フヨウのせい


 ~ 八月二十五日(日) the morning ~


   フヨウの花言葉 富貴



 ともすれば屋根や軒に。

 苔をむしてもなんら論をたないこの旧家。


 されどその漆喰たるや。

 夏の日差しの白色に対する引けなど微塵もなし。


 長き塀を、丁度東西へと分かつ風格は。

 連綿と続く家名の重みによって飴色に染め上げられし両開き。


 斯様な、我が藍川の家紋が打ち付けられた、軋みひとつあげぬ門扉が。

 近来稀な叫喚を伴い。

 青く茂った柘植ツゲの葉を揺らすほどの風勢をあげて。

 午後の休息を断ち切るべく開け放たれたのでした。



「だ……、旦那様! 奥様!」

「大変です! ど、どうしたら……」

「と、とにかく屋敷へお連れしろ!」


 なんとみっともない。

 近頃の若い者にしては恥を知ると。

 見どころを得たものでしたが。


 新参に藍川の顔を担わせるなど。

 私の目も、老いを隠せぬようです。


「……鎮まりなさい。世間様に、藍川は些事に狼狽するものと喧伝して、どのようにその責をすすぐおつもりでしょう」


 敷地向けとあつらえた履物に足袋を通して。

 遥かを見れば驚いたことに。


 蒼白に染められて走り来るのは。

 永きの奉公に信を置く、新堂ではありませんか。


「お、奥様! 旦那様は……」

「なぜ藍川が束の間を世俗や家事へ割かねばなりませんか。御用でしたら私が承ります」


 あなたなら道理を弁えることが出来ましょう。

 家内として必然を口にしたところ。


「なんじゃ騒々しい! 誰か来ておるのか?」


 偶然そばを通りかかったのでしょうか。

 旦那様から、この不躾に回申をいただくことになりました。


 だというのに。

 当の新藤は説明に要領を得ず。

 門扉を示して狼狽するばかり。


 そのうち、の背を越して見やる私の目に。

 三名ほどの者が駆け寄るを知ると。


 彼らが胸に抱くのは。

 見紛うこと無き儚き姿。


 ……ですが、その有様たるや。

 あまりの動顚に、生気を抜かれるほどの想いをすることになったのでした。



「おじーちゃん! いたの! 会いに来た!」

「…………まさか。あいつの子か?」

「え、ええ。一度きり、正次郎が連れて来た子に相違ございません」


 随分なぼろを纏う子は。

 その目のかたちが父親を物語る。


 ただ、そんな些事よりも……。


「わっぱ。ここはお前が来ていい場所じゃないぞ。どうやって来た」

「あるってきたの!」

「あの女に連れられてきたのか?」

「ううん? 一人で!」

「何をバカな! 女狐の子は、平気で嘘など吐くか!」


 一人で……。

 歩いて?


