33.息子は悪くない

 息子に先立たれた母親の視線が心優に注がれる。

 息子が一緒に天へ連れて行こうとした男と、結婚する女という眼差しなのだろうか。心優もじっと固唾を呑むしかない。


「そう、だから来てくれたの。マサ君。かわいいお嫁さんを見せにきたってこと?」


 結婚の報告に来たのか。伊東夫人の声にやんわりとした棘を感じる。

 心優はドキドキしていたが、そこは雅臣のほうが毅然としていた。


「いいえ。去年、ようやく空部隊の現場に戻ることができました。空母任務も済ませ、」


 そこで雅臣がやや口をつぐむ仕草、でも、一瞬、すぐに続ける。


「空母任務を済ませ、『雷神』の指揮官に就任しました。いま、後輩達を指導しています」


 雷神に戻った。だから来た。雅臣はそこを強調した。


「あの雷神に――ですって?」

「はい。五月に帰還してからすぐです」


 伊東夫人も驚きで固まっている。

 きっとここでは『雷神』という言葉は、あの事故のキッカケを作った原因だと思われているはず。だから雅臣が言い淀んだんだと心優は思う。


「俺を抜擢してくれた雷神隊長の下に戻れたんです。コックピットの復帰ではないけれど、いま、後輩の指揮をして同じように飛んでいると感じられる毎日を送っています」


「でも、コックピットはもう……」


「それも、一度だけ。そこの基地で最後の適性テストをしてエリミネートになりましたが。自分の上官達が、最後に一度だけ、川崎T-4の練習機で飛ばせてくれました。俺、コックピット業務は戻れなかったけれど、コックピットには一度だけ戻れてやっと引退できたんです」


「うそ、マサ君……。また飛べたってこと!?」


 微笑を浮かべた雅臣が、こっくり頷く。


「六月ぐらいに、そこの浜松基地にいたんです。この上空も慣らしで飛んでいました」


「じゃ、あ……、マサ君……、コックピットと、現役と、ちゃんと、お別れできたの」


「はい。戦闘機の操縦資格は返還しました。でも軽飛行機の免許の取得もできたので、まだまだ飛べますよ」


 やっと雅臣が自信を取り戻した笑顔を明るく見せた。


 そう、コックピットを取り戻したから、きちんと別れを告げられることができたから、思い残しはもうないから、だから気に病まないで欲しい。

 アサ子母は心配していたけれど、心優も気構えていたけれど。必要なかった。雅臣からちゃんと残された伊東夫人の足枷を外そうとしてくれている。


「彼女も、一緒に搭乗して空を飛んでくれたんです。なにせ、うじうじしていた俺を本気に空に戻そうとしてくれたのも、彼女がいてくれたからなんです」


 雅臣の報告がまだ信じられないと震えていた奥様の目線が、再び心優へ――。


「だから、連れてきてくれたの」

「そうです。健一郎を紹介したいし、健一郎には絶対に彼女を紹介したかったから」


 そのまま、伊東夫人が黙ったが、しばらくしてさらにドアが開いた。


「そうでしたか。いらっしゃいませ。どうぞ、健一郎に会っていってくださいませ」


 お母様が丁寧にお辞儀をして迎え入れてくれた。


「これ、健一郎に――」


 雅臣の手の花束。それが差し出される。


「ありがとう。マサ君……」


 やっと穏やかな微笑みで、お母様が大きな花束を受け取ってくれた。


 まだ、ざわざわしている風――。ずっとざわついていて、まるでこちらを見てるような気がする心優だった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 上がらせてもらうと、すぐに仏間に案内してくれる。

 畳の和室の部屋。黒い大きなお仏壇。そこで心優は初めてその男性の顔を知る。


 しかも位牌のまわりには、いくつかの写真が並べられている。それを見ても心優は驚かされ、そして、雅臣も目を瞠っていた。


「おばさん、これ、こんなに」

「大好きだったからね、あの子。雅臣君と、戦闘機がね」


 雅臣よりずっと小柄、でも日本男性標準体型である好青年が、パイロットスーツ姿の雅臣と並んでいる写真。


 どの写真も、雅臣と写っているものばかり。そして雅臣の姿は、海軍制服姿か浅葱色のパイロットスーツ姿。横須賀基地でマリンスワロー飛行部隊に所属していた頃のものだった。


