32.親友、冷たい風の誘い
アサ子母が言う。
パイロットを夢見ていた息子がパイロットになれず、親友で一緒にテストを受けようと誘った雅臣の方がパイロットの才能を持っていた。パイロットの夢に破れた息子が必死になって他のことで邁進しようとしている姿も支えてきたはず……。
息子の切ない姿を見守ってきたのに、その夢に喰われてしまった息子を失った母親の気持ちをよく考えて。
そして。健一郎という男性と雅臣がどれだけ仲が良かったかも、城戸家によく遊びに来ていたこともアサ子母は教えてくれた。
真っ白なシャツ、肩には金の星と黒の肩章。そして黒いネクタイに、黒のタイトスカート。いつもの制服姿に整える。
正装制服で行くべきか、パイロットの姿を匂わせないためにも私服で行くか。雅臣を話し合った結果、大袈裟にせず、あからさまに気遣ったことも匂わせず『普段どおりの通常制服で行こう』と決めた。
「心優、昨夜、母さんとどこかにでかけただろ」
朝になり、雅臣といつもの制服姿に整えていると、黒いネクタイを結んでいる雅臣が背を向けている姿で呟いた。
「え、……うん。ハーレに乗せてもらったんだ」
「やっぱり。やると思った。絶対に心優を乗せたいと思っているだろうなって。どこまで行ってきたんだよ」
女同士の秘密。だから心優はあの駐車場のことは言わない。
「そこらへんを走ってきただけ。気持ちよかったよ。ハーレーの話もいっぱい聞かせてもらった」
「つきあわせて悪いな。でも、ありがとうな。母さんの大好きなバイクの話も受け入れてくれて」
ああ、息子って。息子って。なんにも知らないんだなと初めて思った。
「ううん。楽しかったよ。これからのことも、困ったら我慢しないで言うんだよと何度も言ってくれて、頼もしかったよ。臣さんの実家に来られてほんと良かった」
微笑むと、雅臣がいつになく泣きそうな顔になっていたので心優はびっくりする。
「臣さん……?」
大きな手が心優の頬に触れる。
「いや、安心しただけ。もう小笠原に帰りたいぐらいだよ。あ、もちろん。心優の実家に行くのも伊豆に行くのも楽しみにしている」
でも。あの官舎でいつもどおりの生活がいちばんいい。雅臣がそういいながら、心優を抱きしめた。なんだか臣さん、センチメンタルになってるのかな――と思ってしまった。
朝食は四人で。真知子姉と双子は近所の自宅に戻ったため、今朝は雅史父とアサ子母、そして雅臣と心優の四人でとても静かだった。
朝の音楽は、お父さんの懐かしどころなのか《Nothin's gonna stop us now / 愛はとまらない》という曲が流れていた。
昨夜の賑やかさとはうって変わって、アサ子母はお父さんの隣でしとやかな様子でゆっくり落ち着いてごはんを食べている。
そして両親ふたりは、雅臣と心優が制服姿でいるにもかかわらず、なにもいわなかった。
「行ってきます」
雅臣がでかけようとするところで、雅史父とアサ子母が玄関で『気をつけて』とだけ添えて見送ってくれただけ。
それでもただならぬ緊迫した静かな空気だったと、心優は緊張しっぱなしの朝ご飯だった。
レンタカーに乗って、昨夜注文しておいたお仏前にお供えする花束を受け取り、いよいよ伊東家へ。
「寒い……」
おかしいな。夏なのに。心優はふとそう思った。
雅臣が車のクーラーを切った。
「今日も暑くなるっていうからさ。ちょっときつめに入れたんだ。悪い」
それが彼が車に乗って、初めて喋った言葉だった。それだけ彼がものすごく気構えて余裕がないのが心優には伝わっていた。いつもの愛嬌あるおおらかなお猿さんじゃなくて、ひんやりしている室長だった時のような横顔ばっかり。だから寒いのかな? とも思ってしまうほど。
いちおう冷房対策用の制服ジャケットを持ってきたので、心優は肩章付きの制服ジャケットを羽織った。
クーラーじゃないなあ。もしかして、昨夜、バイクに乗った風で身体を冷やして? ふとそう思ってしまった。
車を使ったのは、花束を取りに行くのと、最後に墓前へ行くため。でも雅臣が運転する車は、城戸家からそんなに離れていない通りの住宅地へと入っていく。
ついに車が止まり、雅臣が言う。
「ここだ」
一緒に車を降り、雅臣が花束を持つ。
心優も一緒に雅臣の隣に並んだ。
白い夏ツバキが咲いている庭、そして緑の大きな木もある大きめの一軒家。
玄関のチャイムを前にすると、庭の大きな葉がざざっとざわめき、風が心優と雅臣の黒いネクタイを翻した。
やっぱ。寒い?
