30.婚姻届を、書く

 城戸家のテーブルに置かれた『婚姻届』。

 家族に見守られながら、記入する。雅臣と話し合ってきたことだった。


 仕事のスケジュールのため、ゆっくり式の準備ができないから結婚式は来年の予定。でも待てないから、入籍だけ先にする。その前に家族へご挨拶、そして、入籍の心積もりと覚悟を見届けてもらう。


「では、俺から」


 彼がいつも仕事で使っている万年筆を手に取った。


 大事な書類を書く時、国際基地のため捺印同様のサインをすることも多いため、彼もミセス准将のように上等な万年筆を秘書室長時代から持っている。


 彼がペンを持つと、目の前のご両親がとても緊張した顔になる。

 双子も初めてみる婚姻届だと、そっと身を乗り出して……。


「叔父ちゃん、結婚するんだね」

「叔父ちゃん、震えてる?」


「ふ、震えてねえよ」


 なんて言われながらも、雅臣は意を決したようにしてペン先を記入欄に置いた。


 雅臣の名が記された。

 いよいよ、心優の目の前にその用紙がやってくる。


「心優」

「はい」


 人のこと言えない。雅臣が差し出してくれた万年筆を取ろうとする指が震えていた。


「心優さん。頑張って」

「ゆっくりだよ」


 双子ちゃん達が心配そうに、でも、目をきらっとさせて待ちかまえてくれている。


 心優も笑顔で頷いて、万年筆を握った。

 彼の、隣の欄に。心優はゆっくりと、丁寧に。名をしたためる。

 最後に、雅臣と一緒にそれぞれの捺印をする。


 そのひとつひとつを、雅史お父さん、アサ子お母さん、真知子お姉さん、そしてユキとナオの双子もじっと厳かに見つめてくれている。


 心優もとても神聖な気持ちでいる。結婚式も、提出もまだだけれど。これが夫妻になるための最初の誓いのような気がして……。


 二人の捺印が済むと、雅臣が父親に婚姻届を差し出す。


「証人のサインと捺印をお願いします」

「お願いいたします、お父様」


 証人は両家の父親にお願いしてある。まずは城戸家の主にそれをお願いする。

 雅臣の父親も眼鏡をしっかりとかけ直し、自分で準備していた万年筆できちんとしたためてくれる姿。


「うわ、俺も緊張してきちゃった」

「ほんと。まさか立ち会えるだなんて思わなかった!」


 お祖父ちゃんが名前を書いて、捺印をするまで、双子もじっとじっと耐えつつ、でもわくわくしたかわいい顔でちょっぴり覗き込む姿も。


「そうだよ。ユキ、ナオ。おまえたちも、俺と心優が入籍するための証人だからな」


 もう雅臣は緊張から解けたのか、かわいらしく覗き込んでいる甥っ子ににっこりと優しい叔父さんの顔。


 そうか。ここにいるご家族みなさんが証人。そう思うと、いまが結婚式のような気もしてきて、心優もほんとに素敵な気持ちになってくる。


 書き終わり捺印も済ませた雅史父が、記したものをアサ子母と真知子姉に、そして双子にも見せる。それぞれが承知したとばかりにこっくり頷き、双子ちゃん達まで大人の真似で顔で真面目に頷いてくれている。


