風の味がする

桜庭琴葉

第1話 プロローグ

 ここ数週間、心地よく吹き抜けていた春風が途端に鳴りを潜め、それと入れ替わるように暑さの波が押し寄せていた、六月の初め頃。写真家として生計を立てる俺は、数ヶ月に及ぶ海外での取材旅行を終え、久々に戻った日本での、慣れ親しんだ感覚を噛み締めていた。


 これまでも、魅力的なシャッターチャンスを求めて、幾度となく海外へ足を運んできたが、旅を終えて帰国の途につく度に、「この国はなんて素晴らしいのだろうか」と、必ずと言っても良いほど実感することになる。飯は美味いし、空気だって美味い。それになんといっても平和。仮に世界中を探したとしても、こんな国はそう多く無い。

 

 だが、どんなにいい国にも欠点はある。この国のそれは、まさに今、これから始まる夏の暑さではないだろうか。彼此三十年近くを生きているが、ここ数年は特に酷いように感じる。

 

 日本の夏は蒸し暑いとよく言われるが、中でも俺の地元、京都の暑さはその代表的なものだろう。北と東、そして西の三方を数百メートル級の山々が取り囲み、北西には愛宕山、北東には比叡山を抱える京都盆地。その地形から、あらゆる気候が入り乱れるこの京都市は、夏は暑く、冬は寒い。日本特有の、ジメジメとした湿度を大量に含む熱風は、そこに生きる人々の、意欲という意欲を奪い去っていく。

 

 今日も今日とて、激しく照りつける太陽。そこから逃げるように、自室のカーテンを閉め切った俺は、部屋の中で一番クーラーの風が当たる場所を探して横になり、近代科学の劇的な進歩に深い敬意を抱くのだった。



 しばらくの間、クーラーから放たれる冷気の波を全身で受けとめつつ、「文明開化バンザーイ」などと、他愛ない独り言を出していると、ベランダで洗濯物を干し終えた母親が、自室の前の廊下を通りかかった。母は、何気なく俺の部屋を覗き込むと、床に横たわる俺を見つけるや否や、少し呆れたような様子でこう言った。


「ちょっと竜也、いつまでそんなにダラーっとしてるの。これから夏になるのに、いつまでも家にいたら体力落ちるよ? ちょっと外でも出歩いてきなさいな」


 そんな至極当然であろう叱言を投げられては、何ひとつとして返す言葉を見つけられないではないか。俺が少しばかりムッとした表情を見せたからなのだろう。母は小さく溜息をついて首を左右に数回振り、やれやれとでも言わんばかりにしてみせる。

残念な息子の姿を目の当たりにして、良くも悪くも諦めの早い母は、「これは何を言ってもダメか」と呟きながら、一階へと続く階段に向かっていった。


 床に横たわる耳に、一段一段と母が階段を降りていく足音が聞こえてくる。規則的に伝わる微かな振動と足音に心地良さを覚え、目を閉じて身動きを取らずにいると、長く冷気に晒されていたからか、少々肌寒さを覚えてきた。流石にこれでは、風邪を引いてしまう。俺は、少し気怠さの残る身体に言い聞かせて、クーラーの電源を切ってから、一階のリビングへ向かった母の後を追いかけた。



 リビングへ行くと、ひと仕事終えた様子の母が、チョコミントのアイスを頬張りながら、ソファーに腰掛けてテレビを眺めていた。


「あれ、そんなアイス買ってあったのか。俺の分もある?」


 キッチンにある冷蔵庫へと向かいながら、母の背中越しに問いかける。


「ん? ああ、昨日の夜コンビニで買ってきたんよ。同じのが冷凍庫にもう一つあるよ」


 テレビの内容に集中していたのか、数秒の間があってから、母はそう答えた。


 冷凍庫から目当てのアイスを取り出してから、母のいるリビングへと戻ると、午後のワイドショーが、丁度地元の喫茶店を特集している所だった。


「母さん、さっきから随分と熱心に見入ってるから何かと思ったわ。これ近所の喫茶店か」


「そうそう。最近新しく出来たんだってさ。喫茶店なんて、結婚してあんたが生まれてからは久しく行ってないし、ちょっとね」


 そう言って、どこかもの寂しさを感じさせる表情を見せた。母は、普段あまり昔のことを話そうとはしない人だ。そんな人の珍しい表情に興味を持った俺は、敢えて濁したようなその言葉に、更に質問をぶつける事にする。