 一体、あそこからどれほどの距離があるというのでしょう。

 だからこんな……。


「ええい、忌々しい! それをすぐに追い出せ!」

「だ、旦那様。恐れながら……」


 藍川に嫁いで以来。

 おそらく初めて。

 初めて私は、我を通す物言いをしようとしております。


「なんじゃ貴様! 口答えでもする気か!」

「……その子の足を、すぐに治療してあげたく存じます」

「足じゃと? ……な、なんじゃそれは!?」


 しとどに流すものに頬を濡らす使用人たち。

 彼らが抱きかかえた子の足は。


 長い路程のうちに脱げてしまったのでしょう。

 靴も履かず、白い靴下を土にまみれさせ。


 しかもその一方には。

 百日紅のように朱に染まる部分が見受けられます。



 ……まだ、本当に小さな頃。

 正次郎が我を通して連れて来た穂咲さん。


 この子は、果たしてそんな記憶だけで。

 ここへ辿り着いたというのでしょうか。



 ……いえ。

 揣摩しま憶測に意味などなし。


 真実は一つなのでしょう。



「……ここまで、歩いてきたのですね、一人で」

「おばーちゃん! 飴くれたおばーちゃん! 来たよ!」


 先に気を回した者が救急道具を抱えて戻ってまいりましたが。

 体中、泥にまみれた幼子に対する最低限とするに、それでは足りません。


 ……いえ。


 可愛い孫に。

 できうることをしてあげたい。


「……旦那様。この子を湯にて洗うがよろしいかと」

「くっ……、仕方あるまい! ええい、あの女狐は一体何をしておるのじゃ! こんな無体を平気でするなど、鬼と相違あるまいて!」


 無体。

 斯様な言葉で済むことでしょうか。


 ここまでたどり着いてくれたことの奇跡。

 命を落としていたのやもしれぬというのに。


「穂咲さん。……お母様は、あなたがここへ来たことを存じているのでしょうか」


 その場でぼろを脱がせてやって。

 細心の注意で靴下を取ると。


 切れて赤黒く腫れたかかとが。

 私の胸に、あの女への憎悪を植え付けます。



 ……ですが。

 この子は。


 そんな鬼の仕打ちを意にも留めず。


 それどころか。

 斯様なことを言うのです。



「ママにはね? まだ内緒!」

「まだ? ……それは、どのような意味でしょう」

「ママ、ずーっと元気ないの! だからね、パパが、元気のお花を教えてくれたの見せたげようと思ったんだけどね? 一つしかなくなってて、あれじゃ寂しいになっちゃうの!」