 さらに展示飛行らしき会場の上空を飛ぶ、ホーネット。尾翼には『燕と朝日のペイント』。マリンスワロー機。コックピットにはきっと雅臣がいるのだろう。


 仏壇の前に伊東夫人が座り、息子と雅臣が写っている滑走路の写真を手に取った。


「あの子、雅臣君のおっかけだったものね」

「そうでした。俺の展示飛行の開催日には、でっかい望遠のカメラを持って必ず来てくれて」


 この家がどうなっているか恐ろしかった。でも、その仏壇はとても穏やかに心優には見える。そう見えたいという心優の切望がそう見せているとは思いたくない。


 だって。憎んだり羨んだり妬んだりしていたら、こんなに雅臣の写真を飾っていないと思う。息子の周りに、大好きだったものに囲まれるように弔ってくれていたのだから。


「健一郎、マサ君が来てくれたわよ」


 お母様が蝋燭に火をつけた。優しく儚い小さな炎が揺れる。

 雅臣も静かに仏壇の前に用意されていた座布団に正座をした。心優もその後ろにそっと控えて正座をする。


 お母様が線香の準備をしてくれ、雅臣が受け取り、火がついている蝋燭へ。厳かな香りの煙がたつ。線香をあげた雅臣が手を合わせた。


 合わせたその瞬間だった。雅臣の肩が震えていた。そして、微かな嗚咽が……。臣さん大丈夫とも聞けずにそっと覗き込むと、うつむいている彼の目元からぼたぼたと大きな涙が落ちていき、頬も濡れに濡らしている。


 男の嗚咽が僅かに、でもずっと響いている。


 ずっとずっと溜めていたものが、堰を切って流れ出して止まらないよう。もう心優もなにも言葉をかけられない。できれば、ここから離れたい。逃げたいんじゃない、見ていられないのではない。雅臣を一人きりに、ううん、二人きりにしてあげたい気持ち。


「園田さん、あちらにお茶を準備しますから……」


 白髪交じりの髪をひっつめているお母様が、そっと囁く。助け船だと思った。息子と雅臣を二人にきりにしてあげましょうという気持ちはお母様も一緒だったよう。


 仏間に雅臣を置いて、そっとその部屋をでる。





「冷たい飲み物を準備いたしますね。こちらでお待ちになっていて」


 広いリビングのソファーへと案内され、心優も静かにそこに落ち着いた。


 重苦しい空気。でも、なにか空気が流れて回っていると感じている。

 しばらくすると、伊東夫人が冷たい麦茶を持ってきてくれ、彼女が心優の正面に座った。


「いつ結婚式を挙げるの」

「来年です」

「あら、ずいぶん先なのね」

「また一緒に海に出るんです」

「あなたも?」


 付き添ってきた女の子も雅臣と一緒に航海に行くようには見えなかったようだった。


「わたしの上官は、雅臣さんを雷神に抜擢した隊長で、空部大隊長です。その隊長の秘書官をしております。艦長を務める上官なので、その方が着任すると、わたしも付き添うことになりますから、いまは一緒に海に出るようになっています。そうなると、式を準備する時間がなのです」


「まあ、そうだったの」


 これお口に合えば――と、急な訪問だっただろうに。盆が目の前のせいか、仏壇に供えてあったお菓子とおなじものを差し出してくれた。


 でも。美味しそうに食べられる自信がなくてそのまま見つめて黙っていると、伊東の母が溜め息をこぼした。


「いまだにね、信じられないの」


 息子が死んだことが、と言いたいのだろうと心優は思ったが、その心境はやや異なるものだったと知ることに。


「ただの事故、運転を誤っただけ。いまでも……、そう信じたい……」


 今度はお母様が途端に嗚咽を漏らし、目元を覆ってしまい心優は戸惑った。


「どうして事故になったのか、雅臣君が最後の、息子の言葉を教えてくれた時……。そんなことをする子じゃない、ブレーキとアクセルを踏み間違えただけだって、自分から死のうとするはずないといまでも思っている!」


 一気に、心優の全身が硬直した。


 そうか。雅臣の証言を受け入れてしまうと、このお母様の息子は自ら死を望み、なおかつ友人を殺そうとしたことになってしまうんだと気が付いた。


 それならば。不慮の事故で不運で息子は逝ってしまったんだ、息子に罪はない、息子は潔白だと思う、信じる、母心なのだろう……。


 だったら。雅臣の証言をずっとつっぱねてきたということになる。ということは……。


 アサ子母の言葉が蘇る。『なにを言っても受け入れてもらえないよ。聞き流しておいで。特に心優さんはその事故当時を話でしか聞いたことがないのだから……』。余計なことは言わず、聞くだけに留めておきなさいと言われている。


 既に、アサ子母もなにを言っても話が通じなくなったと、哀しそうに悔しそうにしていたから、このことかと直面するのと同時に、いま自分はその思いが渦巻く渦中にやってきてしまい、心優も渦巻かれていると悟った。

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