wonderful World

冷門 風之助 

VOL.1

 その依頼人が来た時、俺事、私立探偵の乾宗十郎いぬい・そうじゅうろうは洗濯したばかりのワイシャツのアイロンがけに忙しかった。


強面コワモテで売ってる私立探偵がアイロンがけなんかするのか?)


 するさ。


 俺を誰だと思ってるんだ?

 

 陸上自衛隊で十年以上もメシを喰ってた男だぜ。


 娑婆シャバの諸君は自衛官というと、鉄砲撃って、戦車動かして、ロケットランチャーぶっ放して・・・・etcというイメージばかり持ってるだろう。


 じゃ、その自衛隊に入って一番に何を覚えさせられるか知ってるか?


 勿論、


『敬礼!集合!右向け右!左向け左!回れ右!歩調取れ!駆け足!』も習うが、

 陸・海・空問わず誰でも最初は、

『洗濯、掃除、アイロンのかけ方、裁縫、そして靴磨き』、

 これである。


 娑婆しゃばではこんな作業、殆ど、いや全くやったことがなかった。


 家にいればお袋がやってくれる。(ちなみに『おおむね』ってのは、自衛官なら誰でも使う。試しに聞いて見たまえ)


 一人暮らしになったって、洗濯まではともかく、裁縫やアイロンがけなんぞ、巧みにやりこなせる人間(特に野郎)には滅多にいやしないだろう。


 ところが入隊すると、これを徹底的に仕込まれる。


 自衛隊てのはほぼ完璧な男社会だ。


(フェミニストの皆さんにはカンにさわるかもな。でもそう表現するのが一番分かり易いから仕方ないだろう)


 基本、

『自分のことは自分でやれ』なのだ。


 だからこれを習わされる。


 俺は他のことはともかく、このアイロンがけだけは苦手だった。


 しかも、である。


 決められた場所に決められたとおりに『プレス』がなされていないと

『やり直し!』とくる。


 面倒くさくてもやるしかない。


 誰もやってはくれないのだ。


 しかし、そんな場所を離れてから幾星霜いくせいそう。とっくに在隊年数を越してしまった。

 今じゃ気ままな私立探偵だ。ワイシャツがしわになっていたって、靴が汚れていたって、別に叱責されるわけじゃない・・・のだが、一度ついた”習慣”これだけはなかなか抜けないものだ。


 このところ四日連続で雨が降り、洗濯物が溜まり過ぎるほど溜まり、洗濯機をフル回転させ、狭い部屋中洗濯ロープを張り巡らして干しまくり、

(近くにコインランドリーがあるから、乾燥機を使えばとも思うが、俺はどうもあれが好きじゃない。面倒くさいのだ)

 やっと乾かしたやつを片っ端からアイロンをかけて行く。

 いや、というべきだろう。

いぬい!何やってんだ!お前ここ曲がってんだろうが?!やり直し!)

 

 教育隊にいた頃の班長の怒鳴り声が、アイロンを動かすたびに今でも耳の奥にひびいてくる。


 そしてようやく1時間、洗濯物の山と格闘し、何とかかけ終えたその時、


 事務所から繋がっているチャイムの音が鳴った。


 あっちを留守にしている時は、ドアの前にあるスイッチを押すと、俺のヤサにあるインターフォンが鳴る仕掛けだ。


冷蔵庫の中から『奥多摩の美味しい水』を出して一口、皺の伸びたワイシャツに手を通し、身支度を整えて事務所に降りて行った。


 ジャケットを着て階段を降りた時、事務所の前に立っていた彼女は俺の姿を見て、慌てたように頭を下げた。


 黒い髪、小麦色の肌、どこかエキゾチックな色をたたえた瞳・・・・明らかに東南アジアの、照り付ける太陽の匂いがする・・・・そんな女性だった。


 歳は恐らく20代前半か、或いはことによると、もっと若いかもしれない。


『あ、あの・・・・』彼女は少し独特の訛りがある日本語で何事か切り出そうとしたが、俺は何も言わず、ロックを外し、ドアを大きく開けた。


 彼女はうつむいたまま、中に入り、殺風景な室内を、黒目がちの大きな瞳で見渡すと、俺が勧めるままにソファに腰を下ろした。


 俺は『コーヒーとコーラ、どっちがいい?』と聞き、彼女が『どちらでも』と答えたので、豆が無いのに舌打ちし、仕方なくインスタントの瓶の蓋を開け、湯を沸かした。


 数分後、俺は盆に載せたカップを、向こうとこっち、向かい合わせに置く。


『砂糖とミルクはないので、そのつもりで』俺はそう言ってから、シガレットケースを開け、シナモンスティックを咥える。


 彼女はカップを両手で持ち、ゆっくりと啜る。


 それから、息を吐き、ほんの一秒ほど考え込み、そして言った。


『あの・・・・私の恋人になって下さい!』


 俺の口からスティックが、まだ掃除をしていなかった床の上に落ちた。





 


 

 





 



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る