだ?」
妙なところを気にする男だと思った。
「学校の体育館のシャワーを使ったり、入らないときもあります」
「そうか。酷い、母親だな……」
自分が結婚する女への言葉だとは思えない。離れて暮らす父親のような言葉だと思った。
母が籠るたび、ドアの前で教師のように叱る父の姿が浮かぶ。
無音の暗いバスルームを見て、呆れたように首を振り、車で僕を隣町の銭湯に連れて行った。
僕は灰皿で母の細い煙草を擦り潰した。
「なぁ、施設に連絡した方がいいんじゃないか……」
僕は首を横に振った。
「どうして?」
答えられなかった。奥多は何も言わずに、また灰皿に視線を落とした。
沈黙が透明のガラスの壁になって垂れて、紫煙がテーブルの上を緩く這ってから逃げるように消えた。
指の先でボロリと灰が落ちて、奥多はそれを掬い、火の消えた煙草と一緒に灰皿へ捨てる。時計を見ると、もう少しで日付けが変わる頃だった。
奥多は放ったネクタイを締めず、再びポケットに押し込んで席を立った。
「……ひとりで大丈夫か?」
「大丈夫です」
明日は休みだから何かあったら連絡してくれと、渡されたメモには携帯の番号が書いてあった。
靴ベラを使わずに靴を履いた奥多は、玄関で見送る僕を振り返って言った。
「なぁ、もし、風呂に入りたかったら、うちのを貸すよ」
「奥多さんの家のを?」
思わず聞き返すと、
「家は近いから。自転車を使えばすぐ来られる」
「……大丈夫です。いいですよ」
奥多は曖昧に頷いて、静かにドアを開けた。マンションの常夜灯の光が長方形に差し込む光景に、この男が家に初めて来た日を思い出す。今年の春、母が奥多を連れてきて、三人で海沿いのファミリーレストランで食事をした。母だけがよく話す、葬式のような夕飯だった。
僕たちを家まで送ってきた奥多に、母はドアにもたれた姿勢で「泊まっていけば」と言った。奥多は曖昧な表情で、「いいよ、そういうのは」と答えただけだった。
なぜ、バスルームで呻く影を見たとき、僕は母の携帯から父親ではなく奥多に連絡したのだろう。
ドアが閉まり、家中に静寂が満ちる。洗面所の明かりだけが、廊下に亡霊のように尾を引いていた。
ベッドに入る気にならず、リビングのソファで風呂場からの聞こえない音に耳を澄ませているうちに、カーテンの隙間から見える空が白くなっていた。
布団替わりに肩にかけていたクリーム色のセーターを着て、椅子に被せてあった地味なブレザーを羽織る。
家を出ようとして、昨夜と同じ明るさで洗面所が光っているのを思い出す。わざと音を出して舌打ちしてから、廊下を戻った。
スイッチを押すだけだ、と言い聞かせて、冷気の立ち込める洗面所に入る。風呂場のドアはしっかりと閉められていた。
置き場がわからなかったのだろう、空になったタオルの箱が片隅に押しやられている。
僕はそれを取り上げ、洗濯機の上に戻す。
母が買った、夏用のカフェカーテンが綺麗に折りたたまれていた。
僕は冷たい引き戸に手をかけ、紙一枚ほどの薄さでドアを開ける。
母は頭を両膝の中に隠すようにうずくまっていた。いつもの拗ねて風呂場に閉じこもる姿勢とまったく同じで、思わず心臓を掴まれたような感覚になる。
父さんについてった方がよかったって思ってるんでしょう。
そんな言葉と鼻にかかった枯れ気味の声まで、生々しく蘇って僕はドアを閉める。向かいの鏡に映る僕の顔は蒼白で、目が赤い霧がかかったように充血しているのが泣いた後のようだった。
母がこうなって、まだ一滴も涙は出ていない。
***
外は晴れて朝日が眩しかったが、明るさに反して温度はない。十一月の朝だ。
頭の中は、さっき見た母の恐竜のような骨が浮いたうなじに支配されているのに、靴の先はしっかりと学校へ向かっていた。ゾンビもこうして彷徨うのだろうか。日差しが首筋をついばむように照った。
教室に入ると聞き慣れた声がさざなみのように襲ってきて、脳裏に張りついた母の姿が洗い流されるような気がした。
教師はまだいない。
机に肘をついていた友人の佐藤が、僕を見とめて叫んだ。
「麻野ぉ、CD持ってきてくれた?」
この名字で呼ばれるのも今では違和感がなくなったと思う。小学生まで自分のものだった降田の名字を名乗るのは、もう父しかいない。
「ごめん、忘れた。明日返す」
「明日土曜日だよ」
「悪かったって。じゃあ月曜」
そう言いながら自分の席に座ると、あまりにもいつも通りで、家に帰ればピアニッシモを吸いながら、看護師の仕事の帰りに買ってきた惣菜を温める母がいるような気がする。
せめて学校にいる間はそう思い込もうとしたとき、周りがふと静まった。佐藤が小さく呟く。
「また昨日と同じ服だよ……」
一瞬どきりとして顔を上げると、佐藤は顎で教室のドアを指した。
