31.海軍大佐の、妻と母
夜の湖畔は、初めてではない。
でもこんな湖畔の風は初めて!
レザースタイルの大きなお母さんの背中に掴まって、ヘルメットをかぶった心優は爽快な風に感動している。
ガードレールの向こうに見える街灯りがキラキラしている。水面の夜明かりが光の筋になってついてくる。
どんなカーブもお母さんはかっこいいハンドルさばきでこなしていく。そして心優もそれにつられて身体の重心を変えていく。
二人の身体の動きがシンクロする時、お母さんと繋がっているんだと感じられるこの感覚。
ある程度走ると、アサ子母のハーレーダビッドソンは湖畔の展望台のような駐車場に停まった。浜名湖を眺めるためのパーキング。駐車している車はなく、アサ子お母さんのハーレーだけ。
浜名湖の綺麗な夜明かりの景色を目の前に、アサ子母とふたりきりになった。
「涼しいですね、ここ」
ヘルメットを脱ぐと、優しい夜風。それも気持ちよくて、心優は微笑む。
アサ子母もヘルメットを脱いで、白金の髪を風になびかせ爽やかな微笑み。ほんとうに雅臣にそっくりだった。
「ひとりになりたい時に、よくここに来るんだ」
「そうでしたか。素敵な眺めですね」
「昼の晴れている日も、静かな夜の日も。ここにくると、落ち着くんだ」
その人それぞれ、落ち着く方法がある。アサ子母の場合、ハーレーダビッドソンを飛ばしてこの場所にくること。そこに心優を連れてきてくれたという感激……。
「心優さん、ありがとね。真知子が双子のことを気にしていたんだけれど、心優さんと話して気が楽になったみたいだよ」
「いえ、あの……。ほんとに、ユキ君とナオ君はかわいいです。身体は大きくてもう大人のようですが、まだ純粋で素直。だから真っ直ぐに行動しちゃうだけだと思うんです。まだこれからです。その真っ直ぐさが彼等を大きくしてくれる気がします。あの葉月さんに連隊長がなにかを見つけた顔をしているのをみてしまった部下としても、そう思っていますから、それを真知子さんに伝えただけです」
するとアサ子母がちょっと驚いた顔を見せた。
「いやあ、ほんとうに葉月さんの部下なんだね。葉月さんも似たようなことを言っていた。だから気にしないように、あの特性が活かせる道を見つけてあげたいってさ」
「准将がそんなことを?」
アサ子母が微笑んで頷いた。でも、その後、直ぐに。哀しそうな眼差しで、湖の夜明かりへ遠くへと視線を馳せている。
「あの時。心優さんに食事に行くようにと伝えて、彼女と私の二人だけになっただろ」
「ああ、はい」
心優はそこにいたかったのに。ミセス准将に人払いされてしまったあの時のことだと思い出す。
「特別に聞かせてくれたんだよ。空母で国境を警備するのがどのようなことかってね。雅臣じゃない、本当は心優さんが危なかったんだってね」
ドキリとした。前回の空母航海では、不審者が侵入してしまいその傭兵と心優は刃物を振りかざしあう戦闘をした。そして、銃を向けられ危機一髪、秘密裏にシドが潜入してくれていたから助かったようなもの……。あのことを御園准将が、母親であって姑にもなるアサ子母には安心してもらうように話していたようだった。
「……あれは、たまたまで」
「そうかな。国境はきっとそれが常の場所なんだろね。国同士のせめぎあい。雅臣も空でそうして、護ってきてくれたんだろうとわかっていたけれどさ。それがどうしてうちの息子だったのかなとよく考えていた」
またお母さんが湖畔の水面へと眼差しを伏せる。
もしかすると、息子を案じるたびにここに来たのかもしれない。臣さんは放任主義で迎えにも来ないよと言っていたけれど、ほんとうはこうして落ち着いた姿を見せて逆に息子に心配するな思い切って行ってこいと安心させていたのかもしれない。でも不安だからこうして……。
そして今度は嫁になる心優も同じ最前線へ行くことを案じてくれていたのかもしれない。
「でも。息子もお嫁さんになる心優さんも、絶対に帰還させる――と葉月さんが約束してくれた」
あの時、そんな話をしていたんだと心優はやっと知る。
「心優さんはいずれ陸勤務になるとも教えてくれたよ。ただ雅臣については、これから責任者として就任するからいままでどおりに信じて見守ってほしい。自分も陸から艦を護るからと話してくれたね」
