ヨウコ 1

 ヨウコは園児たちの昼食をビンに詰めながら、消えてしまった世界儀のことを考えていた。いつかそうなるだろうと思いつつ、ヨウコは仕事帰りに立ち寄ってむらさきの世界を楽しむのが習慣になっていた。そしてふと、世界儀は姿を消したのだった。「あの、むらさき色の世界儀はどうしたんですか?」そう店員に聞いてみた所で「しらない」「おぼえていない」と応えられるのが関の山だった。

 仕事は夕方の定時で終わり、ヨウコは園児たちと席を並べて最後の食事を取りつつ、時計がバスの時刻を差すのを待ち遠しく見つめていた。

「悩みごとでもあるの?」

優しく話しかけてくる園児たちに笑顔だけで返答し「そういう時もあるんだね」と誰もが声をそろえて言ってくれた。

「きちんと仕事さえやってくれれば、それでいいよ」

ある園児が言い

「君の詰めた昼食を僕が食べ散らかす」と、

その男の子が言う。

「上手く詰めてさえあれば、食べようとするだけで自然に散らばるの」

「私たちだって、無理に散らかしてるわけじゃ無いのよ」

そう女の子が言い、

「うそだ」とヨウコは思う。

「わかるよね?」前掛けを付けた園児が汚れの無い息を吐きかけて、

「もちつ、もたれつなんだから」と囁く。

 そこでやっと養育係の手が入り「ほーら、ヨウコお姉ちゃんの邪魔をしちゃ駄目じゃない」と園児たちが一人一人ヨウコの周りから引き離される。「ヨウコさんも早く食べちゃって、きりが無いから」と。

 そうしてヨウコは木張りにニスを塗った床に一人、子供用の椅子に腰かけ哺乳瓶に入ったにんじんグラッセを取り出そうとビンを傾け、つたない舌でそっと内側をなぞるのだった。


 ヨウコは生まれながらの痩せ型で、灰色の瞳と切りそろえられたボリュームのある前髪が特徴的な女性だった。瞳の色も幼いときはコンプレックスであったものの、同じ色のルージュを引くことを覚えてから自分の魅力の一つと考えるようになっていた。彼女は人目を惹くような容姿では無かったが、よく見れば見るほどある種の魅力を感じずにはいられなかった。それを魔力的だと思う人もいれば、ただ気にかかる目立たない人だと感じる人もいた。ヨウコは比較的他人の目が気にならない性格であったし、大抵の場合は自分のことで精一杯なのだった。


バスは頼みもしないのに古道具屋のある通りで止まり、ヨウコが降りるのを静かに待っていた。始めはなぜ止まっているのかも解らず「この通りを歩く事も無いかも知れない」と掠れて見える自分の幻影をそこに思い描いていた。それからふと周りの視線を感じ、

「わたしが降りるのを待っていたのだ」と気付き、

ヨウコが降りた途端。バスはアイドリングを再開して、まるで慌てるように、逃げる子犬か兔でも見付けたように一筋の黒煙を残して視界から見えなくなった。

 ヨウコは寄るつもりも無かったのに、仕方なく歩き出すと通りにあった古道具屋のショーウインドーを覗いていた。そこから見える店内は薄暗く、あらゆるものに埃が厚く積もっているように思えた。所々に灯されたランプが明るくもない光を発していて、そんな光が店内を陰気に浮かび上がらせている。

 ヨウコは覚えもない薄気味悪さに入る事を決かねていた。こんな店だったかな?もっと気楽に入れると思っていたけど。


 ちりん・・・そう木枠とガラスで出来た扉、

 その呼び鈴が触れてもいないのに音を上げる。


 ヨウコははっと息を飲んでガラス越しにそのドアの鈴を見つめる。あなたが今、声を上げたの?まるで悪いことをしているのを咎められたような気がした。

 ちり、ちりん・・・そう呼び鈴がちいさな身体をふるわせ、また声を出す。そしてまた、ふるふると身体を揺すり始める。ヨウコは息をつくと、「わかったわよ」とドアを引きあけて店内に滑り込んだ。今度は呼び鈴が、高く透き通る声で「ちりりん」と鳴いた。

「いらっしゃい」

そう声をかけたのは見たことも無いお爺さんだった。

「探し物は見つかったかい?」と正面のレジ奥に腰かけて、ヨウコはそのお爺さんの目を見つめていた。

「お会いした事は無いが、何度か寄ってくれていたんだね。話は聞いているよ」

レジ奥の老人は真っ白い鬚を生やし、青く優しい目でヨウコを見つめている。

「あのう、わたし欲しいものは別に無いんです。気が向いたから寄っただけで」「それも聞いている。わしは普段はここにはいない、店もせがれに譲ったんだ。でも、話は聞いている。誰が来たか、何を買って行ったか、いくら払ったか。この歳にもなると、解るものなんだね」

おじいさんは被っていた茶色い毛糸の帽子を脱いで薄くなった頭を片手でぼりぼりと掻いた。

「こちらへ来なさい、紅茶でも煎れよう。」

おじいさんは立ち上がると古惚けたバー・スツールを一つ、レジの向かいに置いた。

 ヨウコは長居をするつもりも無く、老人の話を聞くつもりでも無かったのだが、その場の空気がとてもなめらかに、ひどく居心地良く思えて気が付く前にそんなスツールへと歩みを進める自分が居り「紅茶ぐらいは」と思いながら腰を落とすと、いつのまにか、ヨウコは古惚けた店内を見上げるように見渡していた。

