イアンとヨーコ
@tsuboy
イアン 1
イアンは暗がりの残る部屋で、ちいさな世界がむらさき色に雲を曳いて渦巻くのを見つめていた。ちょうど顔の大きさほどの水晶容器のなかで、その世界儀は著しく色を放つようになり、イアンの近頃の関心事といえば決ってこれだった。
イアンは水晶をそっと、光台のうえで回転をさせてまんべんなく世界に光が届くよう配慮を怠らない。このむらさきの世界儀こそイアンと少年期を繋ぐパイプ役のようなものであったし、それを知っていたから古具屋で見付けた時に購入するというアイディアに躊躇したのだ。
「これはいつのモデルなんだい?」
そう聞いたイアンに
「18年ものになるね」
と店主は答えた。18年と言えばちょうどイアンが持っていたのと同じ頃になる。まさかと思いながら「僕もこれと同じものを持っていたんだ。とっくにバーストさせはしたけれど」と言う。「よくあることだね」「光をあて過ぎちゃって、大事にしてはいたんだけど惜しいことをした・・・」「子供には難しいんだ。おもちゃには違いないが」「8っか9っの頃ですよ、懐かしいね」
「これは何色に光るのかな?」
そう聞いたイアンに
店主は「むらさきだよ」
と答えた。イアンが所有していたのも、それだ。流行がマーマレード・カラーであり、典型が緑であった頃にイアンと同じ色を持っていた者はごく僅かだった。「僕もその色だったんですよ」「人気は無かったが、歳を経て深みが出るのはむらさきが一番だ」「値段も相当張るんでしょう?」「まあ、同じ年のマーマレードよりは安いよ」「4000ぐらい?」「そのへんにするかい?平均は3000だよ?」「じゃあ、3500・・いや800にしとくよ」「思い入れが深いんだね」
イアンにその程度の経済的余裕はあった。習慣的に仕事に就くようになり収入も安定していた。これといった出費も無くて使うと言えば生活的なこと、食べ物、飲み物、消費物一般だけだった。丸一日を働けば(もちろんその日の集中力に左右はしたけれど)200から300ほどのクレジットを稼ぐこともできた。
「くれぐれも光をあて過ぎないように、」
そう店主は言った。
「まんべんなく光をあてて放っておくのが一番だ」
「わかってますよ。一周期は見るつもりですから」
「あと半年もすれば周期が変わるよ」
店主は「何かがあればここに持ってくればいい」と、
言った。
部屋を出るべき時間だった。夜の間に膨らんだ暗がりも小さくなっていたし、世界が光に身をよじる様を見つめるとイアンは台座の光源を消した。部屋での光がちいさいむらさきの雲だけになると空間が歪みを帯び、縦に伸び始める。「もういかなくちゃ」そうイアンは水晶の表面を撫でると、扉を閉じた。
外は霧の濃い朝で、濡れないようにレインコートを用意していたが着るべきかどうかを決めかねていた。多少の水分は吸収した方がいいと同僚が言っていたのを思い出す。「朝方の霧がいいんだよ。蒸気を浴びたって駄目さ、きめの細かさが違うよ」イアンは口をすぼめて霧を一度に吸い込み、それから怖くなって息を止める。いくら自然の霧といえど、吸い込み過ぎて肺に黴でも生えたら元も子も無い。そうやって死んだ人間をイアンは何人も知っている。
ほって置いても路の石畳が吸い尽くしてしまうのに、とつぶやくように思う。通りがかりの人が「おはようございます」と言ってイアンに帽子をかぶせ、イアンも「おはようございます」と答えつつレインコートを手渡した。
すでにオフィス・ボックスの幾つかには光が入っていた。コーヒーを手にした同僚とすれ違い、イアンは手にした木製ステッキを振ると今日最後の「おはよう」を交わした。
簡単な朝食を済ました後でボックスにこもり電灯のスイッチをひねった。真白い皮張りのリクライニングシートが浮き上がり、手すりの横から甲虫の足の様に金属片とコードが絡んで伸びている。イアンは確認を済ますと上着を脱ぎ、シートにもたれて息をついた。
アームを手首と足首に繋ぎ、メインのアームをこめかみにあてる。ふうっと息をついて肘掛けのスイッチで照明を落とし、目を閉じる。「またこの時が来た」と思いつつ、ゆっくりと集中力を高め、瞼の裏で弾けて映っている光の粒を谷底に落ちるような気持ちで見つめる。色とりどりの、黄色や緑・・赤や青い点や泡たち。イアンの頭部に自分で感じられるような熱が集まり、じりじりと機械がそれに反応して動き始める。
イアンは仕事そのものを嫌ってはいなかった。意識が意識を辿り、脈絡の無いほつれた糸をたぐるようにイアンは思いの海で作業を続ける。ただ機械がイアンの後ろに佇み、思いの糸をほぐすごとに飲み込んでは、無言の催促を続ける。
イアンは他の仕事をすることもできた。望めば機構を管理する職にも付けたし、教育も悪く無かった。でもイアンは、こうして生まれ持った想像力を使って作業に取り組んでいる方が利に叶っているように思われた。