「わたしもそのつもりです。御園准将はそれができる方です。准将のおそばについて、陸から雅臣さんを護りたいとずっと思ってきました。そんな妻でありたいと思っています」
やっと。アサ子母がにっこりと微笑んでくれる。
「うん。心優さんならきっと大丈夫、ううん、でも心細いこともあるだろうね、だからさ……」
そこで湖をみつめて一緒に並んでいたお母さんが、このまえのように、心優をぎゅっと豊かな胸元に抱きしめてくれる。
「だから。ちゃんと還ってくるんだよ。ママになって子供達をひとりで守らなくてはならない留守番の時も我慢しすぎないこと。私も一緒に孫を守っていくからさ。海軍大佐の妻と母親を一緒にやっていこう」
ひとりじゃない。海軍大佐の妻として、母として。心優は初めて知る。このお母さんはもうずっとずっと前から『ファイターパイロットの母親、大佐殿の母親』としての自覚を持ち、覚悟を持ち、息子に『普通の当たり前のお母ちゃんの姿』に整えて何度も海に空に見送ってきた人なんだ。
『待ち人』を見守ってきた女性としてずっと先輩の。
「お母さん、うん……、嬉しいです。心強い……です」
心優も今夜は遠慮なくアサ子母に抱きついた。
ひとしきりあったかい胸に抱きしめられ、アサ子母も気が済んだように離れた。
「わたしのドーリーちゃん。嬉しいよ、一緒にここに来られて。女同士の秘密だよ」
お母さんが本当に人形を撫でるようにして、大きな手で心優の頭を撫でてくれる。
「はい。秘密、ですね。わかりました。……海に出たら、この湖の夜の姿を思い出しますね。お母さんのことも」
「うん。待ってる。ドーリーちゃんの白いドレス姿、絶対に見たいからね。約束だよ」
「はい」
またアサ子母にぎゅっと抱きしめられる。
わたしのドーリーちゃん。ほんとうに娘になったようで、心優は嬉しくて泣きそうになってしまった。
それからしばらく、アサ子母と一緒にハーレーダビッドソンを眺めて『ハーレーもいろいろあるんですよね』とか『いまは走り重視のスタイルにしているよ。マシンのデザイン重視の時期もあったけどね』と、いろいろとハーレーを触りながら、眺めながら、マシンについて話に花が咲いた。
でも。また途中でアサ子母ゴが深い溜め息。ハーレーダビッドソンのシートを愛おしそうに撫でつつも、また寂しそうな目。
「えっとさ。真知子から聞いたと思うけれど。前に雅臣のかわいい恋人にとんでもないことしちゃってさ」
またその話になり、心優は神妙に構えた。塚田夫人の話はこのお母さんにとっても古傷のようだったから。
「私ってさ。こんなだからさ。真知子がよく使う言葉でいうと『女子力』?ってやつがまったくだめでね。綺麗なワンピースを汚しちゃったのに。ちょっと仲直りしたくて。こうして女同士でふたりきりで話したくて……。この場所を紹介したくて……。かわいい服じゃなくなったあの子に『バイクに乗ってでかけよう』なんてデリカシーなく誘っちゃったんだよね」
真知子姉さんが言っていた『ダサイ服を買ってきて着替えた後』のことらしい。
「あの子もいっぱいいっぱいだったんだろうね。バイクに乗ろうと誘ったら……。すごい凍り付いた顔を一瞬ね……。私も自分の感覚ばっかり独りよがりに押しつけちゃって悪かったから、ほんっとに女の子ぽいあの子にあんな服を着せた後にバイクって……困ったんだろうし、だめだったんだろうね。だから……。また、お嫁さんにそんなデリカシーのないことをしちゃうんじゃないかと怖かったんだ」
やっとやっと。アサ子お母さんがどうしてあんなに気遣うかやっとわかった。アサ子母も仲良くなりたくて自分の一番いいものを紹介したかった。そしてカノジョさんにとっては、それまでただ女の子らしくしてきた中では『そばになかった世界』だったから突然触れることになって戸惑っただけ。
でもそれが家族になると意識すると、とんでもない溝を刻んだのかもしれないと……。心優にはそう思えた。誰も悪くない。
「そうでしたか。でも……。塚田中佐は私にとっては素晴らしい教育係の上官でした。あの男性が選んだ女性、そして支えている女性だと思っています。もし雅臣さんとあのまま上手くいってもきっとそんな奥様になっていたと思います。ただ……、生きていく上で、結婚するって……、わたしだってまさか、ずっと大人の上司だと思っていた雅臣さんと結婚できるなんて一年前にはまったく思っていませんでした。そうなれる人となれるのかなって……。自分だけじゃなくて、御園准将と御園大佐を見ていてもよく思います」
