37.帰還するその日まで

 翌朝。心優と雅臣は、また制服姿に整えている。


「なあ、心優。制服じゃあ、まずい気がするんだよ。だってさ……」


 白い夏服シャツに黒ネクタイにスラックス、でも雅臣が金色の星が煌めく黒い肩章に触れる。


「そうかなあ。スーツ姿で行く方が『あ、父親の俺が下官だから気遣ってくれたんだ』と感じちゃうと思うんだけど」


 また制服で行くか、スーツで行くかで、二人は迷っていた。

 そして結論がやっぱり『いつも通りの自分たちで行く』になった。それが気遣っていない証拠ということにして。


 でも雅臣はプライベートの結婚のご挨拶だから、制服なんて関係ないとまだ捨てきれない様子。


「お父さんも気にしないと思うよ、そのほうが。仕事では臣さんのことを大佐だと敬うけど。だって、それって、大佐の姿って臣さんの最高の姿じゃない。わたしは、そんな臣さんをお兄ちゃんに紹介したいな」


「お兄さんに……か」


「大佐だって見せておいた方が威厳があって、下手に手を出さないと思うんだよね」


 手を出すだと? 雅臣が妙にそこを恐れて、震え上がっている。


「お、お父さんより。兄ちゃんのほうが怖ええ……」


 ネクタイの結び目に手を当て、緊張の息を荒くしはじめた。


「大丈夫だって……。なんにも、しないって……」

「言いきってないだろ。どんなことされるんだ? 投げ飛ばされるとか? それが男の洗礼?? な、な、」


 ああ、凛々しい大佐殿なのに。お猿さんになって崩れちゃってる。心優はもう会わせるしかないなと苦笑いしかできなかったが。


「わたしだって、アサ子お母さんのライダー姿だけ見た時と、双子ちゃんに怒りまくっていた声を聞いた時は、どんな怖いお母さんなんだろうってドキドキしていたよ」


「う、わかってる。今度は俺の番だって。園田少佐は男気溢れる格闘教官、あの男らしいお父さんみたいな兄さんが二人いるだけだって」


「言っておくけど。臣さんの方がずうっとずうっと男前だよ。自信もってよ。小笠原の空部隊、雷神飛行隊の指揮官なんだよ。大佐殿なんだよ。五千人も収容する空母艦の副艦長なんだよ」


「でも。上の兄さんは、桜花柔道部のコーチなんだろ。オリンピック選手を育てているんだろ。そっちだってすげえじゃないかよ」


 こんなに狼狽えている臣さんも珍しいなと心優は呆れてしまった。

 でも。わかるな。わたしもすっごい緊張してきたんだもの。ましてや、あっちの兄ちゃんもゴリ兄だもんねえ……。


 今度は大佐殿の番。心優と雅臣は浜松の実家を出て、今日は沼津に向かう。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 お別れ前。心優はそっとキッチンへ向かう。

 今日も半袖のロゴTシャツに黒いデニムパンツ姿で料理をしているアサ子お母さんの背中がある。


 白金髪にライダースタイル、豪快な怒声。最初はびっくりしたけれど、話せば話すほど、自分のスタイルを貫き通してきた女性。その背中にいっぱい教えてもらった。


「アサ子お母さん」


 朝日の中、目玉焼きを焼いているアサ子母が振り返る。


「ああ、おはよう」

「おはようございます。手伝いますね」


 心優はエプロンを借りる。


「いいよ。そんな綺麗な真っ白のシャツが汚れたら困るし」

「毎日着ている、普段着の制服ですよ。汚れて当たり前なのです」


 臆せずに素直に返すと、アサ子母も嬉しそうに微笑んでくれる。


「じゃあさ。そこの刻んだ野菜をサラダにするから盛ってくれる」

「はい」


 少しだけのお手伝いとなったが、アサ子お母さんとふたり、一緒にキッチンで最後の朝を過ごす。


 雅臣も車に荷物を積んでくれている。浜松から沼津まで車で行く。

 朝食の準備が終わって、食卓へ運び終わったあと。雅史父と雅臣を呼ぶ前に、心優はお姑さんへ向かう。


「お母さん、これ。賑やかで渡しそびれていたのですけれど……」


 ラッピングされている箱を差し出した。


「え、なんだいこれ」


「お土産にチョコレートをと思っていたのですが、ううん、きっとチョコじゃない。これかなと……わたしが勝手に選んでしまったんです。お母さんに使って欲しくて」


「私にかい?」


 アサ子母が驚いた顔をする。心優が選んだ贈り物。


「お母さんと出会った記念……かな……」


 自信なく伝えてみたけれど、アサ子母は嬉しそうな笑みを浮かべて早速手に取ってくれた。


「うわ、嬉しいな。なんだろう。開けてもいいかい」

「はい、もちろんです」


 あの日、心優がお土産にと考えていた准将大好物のチョコレートを、雅臣のせいで逆にアサ子母がお土産にと小笠原に持ってきてしまった。その後、お母さんはチョコじゃない、これだと心優は思いついたもの……。