「結婚、おめでとう。心優さん、どうぞ末永くよろしくお願いいたします」


 雅史父が婚姻届を、雅臣へと返しながらそう言ってくれた。

 心優も深く礼をする。


「こちらこそ、まだ至らぬところが多々ありますが、どうぞよろしくお願いいたします」


 心優の返答が済むと、雅史父がやっとお父さんらしいのんびりとした微笑みを見せてくれた。


「これで島の役場に提出をしたら、正式に結婚となるから。その日に無事に受理されたことを連絡するな」


「うん、待ってる。あとは両家の食事会か。それも来年の式の前ということだな」


「俺達の航海任務が終わってから、二人でじっくり準備したいんだ。慌ててするよりかはいいとおもって」


 雅臣の意向に、城戸家の家族も揃って頷いてくれた。


「そうだね。心優さんもじっくり決めたいだろうしね」


 とアサ子お母さんものんびりと構えてくれるので心優も安心する。


「食事会の会場だって予約するなら時間がほしいもんね。私だってドレスを選ぶ時はすごく迷ったし、すぐに決められないよ」


 真知子お姉さんも、女心がとても良くわかってくれる女性。家族の了承も得て、これで心優もじっくり決められそうだった。


「食事会だって。叔父ちゃん、うんとうまいところよろしくな」

「まさかフルコースのお堅いところ!? 俺達、まだテーブルマナーとかわからないんだけど」


「あはは。……えっと、どうかな」


 雅臣が急に困った顔になる。だからって焼き肉屋とかそんな訳にいかないし……と。


 でも心優はそれでもいいかなと思っている。だって、こっちにもすごい大食らいの兄貴と父親がいるんだもの。


「ユキ君とナオ君の希望も教えてね。わたしの沼津の兄貴と父親もすっごい食べるの。きっとフルコースなんて『やってられるか』と思う人達だから、でも、食事会ができる焼き肉屋さんとか中華とかもいいよね」


「ほんとー! そういうのがいいな」

「そのほうが俺達、緊張しない」


「みんなが楽しめるところにしようね」


 心優の気遣いに、双子だけではなくて、真知子お姉さんもホッとした顔をしてくれた気がした。


 きっとまた双子が厳かな席をぶっこわすのではないかと案じたのだろうなと心優は思ってしまった。食事会はそういう配慮もできるところにしようと心優は心に留めておくことにする。


「いやあ、めでたいね。ほんと来年の結婚式が楽しみだよ」


 お父さんも嬉しそうだったし、アサ子お母さんはちょっと涙ぐんでいるように見えた。


「えっと。最後に、俺からお願いがあるんだ」


 これで結婚と厳かな空気から和んでいたところだったのに。雅臣が急に緊張した面持ちで、家族にまた向かっていた。


 なんのお願い? 心優はなにも知らされていないので、彼がなにを言いたいのかわからず不安になった。そう思うほどに、彼が喜びいっぱいではなくて、不安そうな顔をしていたから。


「なんだい、雅臣。なにか心配なことでもあるのかい」


 アサ子お母さんも息子のその顔を案じたようだった。

 だが雅臣もそこで、父親と母親に真顔で向かった。


「これから。俺は責任者として航海に出て行くことになると思う。心優は御園准将について、いずれは陸勤務になると思う。もし、もし、俺になにかあった時は……」


 俺になにかあった時――。そのひと言で、心優も、目の前の城戸の両親も、真知子姉も双子ちゃんすらも、とてつもない緊張に見まわれた顔になった。


「俺にもしものことがあった時は。心優と、子供をお願いいたします」


 雅臣が深々と頭を下げた。

 海軍大佐殿が妻を娶る。その覚悟と心配は当然のこと。そしていつもおおらかな愛嬌あるお猿の兄貴で心優を安心させてくれていても、彼自身はそう思い、その気持ちを覚悟を持ってくれていたと知る――。


 だけれど。城戸の両親は慌てもしなかった。既に、海軍パイロットだった息子を何度も見送ってきたから。ただ艦に乗っていただけではない。外国の不明機との接戦を空で繰り広げてきたファイターパイロットの息子。いつなにがあってもおかしくない、そんな責務を背負っていた息子。その子供を何度も航海に旅立たせてきた親の覚悟はもうとっくの昔にできていたのだろう。


「わかった。陸のことはまかせなさい。おまえも覚悟を決めて海に行くのだろう。おまえに国防を託されるのなら、おまえにしかできないことなのだろう、任務を全うするように」