高木が登校してきたのだ。
昨日と同じグレーのカーディガンに脂の浮いた髪、寄れたズボン。学校から帰ってすぐ施設に行ってひと晩過ごしたのだろう。
視線を背中に受けながら高木は僕の斜め前に座り、重たい鞄を下ろした。
高木の父親がゾンビになったことは学年で周知の事実だった。
夏休みの最中、高木の父がちょうど小さな祭りをしていた商店街で、ふたりの通行人に噛みついてから保護されたのを何人もが目撃している。
それから毎日のように施設で父親と面会していると噂の高木に、ほとんどの人間は深入りしなかった。
たまに絡みに行く奴がいるだけ。
今も数人に取り囲まれて、何も答えず黙々と教科書を取り出す姿がゾンビのようだと思う。
それが無意識に通学路を辿った今朝の僕と重なる。高木の突き出た唇が、ゾンビの子どもはゾンビになるのだと嘲笑っているように見えて、腹の底が熱くなるのを感じた。
佐藤は高木と他数人を一瞥して、年末にあるフェスのチケットをネットで見つけたが定価の五倍だった話を始める。
「来月まで待てば値段下がるって」
「でもさ、もう品薄なんだよぉ」
真剣に眉をしかめる佐藤の顔に僕は笑う。高木も、母も、ゾンビも思考の隅へ追いやりたかった。
「いい加減にしろよ」
上から響いた低い声で、現実に引き戻される。見上げるとクラス委員の梅津の背中があった。斜め前の席を囲んでいた男子たちが、気まずそうに視線を漂わせている。佐藤が驚いたように口をすぼめていた。
「高木は何も悪くないだろ。新不自由者が何だよ。同じ人間だろ」
目の底が明滅して、視界が昨夜のバスタブに塗り替わる。母の卵白のような瞳、唾液を含んで腫れた赤い舌。それを見て息を呑んだ奥多の、上下する喉仏。
同じ人間って、言ったのか。
「お前、ゾンビ、見たことあんのかよ」
一瞬誰の声かと思い、遅れて自分が言ったのだと気づく。僕は椅子を引いて立ち上がった。ゆっくりと上げた腕を、ブレザーの固い布地が制止するように締めつける。僕は、これを誰に振り下ろすのだろうか。
唇をさらに尖らせた高木、状況がわからないという顔をしたクラスメイト数人。
振り向いた梅津の頬骨は、熱く、硬かった。
衝撃音とともに床板に倒れたクラス委員の胸ぐらを掴み、僕は腿でその脇腹を挟んでのしかかる。周りの生徒が、ざっと距離を取る靴や椅子の足の音がした。
頬を抑えようとする梅津のシャツを絞り、強くゆすった。
「ゾンビ、見たこと、あるのかって聞いてんだよ」
怯えた目で顔を庇おうとする梅津をさらに引き寄せたとき、チャイムが響いた。
急に自分の手から力が抜け、クラス委員は電池が抜けたように床に叩きつけられる。
「麻野、落ち着こう、な」
いつからあったのか、背中にそう声をかける佐藤の手が置かれていた。僕は梅津の襟にできた山脈の模型のようなしわを手で払い、立ち上がる。
「先生に、なんか聞かれたら早退したって言っておいて」
僕は鞄を掴んで、教室を走り出た。高木と肩がぶつかったとき、小さな悲鳴が聞こえる。
飛び出した廊下は、ホームルームが始まったせいか無人で、どこまでも白く伸びていた。
***
まだ閉まっていなかった校門を抜け、走りながら、僕は必死で携帯に番号を打ち込んだ。
昨日もらったメモの奥多の番号。
自分がどこに向かっているかもわからないが、携帯を耳に押し当て、とにかく出てくれと願う。呼び出し音五回で電話が通じた。
「奥多さんっ、僕です、幸太です」
「あぁ……どうした」
掠れた声は電波のせいではなく、さっきまで寝ていたのかもしれない。
「やっぱり、お風呂、入りに行ってもいいですか?」
「風呂……? いいけれど、俺の家知ってたか……」
「わかりません、どこですか」
足がもつれて転びそうになり、僕は慌てて止まる。途端に酸素が薄くなり、片膝に手をついたまま必死で呼吸をする。
靴が室内履きのままだったことに気づいた。
電話は何も聞こえない。もしもしと聞くと、
「なぁ、幸太くん……、大丈夫か?」
息が切れて何も答えられなかった。
「……学校は?」
「早退、しました」
スピーカーの向こうで奥多が小さく息をつくのが聞こえる。教室では聞くことのない、くたびれた大人の声だと思った。
「今どこにいる?」
辺りを見回すと、巨大なタコを模した滑り台が見えた。
「駅前公園のすぐ側です」
「わかった、二十分で着くからそこで待ってな」
そう言って電話が切れた。冷えた汗が背中を滑り落ちて、襟から死人に手を差し込まれたようだった。遠くで授業開始のチャイムが聞こえる。
奥多を待つ間、僕はブランコを囲う手すりに座って待った。
遠くからでも目立つタコの滑り台以外寂れた公園だ。