 意外に高い天井とそれに迫るように伸びた何列もの陳列棚。何に使われていたかさえわからない物と物とが、肩を並べるように息を沈めて眠っている。もしかしたら消えた世界儀のことを聞けるかもしれないと、ヨウコは思っていた。

「久しぶりに、いい紅茶がはいったよ。」

おじいさんは薄い磁器にお茶を張り、そっとヨウコの前に差し出した。白く波型に整えられたカップの表面に金色の曲線が模様を浮かべている。

「これも、時代のあるものなんですか?」

「ここにあるものは全てそうだよ。それぞれがそれぞれの時代を生きてここに辿り着いた。じっと何処かで待っていたものもあれば、誰かと懸命に時代を生きたものも居る。」

 ヨウコは白いカップの表面を見つめ、その『もの』がどんな時代を過ごしたのかを想ってみた。カップは応えるように、恥ずかしそうに、表面のくすみを浮かび上がらせる。「どんな時間だったんでしょうね?」

「それはわからんよ。ものは感情を記憶せんからな、そのものが過ごした時代はわかったとしてもどんな時間だったかはわからん」

紅茶は口に含むと深く拡がりのある味と香りを残して、消えていった。

「聞いてみるといい、語る者には語りかけるからな」

「微かな声なんだ。聞かなかったかも」

「もうすべてを聞いてしまったのかもしれない」

「それが頭のなかでこだまして、」

「残像のようなものを残すだろう?」

「フィルムに付いたかすり傷のように」

「かすかに、」

みどり色の

「見えやしないかい?」

庭園に咲く、赤いバラ

「染みのようにぼやけて見えるかもしれないね、」

その溢れる香りと子供の笑い声。


「わからないわ」

「そういうものなんだよ」


「始めから・・・」


ヨウコはそっとカップを受け皿に戻した。

 

 沈黙は何かの結晶のように老人とヨウコの上に降り積もっていた。それがカップの熱を徐々に奪い、ヨウコは静かにそれを飲み下ろした。

「世界儀のことを御存知ですか?」

「知っとるよ、もちろん。あんたはその為に来たんだろ?」

ヨウコはカップの紅茶、その表面を見つめる。

「あんたにとってあの世界儀とは何なのかな、」

「わかりません。ただ、見ていると癒されました。」

「安らぎでは無かったのかい?」

「安らぎ、だったかもしれません。わたしのなかに不思議な感情が生まれて、つながりとも呼べるような、わたしと、その世界儀と」

「必要とされるような?」

「されていたのでしょうか・・・。」

目の前のおじいさんは白い顎髭に手を触れる。

「ものは、人を選ぶことは出来ない。人がものを必要とする。そしていろんな景色が拡がるわけだ」

おじいさんは立ち上がると店の奥に姿を消した。

「わしらの仕事は正しいものが正しい場所に行き渡るよう配慮することだ」

声だけが店の奥からヨウコに語りかけている。

「もちろんうまくいかない時もあれば、不幸を生んでしまう事もある。そんな時、わしらはどうすればいいんだろうね?とりあえずはバランスを保とうとするしかない」

おじいさんは店の奥からレインコートを手にヨウコの前に現れた。

「元はと言えば、息子のミスから始まったことだ。悪く思わんでくれ、わしらだって間違いはする。」

おじいさんはレジ・カウンターの上にレインコートを置いて「これがあんたと世界儀を引き合わせてくれるよ」と言った。

「わたし、持ち合わせが無いんですけれど」

おじいさんは首をふって「気にしなくていい」と言った。

「その分もわしらはもらってる。気を付けてな、くれぐれも過去に引きずられんように。」

「わかりました」と、ヨウコはレインコートの手触りを確かめながら言った。

「未来は明るい方がいい」

最後に、おじいさんは皺だらけの優しい笑顔をくれた。


 店を出るとヨウコは手に持っていたレインコートを胸に抱きしめ、内に残る暖かみを感じた。もの、それがまだ持つ世界儀との繋がり「このコートがわたしと世界儀を引き合わせてくれる」確かにおじいさんはそう言った。ヨウコは手のハンドバックを石敷きの舗道に置くと、服の上からコートを羽織る。

 ふわり・・・とコートは舞ってからヨウコの身体を包み、青白く弾けるようなイメージをヨウコの脳裏に伝えた。あふれるように、予期して無かったほどのイメージがヨウコを占拠して「ちょっと、待って」とヨウコはあわててイメージのチューニングをずらす。ヨウコは、ハンドバックからスケジュールと財布を取り出すとコートのポケットに納めた。

 先ほどの感覚を探る。「いつ頃のことだったのだろう?」とコートの記憶を遡っていく。それは、それほど遠いものでは無い。幾人かの手に渡り、コートはわたしに辿り着いた。石畳にカツカツと音を立て、ヨウコは知らず知らずに大股で歩いている。昨日・・・もしかすると今朝の事かも知れないわね。気の付かない内に背を屈め、ポケットに手を入れて「遠いことじゃないわ」と考え事を始めている。

コートの記憶に指を這わせ、

ふと振り返る。

今のは、わたし?

そうじゃ無い。記憶のぶり返しよね、

夜風が吹き始めている街に朝の霧がかかる。

これもわたしじゃ無い、

ヨウコは霧を胸一杯に吸い込むと

吐き上げて、空いっぱいの夜露に変えた。

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