 アサ子母がその包みを開けて、箱の中に入っているものを確かめ、さらに笑顔になってくれた。


「スカーフだね! それにこれ、ライダーグローブ!」


 サイケデリックな柄のスカーフに、夏用のメッシュ手袋。それが心優が選んだ贈り物だった。


「夏でも首元は日焼けとかするし、風で熱も奪われやすいから、スカーフをたくさんお持ちで集めているような気がしたんです」


「よくわかったね! そうだよ。バイクに乗る時はスカーフをするんだ」


「初めてアサ子お母さんの姿を見せてもらった画像で、黒いレザーに映えるスカーフをお洒落にしていたのが印象的だったんです。きっと、そこがお母さんの一番のお洒落だと思って……。柄はわたしが勝手に……」


 ドーリーちゃん!! またお母さんが心優をぎゅっと抱きしめてくれる。


「葉月さんがあんたを欲しいって、雅臣のところから小笠原に連れて行っちゃったのがどうしてか。いまなら私もわかるよ。ドーリーちゃんは凄い子だよ。いいか、自信を持つんだよ」


 う。また泣きたくなってきちゃう。どうしてゴリ母さんってこんなにあったかくて安心できちゃうんだろう。もうずうっとこうしていたい!! もう心優の目はうるうる涙が浮かんできた。


「いい手触りだね。シルクだね! これは季節問わずにできそうだね。柄も色も、すぐにしたくなるものだ」


 さっそく首に巻いてくれ、アサ子お母さんも目に涙が浮かんでいたから、心優はついに涙をこぼす。


「気をつけて行ってくるんだよ。ドーリーちゃん」

「はい」

「今度はドーリーちゃんのために、帰還の時は横須賀におかえりなさいのお迎えに行くよ」


「ほんとですか」

「うん。だから、なにがあっても絶対に還ってくるんだよ」


 もう心優は涙も声も抑えられなくなって泣いてしまった。


「あ、母さん。なんで心優を泣かしているんだよ」


 荷物を積み終わった雅臣がキッチンを覗きにきた。


「は? 泣かしてなんかいないよ。……別れを惜しんでいたんだよ」

「は? そんな、惜しい?」


 もうほんとに息子ってなんにもわかっていない!

 だから雅臣の目の前で、心優はアサ子母にぎゅっと抱きついた。

 雅臣がギョッとした顔になる。


「え、み、心優? な、なに母さんに抱きついてんだよ」


 だが今度はアサ子母が心優をぎゅっと抱きしめ、息子を睨んだ。


「雅臣。心優さん泣かしたら、承知しないからな」

「え、え。どういうこと????」


 この二日間。女同士でどんなことを交わしたかなど……。息子は知らず。それも女の秘密。心優とアサ子母は最後は微笑みあっていた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