「あ、そうかもね。葉月さんの旦那さんがメガネのガリ勉そうな男の人でびっくりしたかな。あの連隊長さんのような怖そうな男性が旦那さんてイメージだったから」
「まさか! メガネの静かな理系男子にみえるかもしれませんが。相当なやり手なんですよ。葉月さんなんていっつもやられていてお嬢ちゃんみたいにされちゃうんです」
「へえ! ……ああ、でも。私もそうだもんね。まさか、あのお父さんと結婚できるとは思わなかったかな。絶対に、私のような女を嫁にと望む男はいないって諦めていたから」
ああ、その感覚もすっごくわかると、今度は心優がお母さんに抱きつきたくなってしまう。
「わたしだって。横須賀基地で雅臣さんの部下になったばかりの頃は、空手家ボサ子なんてあだ名つけられちゃうほど、女子力なかったんですよ」
「ええ、うそだあ。いまはすごくかわいいドーリーちゃんじゃないか」
「それは、あの葉月さんのおかげです。ミセス准将の隣に相応しい女性になりたいと思って。でも、葉月さんも若い時はチェックのシャツにジーンズだけだったと言っていましたよ」
アサ子母が信じられない――と首を振った。
「そっか。じゃあ……、あのカノジョさんとはご縁じゃなかったんだね。ああなるしかなかったってことだね」
「塚田さんの奥様になられましたけれど……。きっとカノジョさんも、気にしているのではないでしょうか」
アサ子母がそこではっと我に返った。そんなふうに考えたことがなかったとばかりに。
「そっか。じゃあ、こっちもいつまでも気にしていたら、カノジョさんも忘れられないってことだよね」
「誰のせいでもないと思います。双子ちゃん達だって大人になって気にしてしまいます」
うん、わかった。
ふっきれた瞳をアサ子母がやっと見せてくれる。
「アサ子お母さんも、わたしには遠慮しないでください。わたし、ハーレに乗せてもらえて嬉しかったです。カーブの風、すっごく気持ちよかった!」
「そうそう。心優さんがうまく重心移動してくれるからさ。こっちもついつい調子に乗っていつもの運転をしちゃったじゃないか」
私も気持ちよかったよ! と、アサ子母も爽快だったと笑ってくれる。
「いつもの、いままでのアサ子お母さんでいてください」
二人で微笑みあった。お互いに柔らかに打ち解けて心地よい時間を過ごす。
最後に。帰る前にと自販機の前で飲み物を買って喉を潤している時だった。
「ああ、そうそう。心優さんを外に連れ出したのは、もうひとつ大事な話をしておきたくてね。できたら雅臣には聞かれたくない場所でと思って」
また心優は緊張する。雅臣に聞かれたくないとくれば……。
「明日、行くんだろう。健一郎君の実家に。ついていってくれる心優さんには、話しておこうと思ってね」
その男性の名は『伊東 健一郎』。雅臣の幼馴染み、親友だった人。
「健一郎君の、家族のこと。伝えておくよ」
「はい」
心優も気を引き締め、アサ子母の険しい表情に向かう。アサ子母も気張らないと言えないという顔をしている気がする。
「事故のあと、こちら家族同士の付き合いも疎遠になっているんだ。あちらのお母さん、息子を亡くした上に、ずっと馴染みのあった雅臣がパイロットでいられなくなったことも、望んでいた職場を退いたことを知って、すごく気に病んでね。母親同士、私も仲良くしてもらっていたんで、なんとか距離を縮めようとしたけれど……。これも余計なお世話になったみたいで、決裂しちゃったんだ」
幼い頃から仲が良かった息子同士、そして母親同士。母親達の間でも哀しい嵐があったようで、心優の気持ちも一気に沈み、心が痛む。
「ほぼ、追い返されると思う。覚悟して行って欲しいんだ。また雅臣も傷ついて帰ってくるだろうね」
そしてアサ子母にがっしりと肩を掴まれ、心優をまっすぐに泣きそうな眼差しで見つめてくれる。
「頼んだよ。心優さん」
わたしのドーリーちゃん。これから雅臣を支えてほしいと託される。
心優も強く頷いた。そう妻になるのだから――と。
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