VOL.2

『聴き違いか?』


 俺は落としたシナモンスティックをもう一度咥えようとしたが、1ミリほどの埃が目に入り、二つに折ってゴミ箱に投げ込み、新しいのを咥え直すと、彼女の向かいに腰を下ろしながら訊ねてみる。


『いえ、聴き違いじゃありません。私の恋人、いえ、正確には私の婚約者フィアンセになって欲しいんです』


 俺はまたしてもスティックを落としそうになったが、今度は辛うじて踏みとどまり、端を前歯で噛む。


 ビタースイート(とはいっても、ビターの方が強めである)の香りが口の中に広がった。


『俺はお世辞にも金持ちじゃないし、用がある時以外、一人が好きなんだ・・・・だから結婚する気はない・・・・といったら?』


 彼女は肩から下げていたバッグを開き、中から小切手帳を出すと、そこにまず、

『6』と書き、その後に『0』を五桁書き入れ、折り目をペンの尻でこすって切り離すと俺の前に置いた。


『とりあえず10日分・・・・貴方のギャラは基本1日6万円でしたわね?」


 足りなければもっと出します。彼女はそう付け加え、それからまたカップを手に取り、コーヒーを口にし、ゆっくりと事情を説明し始めた。


 容貌と、そして微妙なアクセントから、俺が察した通り、彼女は日本人ではない。


 名前はグウェン・チュン・ロム。国籍は東南アジアの某国・・・・人種は華僑、ヴェトナム、そして現地の少数民族・・・・と、恐らく四つぐらいは混じっていて、彼女自身『何人』とは特定出来ないという。


 彼女は五年前から日本に住んでいる。


 表向きの理由は、日本の大学で看護学を学ぶためなのだが、本当の理由は、


『自分の過去と決別したかった』からだという。


 彼女の家・・・・正確には家業と言った方がいいかもしれない。


 東南アジアの裏社会では今や『知らぬものはいない』と言われる秘密結社なのだ。

 あちこちの組織と抗争を繰り広げ、今ではもう国境をまたいで、様々な所に食い込んでいる。

 やれる限りのことは何でもやってきた。

 人に言える事、言えない事、何でもだ。


 だが、彼女はそんな家が嫌で仕方がなかった。


 しかも、である。


 彼女の一族では、子供が生まれると、その結婚相手は父親が決める。という風習を今でもかたくなに守っていて、当然チュンもまだ生まれて間もない頃、既に父親によって許嫁いいなずけが決められていた。


 今時年頃になれば、そんな風習から抜け出したいと思うのは、若い娘の当然の感情だろう。


 そこで、彼女は十七になったのを切っ掛けに(彼女の国では十七歳で成人と見做みなされる)、日本に留学するという口実で逃げ出してきたという訳だ。


 しかし、流石に巨大秘密結社だ。


『コネクション』は日本にまで伸びていた。


 卒業も間近に迫ったある日、使いの者が現れ、父親の言葉を伝えた。

”どうしても国に帰って結婚しろ”と、こうだ。


 そこで切羽詰まった彼女は”自分にはもう結婚を約束した日本人がいる”と口走ってしまったのだ。という。


 一週間後、統領である彼女の父親と、ナンバー2である長兄が日本にやってくるという。


表向きは『ビジネス』だったが、


”お前が将来を約した男の顔を是非見たいものだ”

 

 父はそう言った。


『それだけじゃないんでしょう?お嬢さん?』


 俺の言葉に、彼女は眼を動かした。


『実は本当に好きな男がいる。本当はその男を父親の前に連れてゆきたいのだが、筋金入りの親父さんや兄貴の前に、愛する恋人をさらしたんじゃ、何をされるか分からない。そこで俺・・・・金次第で何でも請け負う探偵を雇おう。強面こわもてには強面こわもてで・・・・違っているかな?』


『どうして分かったんですの?』


『聞くだけ野暮ってもんです。プロですよ。俺は』


 俺はそう答えながら一本をかじり尽くすと、更にもう一本を咥えた。


 彼女は否定もせずに、黙って頷いた。


『本当に愛する人と出会ったのは、生まれて初めての事です。私より6歳年上の日本人で、今は医師として南米のボリビアにある小さな町の病院にいます。今回のことに決着がついたら、私も一度そちらに行くつもりです。』


 彼女はまたコーヒーを口に運んだ。


『私は彼と会える日を毎日昼と夜を数えて暮らしました・・・・・一日、一日・・・・・』


 俺は苦笑した。


『夜霧よ今夜も有難う・・・・か・・・・』

『え?』

『いや、何でもない。まあ、金を貰っちまったからな。よろしい。引き受けよう。

 これが契約書だ。納得したら・・・・ああ、もうしてるか。でも一応サインだけはしてくれ。決まりなんでね。』














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