知人のなかにはイアンに反対をする者もいた。疲れるし、社会的にいい仕事とは言えない。多少の危険だって含んでいた。論理的に証明されたわけではないが、想像力を奪われ続けることが身体に良く無いと言う者もいた。心というものが枯渇し、空っぽになった内側から崩れるように肉体が滅びると言うのだ。仕事そのものは比較的新しい産業であり、解っていないことは多い。
意識が束縛より解放され、握られていた拳のすき間から漏れるようにイアンは記憶と時間を取り戻した。真っ白な紙に色が浮かびあがり、部屋の輪郭が掠れて目に映っている。「どこで見た景色だろうか?」そう思いながら宙を見つめている。そのうちに「ああそうだったのか」とイアンは作業が終わり、今日一日が終了したことに気付くのだ。
軽い目眩と吐き気を覚えながらイアンは時間を確かめ、手早くカウンターの数字を記憶する。白いセラミック製のドアを開け、フットライトが舐めるように照らす廊下を歩いて休憩室でコーヒーを煎れる。ふらふらした頭に熱いコーヒーで鞭を入れながら作業報告書に必要事項を記入する。耳鳴りのように響いている共鳴が気になり、目を閉じてこめかみを押さえる。「気にしなければ気付かないのだが」イアンは報告書の一番下、空白の同意欄にサインをする。
「一切の責任は、私個人が負うものとします。」
建物を出る前にスケジュールをチェックすると教育機関に勤めている友人からアポイントが入っていた。あまり気乗りはしなかったが、イアンはスケジュールをポケットにしまい、車を拾って指定された店へと向かった。
以前、この店に来ただろうか?そう思いながらイアンは煙を巻いた店内を見渡す。重く濁るような木製の壁、ぼおっと幾重にも光の層を重ねている様々な色と電球。ガヤガヤという声が店の賑やかさをイアンに伝え、イアンは側を通り過ぎる幾つかの影を感じた。
このような店は何処も同じ空気を持っている。メニューにしろ、客にしろ、会話に多少の違いはあっても、一度馴染めば見分けることができない。イアンはカウンターで注文を通すと友人を探すことにした。
「何にする?」「むらさきにスモークを入れて、ちいさい光の粒を一つだけ沈めてもらえないかな」「一つでいいのか?」「それでいいよ」
ウエイターは「クラシックだね」と離れ際に小声で言うと煙のなかに姿を消した。
イアンは自分の選択が嫌味に気取って聞こえなかったかを思い返していた。まあ、いいさ。目を細めて意外に広い店内を見渡し、ウエイターが帰ってくるのを待っていた。それから暗い方か明るい方、そのどちらへ行けば友人に会えるかを考えていた。
友人は店の奥ばった煙のなか、壁際のテーブルについていた。イアンがグラスの光を掲げて煙を払うと、そこに知っていたような笑みを浮かべた彼がいた。
「やあ、」
とイアンはナバコフに言う。
「ひさしぶり」
とナバコフは応える。
「最近これと言っていそがしい訳では無かったんだが、現場で興味を引く事がちょくちょくと続いてね」
「いいさ。連絡が無いなら無いで、構う事は無い」
「そう言うと思ったよ、だからアポイントを直接入れておいた。そうすれば嫌々でも来るだろうからね」
彼はオレンジ色の何かを飲んでいた。
「まあ、来るには来たよ」
「わかってる。話でもしようか」
イアンはテーブルの向いに腰かけてグラスを置いた。
ざわざわとした沈黙がイアンとナバコフの間を行き来し、二人は姿勢を崩さずじっと自分のグラスを見つめていた。グラスの光が淡くちいさくなり、表面を冷汗のような粒が流れて筋になっていた。
イアンは光が消えてしまう前にグラスの飲み物を口に含み、身体の内側に這わせて飲み下ろした。ぴりぴりとした軽い刺激を内から感じつつ、イアンはグラスのなかでもう一度スモークがあらためて渦巻くのを眺めている。
「それの効能は?」
「考えなくて済む」
「頭がボォーっとするのかい?」
「そうでも無いさ、飲んだ事は?」
「俺は、オレンジ一本槍だからね」
「趣味?」
「好みだね」
「好きなのかい?」
「嫌いさ、意味なんて無い。くせなんだよ」
ナバコフはオレンジを口に含み、そっと飲み下ろす。
「いつのまにか習慣になっちまった」
イアンはむらさきを口に含み、飲み下ろす。
「律儀にもその習慣に従っている訳だ」
「破る理由も見つからないからね」
いつのまにか、
「なんでお前はむらさきなんだ?」
「最近の流行りでね」
そうなっちまった・・・
「むらさきが、かい?」
「個人的な流行りだよ」
選べるなら別のものだってよかった。
「むらさきはクラシックだって思ってたよ」
「クラシックだよ、古代的だと言ってもいい」
でも歯向う気力なんて、残っていない。
「僕は、レトロな人間だと思うよ。」
イアンはグラスに残っていたむらさきを一気に空け、天に向かって細かい霧を気の遠くなるほど時間をかけて吐き続ける。それが雨になる前に、イアンは雲にまぎれて店を抜け出した。
支払いが残っていたが悪い気はしなかった。勝手に入れられていたアポイントだったし、ナバコフは一人でもきちんとやるだろう。そう言えば彼の顔に見覚えが無かった。また顔を変えたのかもしれないと、イアンは思った。
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