「心優さん、もう行っちゃうんだ」

「お正月は空母艦に乗っていて、会えないんだよね」


 いよいよ車に乗り込んで、浜松の城戸家とお別れの時。

 助手席に乗った心優をみて、双子ちゃん達が泣きそうな顔。


 もうほんとに身体は立派な大人なのに、そういうかわいい顔をされると、お姉さんな叔母さんまで愛おしくて泣きそうになる。


「帰ってきたら会えるよ。また小笠原に招待するから来てね」


 うん。絶対に行く! と二人が心優を見送ってくれる。


「心優さん、楽しかったよ。ちゃんと帰っておいでよ。私も、母さんと双子と一緒に帰還のお出迎えに行くからね」

「真知子お姉さん……。ありがとうございます。お姉さんも双子ちゃんと一緒に小笠原に来てくださいね」


 今日も綺麗にヘアメイクをしているお洒落なビッグママの真知子姉も、ご主人の史也さんと一緒に名残惜しそうに見送ってくれる。


 アサ子母と雅史父は運転席にいる雅臣と別れを交わしているようだった。


「雅臣、無理すんじゃないよ。母さん、あんたの結婚式楽しみにしているんだからね」


「わかってるよ。もう戦闘機乗りじゃないから前ほど危険じゃないって」


 そこはどこの母子もおなじであろう、案じる母と大丈夫と意地を張る息子の姿。


 でも最後。やはり、普段はのほほんとしているけれど、大事な時は威厳ある眼差しを見せる雅史父が息子に向かう。


「空に出る者がどれだけ危険かはおまえがいちばん分かっているだろう。今度はおまえが、空に出る若者を守る番だ。ひとり残らず家族の元に帰す。大佐の使命だ。わかったな」


「うん、わかったよ。父さん」


 自分の身は空母で守られても、戦闘機で空に出るパイロットは丸裸。その丸裸を経験してきた大佐殿が今度はその危機を一手に引き受ける責任がある。最後、父親がそんな大佐殿の気を締めた。


「心優さんも気をつけて」

「ドーリーちゃん、待ってるからね」


 心優には優しい笑みを見せてくれる城戸のご両親、心優もこっくり頷いて別れを惜しんだ。


「じゃあ、行くか」


 雅臣が車を発進させる。

 ゆっくりと動く車の横を、双子ちゃん達が走って追いかけてくる。びっくりした心優は窓を開ける。


「心優さん!」

「心優さん、叔父ちゃん。帰ってきてよ!」


 なんだろう。この子達、すごく切羽詰まった顔をしてる。だから心優は安心させるために笑顔を見せる。


「ユキ君、ナオ君。絶対に還ってくるよ!」


 手を伸ばすと、その指先に双子の指がちょっとだけ触れた。それが最後。それで満足したのか、双子が走るのをやめて何度も手を振ってくれる。


 心優もバイパスの大きな通りへと雅臣が車を出すまで、双子ちゃんが見えなくなるまで手を振った。


 はあ、なんかこっちも涙が出ちゃった。走り出した車の助手席で、心優はハンカチで目元を拭う。でもその横からもぐずぐずする泣き声が聞こえてきて、心優はギョッとして運転席を見た。


「や、やだ。臣さんまで――」


 雅臣も涙をぼろぼろ流している。でもハンドルから手を離せないので流しっぱなし。


「くっそー。こんな帰省、初めてだよ。なんだよ、こんなふうに見送ってくれたことなんてねえよ。あんな双子のかわいい顔見たら泣けるじゃないかよっ」


 ああ、やっぱり叔父さんとしてあの二人の甥っ子ちゃん、かわいくてたまらないんだと心優も痛感する。


 運転している雅臣の代わりに、心優が涙を拭いてあげる。


「うー、心優のおかげだな。みんな、心優のことあんなに気に入ってくれて、俺、嬉しかった」


「ううん。臣さんの家族だからだよ。臣さんみたいな大佐殿が育ったわけがよくわかるご家族だったよ。うんと楽しかった」


 はあ、良かった。ひと安心。雅臣も幸せそうな笑みを浮かべている。家族と彼女が上手くいったという安心だけではないはず。


 今日、雅臣の腕にはあのパイロットウォッチ。長年の胸の支えが取れた帰省でもあったはず。


「その時計、似合うね」

「うん、びっくりするくらいしっくりする」


「ちょっと妬けちゃうな。……わたしだって、いつか臣さんにパイロット時計と思っていたのに……」


「ええ? 心優がプレゼントしてくれたら、それだって大事に使うよ。健一郎のは胸にしまう」


「ほら。同等なんだ」


「マジで嫉妬してるのかよ? いままでそんなことあまりなかっただろ?」


「臣さんが知らないだけで、してるよ。女の気持ち、まったくわかってないんだから。今回の帰省でもほんと余計にそう思ったよ」


 え、え? 俺そんなに鈍感だった?? 雅臣が本気でわかっていない自分をわかっていないので、逆に心優は笑いたくなってきた。


 そりゃあ、お金も取られるはず。でもそんなお猿さんだからこそ、愛おしいんだけれどね――?


「安心してよ。わたしも健一郎さんの気持ち、大事にしていきたいから」

「心優……。いま運転してなければ抱きしめたいところだな」


 でも。今夜は伊豆の隠れ家温泉。急に雅臣がむふふというお猿な男になったので、心優は呆れていた。


 だけど。そうなんだよね。今夜は制服を脱いで、なにもかも忘れて、二人きり。大佐であることも、准将の護衛官であることも、小笠原では捨てきれない生活。


 でも今夜はそれすらも脱いでしまうの。誰にもなににも邪魔されない、二人の初めての旅行。

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