幼児が落ちて大ケガをしてから、テープで封鎖されたまま錆びたジャングルジム。その先に見える、老人ホームになるはずだった更地と埃を被ったクレーン。
いらないのに撤去されないものがこの街には多すぎる。
いっそ、その筆頭のゾンビたちが街を壊してくれればいいと思う。母も風呂場から出て、町中のひとやものに噛みつく作業に加わる。最初に母が撤去するのはやはり、親が変わり果てても涙ひとつ出ない薄情な息子だろうか。
二十分をわずかに過ぎて、公園に奥多が現れた。
黒の薄いセーターを着て、褪せたジーンズを履いていた。ワイシャツを着ていない奥多を見るのはこれが初めてだと思う。Vネックの襟がよじれているのを見て、僕がついさっき掴んだ梅津の胸ぐらが浮かぶ。
髪も服も乱れているのを見たことがないクラス委員と違い、仕事着以外アイロンをかけないのだろう。
奥多は一度自販機前で立ち止まり、数度ボタンを押して、受け取り口にかがんでから、僕のところへ来た。手には焙じ茶と微糖コーヒーの缶が握られていた。
「どっちがいい」
どっちでもと答えかけて、僕は焙じ茶を選ぶ。
僕と奥多はコカコーラの印字がほとんど読めないベンチに座った。お互い何も言わず、プルタブを開ける音だけがやけに響く。缶の中身が半分くらいになったとき、奥多が独りごとのように呟いた。
「あれ、宇宙人か」
何のことかと思い、しばらくして滑り台のことだと気づく。
「タコですよ。小学生のとき、みんなタコ公園って呼んでました」
「タコにしては……いや、そんなもんか」
奥多は首を捻って、コーヒーをひと口飲んだ。タコにしては何なのか、尋ねる前に奥多が口を開いた。
「それで、どうして早退したって」
僕を見るふたつの目が充血している。
僕と同じで眠れなかったのか、先ほどまで寝ていた名残りか。
泣いた訳では絶対にないと思う。母のためには、息子も再婚相手も泣かなかったのだ。
「クラスメイト殴っちゃって、逃げてきました」
奥多は引きつったような笑い声を上げた。
「やっぱり不良だな。煙草は吸うわ、生徒は殴るわ……」
挙句にゾンビになった母親を風呂場に監禁している?
「そいつ、人間もゾンビも同じだって言ったんです」
甲高い声がして、幼稚園に上がる前の子どもふたりがじゃれ合いながら公園に入ってきた。その後ろをキャスケット帽を被った三十代くらいの母親が歩いてくる。
「ああ、そりゃあ殴る。俺でも殴るよ」
一瞬、母親がこちらを向いたような気がしたが、滑り台に登り出した子どもにすぐ視線を移した。
重いタイヤがアスファルトを噛む音がした。見ると、狭い車道を滑るように救急車によく似た青い車が近づいてくる。
通報を受けて、新不自由者を保護しに行くための車両だ。
車は滑り台の向こうにある、古い民家の前で止まった。
奥多の視線も僕と同じ場所に留まる。青い腹に塞がれて、家の様子は見えない。
停車してから一分過ぎたころ、車は再び道路へ滑り出た。耳をすませば聞こえる程度のエンジン音を残して。民家は椿の蕾が散った垣根に覆われて、誰もいないかのように静かに佇んでいる。
「のどかなもんだな……」
奥多は民家の方を見つめたまま呟いた。
「そう、ですね」
タコの足の間から子どもたちが歓声をあげて飛び出す。転ばないようにと叱る母親の声が笑みを含んでいた。
「俺は、最初にゾンビが出たとき、この国がもっとめちゃくちゃになってくれると思ってたよ」
奥多の破滅願望のようなものが浮き出た気がして、僕は痩せた横顔を見つめた。
もしも、パニック映画のように街が燃え、ひとが襲われ、混乱の渦に飲まれてくれたら、母のために泣いていないことなど気にせず済んだだろう。
自分が噛まれるかどうかにだけ怯えていればいい。母が噛まれて悲しまなくても、それはまだ頭の整理がついていないせいだと思えるはずだ。
贖罪なんて考える暇もない。
でも、街は静かで、空気は冷たかった。
僕は泣く以外のことは何でも母にしてやろうと思う。
「母さん、結婚式挙げたことがないって言ってたんだ」
独りごとのつもりだったが、奥多が続きを促すように僕を見た。
「式を挙げるはずだったホテルが、予約を入れる前に倒産になったとかで、結局結婚式をしてないって言ってたんです。海の見えるところで結婚式を挙げたいって子どもの頃の夢が、ずっと残ったままだって」
奥多は目を伏せて、黙り込んだ。短いまつ毛が眼窩に影を落としている。
「それやったらさ、施設に電話するか」
奥多も泣いていない償いを考えていたのだろうか。子どもの声が遠く聞こえる。僕は声に出さず頷いた。
沈黙が、共犯者だけに通じる肯定のようだった。
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