緊張している心優は肌寒さを感じていた。
雅臣が深呼吸をする。そしてついにカメラ付きインターホンのチャイムボタンを――。
『はい』
女性の声。
「おひさしぶりです。雅臣です。お元気でしたか」
女性の返答がなく、沈黙のまま。でもがちゃりと受話器を置いて切ったような音もしない。
『マサ君?』
「はい。お久しぶりです。健一郎に会いたいんです。会いに来たんです」
『……マサ君、もう考えたくないの』
「会わせてください。会いたいんです。すごく、会いたいんです!」
インターフォンに詰め寄って必死な雅臣の姿に、心優はもう泣きそうになる。
『つらいの。そういう制服姿のあなたを見るのが。立派になられたそうね。大佐になったと聞いたわ。充分でしょう。もう……。あなたにも忘れてほしいの』
どんな思いだったことか。息子が成れなかったものになった息子の親友。パイロットではなくなっても、その息子の親友は違う道を歩んでもその栄光を掴んでいる姿。
やっぱり制服で来るべきではなかったもしれない。でも雅臣もそうだし、心優も話し合った時に同じように思った。『偽らない、取り繕わない、いつもの俺達の姿で行こう』と二人で決めたことは間違っていないと思いたい。
そして雅臣も、ここまで来られるのに何年もかかったのだから、そんな簡単には引き下がらない。
「連れていきたいんです。一緒に行きたいんです。次の航海には健一郎も一緒に。誘いに来たんです。俺と海に行こうって、一緒に空を護ろうって……!」
ついに、がちゃりと受話器を置かれた音がした。
シン……と静まりかえる。インターホンからはなんの声の気配もない。
またざわざわとした大きなざわめき。風が心優と雅臣を煽る。今朝、城戸の家を出てきた時は暑い夏の朝だと思っていたし、こんなに風は吹いていなかったのに。
その風が肌に当たると寒い。さっきの風よりずっとざわざわざわざわと吹き続けやまない。心優の腕に鳥肌が立つ。その瞬間。
目の前の大きなドアがそっとゆっくりと開いた。でも小さな隙間だけ。
「おばさん!」
小さな頃に雅臣はそう呼んでいたのだろう。子供のような呼び方。
僅かな隙間は暗く、でもそこに品の良い小柄の女性がそっと覗いている目だけが見えた。
「マサ君……」
「お願いだよ、おばさん!」
それでもドアを大きく開けようとしない伊東のお母様。
また風は吹く。玄関にもその風がヒョウと入り込んだのを心優は見る。大きめの緑の葉がするりと入ってしまった。そのせいなのか、奥様が驚かれたせいなのか、ドアがふっと大きく開いた。
「うるさい風ね、まったく」
庭のざわめく緑葉樹を彼女が恨めしそうに見る。
開ける気がないのに開いてしまったとばかりの致しかたなさそうな顔。でもその木を見て、どこか泣きそうな顔をしている。
「健一郎なのかもね。どうぞ、雅臣君。……待っていたのかもしれないわね、あの子」
ついに玄関奥へと促してくれた。
もう雅臣の目には涙が浮かんでいた。
「おばさん……。俺……」
「ほら。もう相変わらず泣き虫ね」
泣き虫!? お猿さんってもしかして子供の頃は泣き虫さんだったの? ちょっと意外すぎて心優はびっくり固まってしまった。
「あら。そちらの方は……?」
心優に気がついた伊東夫人に、一礼をする。
「園田と申します。小笠原の基地でおなじ空部隊に勤めております」
それでも女性連れだったことを訝しんでいるお顔。雅臣がはっきりと告げた。
「彼女と結婚するんです。健一郎を紹介したくて連れてきました」
まあ……。
奥様がすごく驚いた顔を見せ。また暗く翳る眼差しになる。
片や息子は二度と帰らぬ人で、片や親友は昇進を遂げ、結婚をする――。それを目の当たりにするのは辛いことだと心優も思う。
ほんとうについてきて良かったのか。
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