48.シドの愛
「園田、これとこれと、これ。これも、これも。よろしくな」
結婚しても全然変わらない人もいた。
眼鏡の大佐だけ、何日経っても心優を旧姓で呼ぶ。
珊瑚礁の海が夕の色に変わった頃。工学科科長室にお遣いがあってやってきたら、科長である御園大佐にごっそりと、旧式のデータディスクやらUSBメモリーやら資料を渡された。
「ミセス准将にどんだけ俺が苦労してかき集めたか言っておけ」
すっごく不機嫌で、いつもは美味しい紅茶やカフェオレをご馳走してくれたり、ちょっとしたお話しをしてくれるのに。それを楽しみにしていたのに、今日は期待はずれ。
入籍してから初めて、工学科を訪ねたので、今日は結婚のことについて色々と話せたらいいなあと思っていた心優だったが、背を向けてぷりぷりしている様子の大佐を見て諦めた。
「お手数をおかけしました。そのように准将にお伝えします」
そうして退室しようとしたら、御園大佐を長年補佐してきた吉田大尉が溜め息をついた。
「科長、心優さんは結婚したのですよ。もう園田さんでは……」
「俺は旧姓で呼ぶ。吉田だってそうだろ。なにか、今日からラングラーさんと呼んだ方がいいか?」
ラングラー中佐の奥様である小夜さんも、眼鏡の大佐の不機嫌さに手を焼いているようだった。
「失礼致しました」
触らぬ神に祟りなし――。帰ろう、今日は帰ろう。心優はそっと工学科科長室を退室した。
すぐそこの階段を下りていると、『園田さん』と吉田大尉が追いかけてきた。
「ごめんなさいね。なんだか最近、ずっとあんな感じなの……」
「そうでしたか。珍しいですね」
「あの、工学科の科長室では『園田さん』と呼ばせてもらってもいい? 毎日、城戸大佐も来るでしょう。混乱しちゃいそうだから」
「構いません。そのつもりで、呼び分けていたいだくようお願いしております」
うちの部署ではどう呼ぶ? そんな問い合わせも多いこの頃。結婚したばかりで、なんだか心優の周辺はまだちょっと落ち着きがない。
「ところで。最近、そちらの准将室にうちの隼人さんが訪ねていた時、なにかあったりした?」
あった――と、心優はすぐに思いついたけれど、『アグレッサー部隊を作る』というまだ極秘の情報を挟んでの喧嘩だったので安易に言えない。
「なにもなかったようですよ」
ああ、心苦しいな。上官の情報を護るために、親切なこの大尉にまで嘘をつかなくちゃいけないなんて――と心優もやるせない。
でも、こちらも心優の上官であるラングラー中佐の奥様。奥様もまったく感じてもいないということは、ラングラー中佐は完璧に妻に情報を伏せ隠し通しているということになる。
ここで下っ端護衛官が心苦しさからふっと漏らしたりしたら大変なことになる。それくらいわかるようになってきた。
「そう……。……テッドも口が堅いのよね。だからって、彼の部下である貴女に聞けばわかるだなんて、失礼だったわよね。テッドが口外しないことは、部下も口外しない。そうあって然るべき躾をするのがあの人の仕事」
こちらは秘書室長の立派な奥様だった。心優の立場も考慮してくれる。
「いいわよ。大佐のことだから。すぐにいつも通り奥さんをおちょくって楽しめる旦那さんに戻るわよ」
「きっとそうですよ」
『結婚、おめでとう』、お祝いの言葉に心優も笑顔で礼をする。それよりも『城戸大佐ったら昨日もにやにやしていたわよ。幸せそうね』という吉田大尉のお知らせに、心優も照れてしまった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
工学科からの帰り道、高官棟へ帰るため三階にある連絡通路を渡る。そういえば、いつか、ここで夕日を見て離れてしまった雅臣のことを思っていたことがあると心優は思い出す。
あの時はまさか、再会できて、また恋人に戻れて、結婚までできるなんて思わなかった。
ラベンダー色とアクアブルーが映る夕の海。珊瑚礁の海が見える窓ガラスを前に、心優はまた左薬指の銀リングを見つめる。
結婚してから数日、見るたびにうきうきしていたけれど。夕の海を前にするとふち違う気持ちになる。
きっと、これからも。こんなふうに、幸せだったり、不安になったり、哀しくなったり。大佐殿を愛したからこそのたくさんの気持ちが心に入ってくるのだろう。
なんでかな、今日はちょっと切ない……。
「心優」
デジャブ――。あの時も、夕に凪ぐ海を見つめて遠い雅臣を想っていたあの日も、そこに『彼』が現れた。
「おっす、ひさしぶりだな」
金髪のアクアマリンの目を持つ王子、白い夏服制服に黒ネクタイの『シド』がいた。
双子と会った時以来……、休暇もあってずっとお互いに姿を見ていなかった。
でも心優はシドを見て、ドキリとする。何故なら、彼が白いカラーの花を持っていたから。
それは心優が雷神チームにどう祝ってもらったか知っているということ。そしてその花を持ってこなかったということ……。でもいま、自分で準備して持ってきたってこと?
