少年は救われない 〈下〉
両親は、昨夜も喧嘩したらしい。張り詰めた空気の朝は、大体そうだ。二人とも意見をはっきり言う方だから、昔からこういう日は何度かあった。父は新聞から顔をあげないし、母は台所や他の部屋へ引っ込むのが早くなる。年の離れた姉は早々に食べ終え、学校に行った。
三潮も重ったるく感じるトーストを無理に咀嚼し、小さくごちそうさまと呟いて部屋をあとにした。何度あってもこの気詰まりな空気はやはり慣れない。
それでも、いつも夕食までには元の雰囲気に戻る。出来たら帰ってくるまでに仲直りしてほしいと思いながら、三潮はランドセルを掴んで家を出た。
五年生になり、今年も雪菜とは同じクラスだった。縁があるね、と雪菜が嬉しそうに笑いかけてくれたことを思い出す。友達の久坂毬とも一緒らしく、それも喜んでいた。
流石に、一緒に公園で遊ぶようなことはもうない。それでも、週に何度か話す程度の付き合いはあった。
雪菜は何も変わらない。背が伸びても学年があがっても、驚くほど昔のままだ。いつも穏やかで、何かと楽しそうにしている。久坂毬以外のクラスメイトと一緒にいるところを見かけたことはないけど、特別仲の悪い相手もいないように思うし、どちらかといえば雪菜は人当たりはいいほうだ。なのに友人が少ないのは不思議に思っていたが、それだって本人が気にしていないならまぁいいんだろうと三潮も心配はしていない。
ただ、雪菜に関しては一つ気になることがあった。
四年生のとき、たまたま三潮の友達がこぼしたこと。
幼い頃、雪菜から聞いたときには『少し変わった家なんだな』くらいにしか感じなかった。けれど高学年にもなれば、その異常性ははっきりと浮かび上がって見えた。三潮は友達の口から聞いた“アバズレ”の言葉の意味も、調べて今は知っている。
具体的に、三潮がどうにかできることではないのは子供の頭でも解る。雪菜からその境遇が滲んだことは、三潮が知る限り一度もない。きっと雪菜にとってはそれが当たり前だった。
そもそも、雪菜がそれを辛いと感じているかさえ分からない。
何かしたいと時々三潮は思うけれど、毎回そこで思考は止まる。
いつか分かればいいと思っていた。できたら、三潮がまだ雪菜の近くにいられる間に。
――それが全部、形を成す前に潰れることをそのときは知らなかった。
*************
分からない。どうして母が家から消えたのか。
あの日、夕飯になっても家の空気は硬いままだった。珍しく喧嘩が長引いてると思ったけど、次の日も、その次の日も雰囲気は元に戻らない。次第に両親の姿が揃うことが減り、食卓は静かになった。代わりに、夜中に階下から言い争う二人の声がする。姉は部屋に籠りがちになり、三潮はただただ困惑した。
三潮は眠りが浅くなり、その晩も夜中にふと起き出した。くぐもったような両親の声がやはり部屋の外から響いてくる。
聞いたことのない母の金切り声に、ひゅっと胸の底が冷えた。
そのまま眠れる気分でもなくて、音を立てないようそっと廊下に出る。遠かった両親の声が明瞭になり、耳を澄ませば内容も聞き取れそうだった。刺々しい声の調子に、聞かない方がいいと頭の隅で思うのに、それでもやめられなかった。泣き出しそうな気分で三潮は一人、両親の口論を聞いた。
なんで。
あんなに仲が良かったのに。
こんな何週間も喧嘩するなんてことなかった。
どうしたらなおる?
なんで。なんでなんでなんで。
『〜〜〜〜〜ッ。――!』
『――〜〜!』
『$#%―――ッ!』
この晩、三潮は自分がどうやってベッドまで戻ったか覚えていない。
それから数日して、母は帰ってこなくなった。別居というものらしい。いつ帰ってくるか分からないと、父が淡々と説明した。
『雪菜。今日の放課後、ちょっといい?』
確かめても、どうしようもないことだった。なのに三潮は雪菜を呼び止めた。雪菜は少しキョトンとして、いつものように笑った後「いいよ」と頷く。
雪菜と最後に二人で話したのは、公園でだった。他には誰もいなくて、奇しくも初めて会ったときと同じ状況だと白々と考えていた。
雪菜は変わらない。けど、三潮が尋ねたら確実に何かが損なわれる。少なくとも既に三潮はおかしかった。
罵り合う父と母。
会話とも呼べないような二人のやり取りの中で、何度も出てきた名前があった。
何もかもぐちゃぐちゃで、必死に絞り出した声は平静だったけど、三潮自身はそれを遠くで聞いているような気分だった。
雪菜の顔を見ることが、初めて難しく感じる。
嘘ならいい。聞き間違いなら。
『俺の父さんが、雪菜のお母さんと浮気したって本当?』
その日、三潮は雪菜を突き飛ばした。それ以来、三潮から雪菜に話しかけることはなくなった。
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