 要領を得ないことを言いながら。

 穂咲さんは。

 小さな手に握った水草のような物を旦那様へ突き出すと。


「だから、お家のそばに、もっかい増やして欲しいの!」

「……そのために、あてずっぽうでここまで来たというのか?」

「だって、ママが元気になりたいの!」


 ……鬼の目とて。

 斯様な言葉を聞いては。

 涙を浮かべぬ道理無し。


 旦那様は、己をひとつ曲げ。

 しおれた草を手に取ると。

 逆の手で、穂咲さんの頭を撫でて下さったのです。


「えへへ~! おじいちゃんの手、パパとおんなじ匂いがするの!」

「お前さんは優しいのう。……父親にも、優しくしてあげてくれたか?」

「うーん、どうだろ? 分かんない!」

「……父親は、優しくしてくれたか?」

「うん! パパは優しいの! 大好き! あ、でもね?」


 地べたに座らせるなど、心苦しく感じながら。

 足を顔を拭っていると。


 この子は、凛としたこの邸宅へ。

 稀有な。

 本当に稀有な。


 笑いというものを振り撒いてくれたのです。


「でも? なんじゃ? 優しくないこともされたのか?」

「……パパ、自分のお皿からあたしのお皿にピーマンいれるの。あれだけはどうにも切なくなるの」


 そうじゃったなと。

 旦那様が笑うと。


 私が押し殺した記憶の中に。

 あの子の、砂を噛むほどの表情が。

 確かに蘇ったのです。


「奥様。お湯が沸きました」

「かしこまりました。……さあ、穂咲さん。お風呂へ参りましょう」

「ほんと? おばあちゃんとお風呂、嬉しい!」

「……そうですか」

「でも、待っててね? おじいちゃんに、お花を増やしてもらわなきゃ!」


 穂咲さんは改めて。

 ご主人様へ笑顔を向けると。


「じゃあ、おじいちゃん! 増やしといてね?」

「いや……、それは難しい話じゃのう」


 あの女のためにと。

 無垢に願う笑顔を。

 目に入れるのに難いのでしょう。


 旦那様は、他所を向いて。

 言葉を濁します。


「なんで? むずかしいの?」

「なんでときたか。……そもそも、なんでそんな願いのためにここに来た」

「だって、これ……」


 そう言いながら。

 穂咲さんが差し出した物。


 ずっと手に握っていた。

 絵本の表紙。


 表題には。



 『花咲じじい』



「うわっはっはっはっはっは! こりゃ痛快な答えじゃ! 老いぼれたのう、わしがじじいときたか! ……おい、こいつの名は何と言ったかのう!」

「……穂咲さんでございます」

「そうか! 気に入ったぞ穂咲ちゃん!」

「え? 気に入ったの? ……それ、ぷろぽーず?」

「がははははは! それじゃこいつに叱られてしまうわい! そうじゃな、おまえさんを恋人にしてやろう!」


 すっかり機嫌を良くされた旦那様の戯れに。

 穂咲さんは、顔をしかめると。


「うーん……、どうしよ? まあ、いいの。おじいちゃん、ケーキ買ってくれそうだからおっけーしたげるの」

「わっはっはっは! そうか、おっけーか!」

「パパがクリのおそばみたいなケーキをお家で食べるのが好きだから、あたしもあれ食べてみたいの。恋人ならちゃんと覚えておくの」

「おお、忘れんぞ! ……おい、新堂! こいつを間違いなく増やしておけ!」


 そして新堂へ、手にされた草を渡すなり。


「……つまらん会合じゃが、出向かねばならんでの。またデートしような、穂咲ちゃん!」

「わかったの。いってらっしゃいなの」


 楽しそうに笑いながら。

 お屋敷へと戻られたのでした。


「……穂咲さん。よかったですね」


 さあ、浴場へと連れて行かねば。


 家へ連絡を入れておく旨。

 この子に合う服を用立てる旨。


 私は使用人へ指示を出してから。

 幼子を抱えてあげたのですが。


 この子は、急に。


 異なことを言うのです。


「おばあちゃんの匂い、ママと同じ匂いがする!」

「…………そうですか」


 そんなこの子の体からは。

 懐かしい目をした、この子からは。



 ずっと昔に置いてきた。

 夏の日の。

 あの子と同じ匂いがしていたのでした。

 