そのシドが、リボンのついたカラーの花片手に、心優に近づいてきた。
「これ、俺から」
結婚、おめでとうの花だと思ってもいいの? でもシドはそうは言ってくれない。
それでも心優はシドがその花を持っているのは偶然でも偶然ではなくても、そうだろうと受け取ろうとする。
「ありがとう、シド」
その花に触れて、引き寄せようとしたその手を、シドに掴まれた。心優は驚いて、彼を見上げてしまう。
アクアマリンの瞳と目が合う。その目が、いつものシドじゃない。夕の海と同じ、どこか哀しげな色を滲ませている。
「俺は結婚しない」
その意味さえも、心優はわかるから困る。でも、その気持ち受け入れられない。お願い、シド、シドにも幸せになってほしいよ。自分はこの人だけ、その人も自分だけになるとほんとうにほんとに幸せなんだよ。シドにもみつけてほしい!
『ここじゃない!』と突き返したい。でもなんとかやんわりと微笑んで、いつもの冗談交じりでなにげなく返そうと心優は決して。
「なに言ってん……」
「わかってる。おまえはよそ見をする女じゃない」
さらに手を握りしめられる。もう、シドの勇ましいその胸元まで引き寄せられそう……!
しかもシドの眼差しがじっと怖いほどに心優を離さない。その鼻先が心優の目の前まで近づいてくる。このままでは、でも、いまの彼の目はそんな邪なものではない。彼のアクアマリンは不純物なしの生粋の輝石。
「俺に、生きる意味をくれよ、帰ってくる意味を」
生きる意味、帰ってくる意味――。それも心優には通じた。『帰ってくる理由が欲しい』、『頼む、親父のロザリオ預かってくれよ』。そういう意味。それがいまは心優しかいないというシドの告白。
「俺は、おまえも、おまえの夫も護ってみせる。それで帰ってくる」
「シド……」
それが彼からのお祝い。心優への想い? 心優はもう涙が滲んだ。
「おまえの子供も、かわいがってやる」
翳る眼差しで、でも強く言われる。
そこでシドの手が離れる……。心優の手に、白いカラーの花が。
それだけ言うと、彼ももう言葉にすることができないのか。そのまま心優の横を通りすがって去って行く。
アメジストのような海に変わっていく遅い夕、シドの白いシャツにその色が染まる。
妻になったけれど、でも、そんな男の気持ちを受け取って、心優はやっぱり泣かずにいられない。
もちろん、シドの帰りを待っているよ。でも、お願い。いつか、あなただけのあなただけを見つめてくれる幸せを見つけて。
心優のもうひとつの切実な願い。
―◆・◆・◆・◆・◆―
結婚生活、一ヶ月が経った頃。それは突然やってきた。
「心優にバディが必要――、と言いだしてね」
「どなたがですか」
「御園大佐が」
心優はきょとんとした。
バディってなに? 別に刑事でもないし特殊隊員でもないし……? 秘書室でバディなんて聞いたことない?
またあの眼鏡の大佐がにっこり笑顔でなにを企んでいるのかと、心優は嫌な予感。
「そんなこと、いつおっしゃっていたのですか」
「一ヶ月前かしら。心優が入籍した頃よ。許可をくれたらめぼしい隊員をスカウトしてくるとか言ってね」
「きょ、許可されたのですか」
「その隊員を見てから決めると言っておいたの」
そ、それで?? とてつもなく気が急く。どうしてそうなったのか、どこまで事が進んでるいるのか。それに御園准将秘書室の護衛官、ミセス准将の側近として女性二人、馴染んできた空気がある。そこに見ず知らずの隊員が入ってくるなんて……『嫌』!! それが心優の率直な気持ち。
「昨日ね、心優が護衛部の訓練に行っている間に、細川連隊長とテッドと一緒に面会したわ」
「れ、連隊長まで!」
「私のそばに配置する『男』だから、自分も見ておかなければ気が済まないと言ってね。それに隼人さんがスカウトをするためには連隊長の許可もいるものだから」
要らないといいたい。でも、御園大佐の意図が知りたい。そしてミセス准将もほんとうはどう思っているのか。
「もうすぐその隊員が来るの。あとは心優と対面してもらおうと思ってね」
「その彼はもう転属されているのですか、承知したのですか」
「転属はまだ。でも、今回の連隊長との面会で概ね、決定したでしょうね。正義兄様はもうすっかりその気。その隊員本人も隼人さんが来ないかとスカウトに来た後は暫く迷ったみたいだけれど、あちらの上官にも説得されて、いまは頑張りますとやる気満々ね」
いや、そんな男いらない! ただでさえ事情持ちの女性であるミセス准将のおそばにいるにはいろいろと気遣いが必要だし、事情を知るのにも口が堅い信頼がおける隊員でなくてはならないのに。
でも。あの細川連隊長が許可したというのが、気になる。あの人が御園のタブーを目の前にする男を簡単に気に入るはずもない。いったい、どんな男?
そう思うと、心優の中で妙な炎が燃えた。ここまでに御園大佐の目にとまり、細川連隊長にも気に入られ、御園准将もはね除けないで受け入れようとしているその男、どんな男か気になる!
「わかりました。お会いします」
「そう。では連れてきてもらうわね」
何故か、御園准将がホッとしたように見えた。心優に断られたくないと思っていたかのように?
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