「昔は良く行ってたってこと? 喫茶店」


 母は、少し考えるような仕草をしてから答える。


「まあね。昔は今みたいに簡単に連絡が取れる時代でもなかったから。待ち合わせの定番といえば、こういう喫茶店だったのよ」


 ここまで答えたところで、俺には話の流れが読めた。それ以上は何も言わない母に、俺も質問を続けることはしなかった。


 我が家には、父親がいない。母の話によれば、大きな自動車事故に巻き込まれて命を落としたのだという。それはまだ、俺が記憶にも残らない程小さな頃の話で、俺は全く父親というものを知らない。だが、元々居ないものだと考えていた俺にとっては、父親がいないということは、別段意識するようなことではなかった。


 しかし、もちろん母にとってはそんな単純なものではないのだと思う。母の言い回し的には、両親が結婚する前、お付き合いをしている頃に、よく待ち合わせに使ったのが喫茶店だったということなのだろう。俺は、自分の興味本位で、何か触れたくない事を思い出させてしまったのだとしたら、申し訳ないと思った。


「なんか、ごめん。もしかして、言いたくないことだったかな」


「別に、謝る程の事じゃないよ。少し懐かしいなと思って、昔のことを思い出していただけ。番組で紹介されたお店の内装が、よく行ったお店に似てたから」


 そう言う母の笑顔は、多少引きつっているようにも見えたが、それでも俺はその言葉に胸を撫で下ろした。



 その後しばらくは、二人してアイスを食べる事に集中していたが、俺は興味本位のついでに、気になっていたことをもう一つ聞くことにした。


「母さんが昔よく行ってたっていう喫茶店は、どこにあるの?」


 仕事柄、海外と日本をよく行き来する俺は、『コーヒーベルト』と呼ばれる、赤道直下のコーヒー豆を多く栽培する地域にも足を運ぶことが多々ある。そのため、多少はコーヒーについての知識も持ち合わせており、大学を卒業してからは、時々喫茶店を巡る事もあるというわけだ。とりわけ、この京都は、日本の観光地としてもシンボルマーク的な存在なので、内装や立地にこだわったカフェや喫茶店が多く存在する。


 もし母の思い出の場所が分かるなら、それはどんな景色だったのかを一度見てみたいと、俺は純粋に思った。


「うーん。確か、三条通り商店街を抜けてふた筋程行った交差点を、南に下ったところにあったと思うんだけど……。白く塗られたコンクリートの壁に、人一人が入れるぐらいの扉のない入口があって、それを潜ると小さなお庭が広がってた記憶があるの。お店の名前は、忘れちゃった。なにせ、もう三十年以上も前の話だから……。」


 そう答えると、母は「晩ご飯の仕込みをする」と言って、キッチンへと姿を消した。


 母の背中を見送ると、俺はそそくさとアイスを食べ終えて自室へと戻り、ベッドサイドに腰掛けながら少しばかり考えを巡らせる。今まで特に父親のことを気にしたことも無い俺だが、もしかしたら母の思い出を辿ることで、何か自分のルーツに近づけるのではないだろうか。それに、母が気に入った場所ならば、写真映えもするかもしれない。


 そんな考えに至った俺は、帰国後はほとんど触ることなく机の上に放り出していた相棒の一眼レフを手に取り、初夏の太陽の下に繰り出すことにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

風の味がする 桜庭琴葉 @ComAiKun

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