 ~🌹~🌹~🌹~




「……こんな場所でも、いつもと同じ匂いなのです」


 どこまでも続く緑の平原。

 朝露がうっすらと横たわるゴルフ場。


 誰もがテントから這い出すと。

 朝餉の香りを胸に吸い込むなり。



 うんざりとした顔になるのです。



「ほら、母ちゃん。やっぱり無理なのです、世間一般的には」

「わははは! なに言ってるさね! 美味いじゃないさ、ビーフストロガノフ!」


 母ちゃんが、牛煮の鍋をかき回しながらビーフストロガノフと口にするたび。

 味噌汁を作るダリアさんがムッとするのですが。


 ロシア料理への冒涜。

 怒って当然ですよね。


「すっとんとんなの」

「そして君は。グリーンを見ながら妙な呪文を唱えないで下さい」


 おにぎりを握りつつ。

 それを落とす穴を探すこいつは藍川あいかわ穂咲ほさき


 軽い色に染めたゆるふわロング髪は。

 昨日、やけ酒をしたおばさんのいびきを聞いて。

 しょんぼりと真下へ垂れたままなのですが。


「楽しいさね! 家族で作る朝ごはん!」

「家族じゃないでしょうに」

「がははははは! 照れなさんな!」

「別に、照れてないです」


 このパターン。

 父ちゃんとおばさんがいたら止まらなくなるのでしょうけど。


 二人とも、まだテントの中ですし。

 大丈夫でしょうね。


「ねえ道久君」

「…………なんでしょう」


 母ちゃんのせいで。

 つい、硬い返事になりましたけど。


 妙に意識をしていたりすると。

 痛いしっぺ返しを食らうのです。


「すっとんとん」

「ほらね?」


 さっきから。

 何を言いたいのですか君は。


 化粧水をはたいた、朝のグリーンが。

 今日もお仕事頑張るぞと。

 爽やかな笑顔を朝日へ向けている姿。


 そんな様子を見つめながら。

 穂咲は。


 ずっと同じ呪文を繰り返すのです。


「……ネズミさん、なかなか穴をあけないの」

「グリーンの穴はネズミさんの仕業じゃないのです」


 そうなんだと呟いて。

 指に付いたご飯粒をぺろりと舐めとる穂咲に。


 ようやくテントから現れたおばさんが。

 眠そうに挨拶します。


「おはよう、ほっちゃん」

「おはようなの」


 そして決まったルーティーン。

 おばさんは、ブラシで穂咲の髪を梳きながら。


 幸せそうに。

 夏の朝の定番ソングを口にするのでした。


「……ほら。そんなに動いたら髪を結えないわよ」

「いえいえ。その歌のせいでしょうに」


 それを聞いたら。

 体操を始めるのはやむなしなのです。

 ほら、俺だってこの通り。


 そんな呑気な夏の朝。

 ダブル藍川家と秋山家。

 全員そろったその後で。


「ふみゅ……。おはようごじゃいます……」

「おはようございま……、テントへ戻れ!」


 かつての貞淑さからは想像もつかない。

 たった数ヶ月で激変してしまった晴花さんが。


 あられもない姿で。

 テントから顔を出したのです。


「ん? ……べつにこれ、下着じゃないよ?」

「その線引きは知りませんが、ダメったらダメ!」


 ケチだなあと、文句を言いながら。

 上着を羽織る晴花さん。


 呆れて眺めていたら。

 目の前に、巨大なおむすびを置かれました。


「……なんですか、このメシハラ」


 朝からこんなに食べたら。

 体が動かなくなりそう。


「すっぽんぽん見てたの」

「着てましたよ、薄布一枚。……え? それで怒っているのですか?」


 そんな疑問を口にすると。

 途端にふくれっ面になったこの人。


 巨大なお結びの上に。

 目玉焼きを乗せるのです。


「……教授。これは食べづらいのですが」


 どう持っても落っこちそう。


「目玉焼き丼おむすびなの」

「なの、ではなく」

「一個、千円いただきますなの」


 別に、俺の事を好きというわけでもないでしょうに。

 なんて面倒なやきもちやき。



 仕方がないので、お財布から。

 五百円玉を二枚取り出して。


 本日限り、プレオープンした。

 目玉焼きやの女主人へ支払ったのでした。


 しかしそこまでしてやっても。

 ご主人の顔は膨れたまま。


 挙句に、ひどいことを言い出します。


「せいぜいすっぽんぽん見ながらおにぎり食べて、すっとんとんしないようにするがいいの」


 昨日から、散々たかられた。

 そんな俺に。

 すっぽんぽんもすっとんとんも心配ないですが。


「すってんてんなのです」


 空になった財布を逆さに振ると。

 中から五円玉がポロリと落ちて。

 小さな穴へと落ちて行きました。



 ――こんな日常。

 ちょっぴり幸せな、朝の光景。


 俺は目玉焼きを見つめながら思います。


 生まれてから。

 今日まで。


 いろんなことがありました。


 楽しかったこと。

 辛かったこと。

 嬉しかったこと。

 悲しかったこと。


 そんなすべてが俺を形作って。

 こんなに大きくなりましたけれど。


 心はずっと。

 あの日のまま。


 おじさんがいなくなって。

 泣きじゃくる穂咲に。

 目玉焼きを焼いてあげた日。


 柱時計の振り子のように。

 右へ左へ揺れ動きはしますけど。

 その場所から。

 一歩も進んでいない気がします。


 おばさんがふさぎ込んで。

 穂咲も滅多に笑わなくなって。


 父ちゃんと母ちゃんも。

 どこか暗くなって。



 ……だから。

 何かの歯車が。

 もしもうまいこと噛み合わなかったら。


 俺たちは。

 こうして笑うこともできなかったはずなのです。



 でも。

 時間をかけて。

 ゆっくりと。


 穂咲の想いが。

 みんなの傷を癒してくれて。


 物事が。

 幸せに向けて転がり始めると。


 笑顔が。

 みんなの元へ戻って来たのです。



 ……結局、世界は。

 人を笑顔にさせるようにできているのだなと。


 そしてきっと。

 笑うことが、俺たちが生まれた理由なんだなと。


 そう思うようになったのです。



 でも。

 もしも神様が。


 俺たちが背負った苦労は。

 もう、一生分与えたのだと思ってくれたなら。



 ちょっとだけ手を貸してください。



 これから俺たちが向かう先。

 おじさんが、絵ハガキを出してくれた場所。


 そこに、幸せな緑と黄色を。

 こっそり準備しておいてください。


 ……そのためなら。

 ちょっぴりだけ。


 俺は、苦労を余分に背負いますから。



 こいつの分の苦労を。

 俺にまわしてくれていいですから。



「……道久君」

「はい?」

「ぼーっと、晴花さん見つめながらおにぎり食べてるからそうなるの」

「は!? ……おわ!?」


 穂咲が冷たい視線を向ける先。

 緑のYシャツに。

 玉子の黄身が、べっとり落ちて。


「……なんという緑に黄色」

「洗ったげるから。千円」

「…………早速ですか」

「何の話?」


 早速、前払いしたのですから。

 これで素敵なものを準備してなかったら。

 さすがに突っ込ませていただきますよ、神様。

 

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