 立派な父親の言葉だった。

 雅臣も安心したようだったが、まだ表情は堅い。


「母さん。俺の航海は長い。時々、小笠原に様子を見に行ってくれると助かる」

「もちろんだよ。まかせな」


 頼もしいお母さんの言葉に、ついに心優は涙が浮かんできてしまう。


「姉ちゃんも、頼んだよ」

「わかった。もう家族になるんだ。困った時はいつでも頼って」


 お姉様、ありがとう――。心優は言葉にならず、でも、頭を下げていた。


「ユキ、ナオ。おまえ達も、これから大人になる。歳が離れた従弟妹ができるだろうから、兄ちゃんとして頼んだぞ」


「まかせて、叔父ちゃん。俺達も家族を守るよ」

「でも、叔父ちゃんも心優さんも、絶対に還ってきてよ」


 双子も頼もしく見えてきた。

 そう心優にとって、もう家族になる。これから、大佐殿になにがあるかわからない。自分も。


「お父さん、お母さん。お姉さん、そしてユキ君、ナオ君。頼りにしております。どうぞよろしくお願いいたします」

「二人で頑張っていくから、よろしく頼みます」


 雅臣も一緒に頭を下げてくれる。

 向かい側に並んでいる城戸家の家族も、双子も、厳かに頭を下げてくれた。



 二人の名が記された紙。ついに心優は城戸家の一員となる。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 

「はあー、疲れた。朝早く、小笠原を出てきて、今日もいろいろあったなあ」


 日が沈み、さっそくお風呂をいただいて、雅臣の部屋でくつろぎの時間を迎える。


「へえ。臣さんのお部屋も、ロフト風なんだ」

「うん。輸入住宅ってやつ。当時は珍しかったみたいだな」


 なかなか前衛的な考え方をもっている大胆な判断も出来るお父様なんだとわかってきた。


 先ほどの『任務を全うするように』と息子に告げた時の厳つい顔は、厳格な父親そのものだった。


「いまはユキとナオが泊まる時に使っているみたいだな。ちょうどベッドがふたつある。どっちで眠る?」


 窓の方がベッドヘッドになっていて、同じようにベッドがふたつ並んでいた。


「じゃあ、いつもこっち側だからこっち」

「大きめだから一緒でもいいんだけどなあ。な、一緒でも」


 雅臣がちょっと寂しそうに口を尖らせている。小笠原でそうしているように、一緒に寄り添って眠ろうと言っている。


「だめ。ご実家だから節度を重視します」

「なにもしないって」

「するよー、臣さんったら」

「うん、自信ない。大丈夫だって、ここまで親もこないし」

「だめ。絶対だめ」


 自分の実家で雅臣は気兼ねしなくていいのかもしれないけれど、心優はそうはいかない。そこに甘えるつもりもなかったので頑と断った。


 ちぇ。なんか肌寒い気がする――と、夏なのにそんなことをいいながら、雅臣がベッドに先に入った。


「明日なんだけれど……」

 横になった雅臣が、ちょっと気後れした声。

「うん。わかっているよ。大丈夫」


 明日は、あの事故で亡くなった親友の仏前へいく予定。隣のベッドに腰をかけている心優は、なるべく彼の心を穏やかにしてあげたいと努める。


「……会ってくれるだろうか」


 何年ぶりなんだろう。雅臣の不安そうな声。あちらのご家族にも最後の焼香以来、一度も会っていないと心優も聞いている。


「会ってくれるよ」


 仏前でご挨拶をしてそのあとお墓参り。ご実家で受け入れてもらえなかったら、お墓参りだけするつもりだった。


 小学生の時からの幼馴染み。いちばん仲が良かった親友。パイロット志望だったのは親友の彼の方。なのに。適性があったのは誘われたからと一緒に候補生になった雅臣の方だった。しかも、誘われて受かってしまった雅臣の方がエースの素質を備えていた。


 パイロットになってしまった幼馴染みの彼を羨望の眼差しで、でも応援してくれた親友の彼。葛藤を抱え、それがついに、雅臣が雷神のキャプテンへと抜擢されたことを知った時に、爆発。どうして自分ではなかったのか、という悔しさが勝った瞬間。雅臣を道連れにして、自動車で無理心中をしようと事故を起こし、彼だけ即死。雅臣は一命を取り留めたが、コックピットに戻れない適性外の身体になってしまった。


 親友の裏切りと、死別。二度と話しようもない、確かめようもない、残された雅臣のもどかしさと苦悩。生き甲斐を奪われた苦しみ。ずっと彷徨って……。


 それだけで心優は泣けてくる。自分のことのように……。怪我をしてメダルの道を諦めた心優よりもずっと深い傷を雅臣は持っている。


「あいつのなにかを、もらいたいんだ。一緒に航海に行くなにかを」


 うん。そうだね。心優も穏やかに答えるだけ。


 そのうちに雅臣が黙って横向きになった。静かになったかと思うと、もう寝息をたてている。雅臣も今日は気が張って疲れたよう。心優も灯りを消して、隣のベッドに入った。


 でも。心優は眠れない。初めての家だからかな。それとも。今日もいろいろあったから? 元カレにまで会っちゃったし……、石黒准将との対面に、王子の話。真知子お姉さんといっぱい話して、婚姻届も書いた。


 ふう。眠れない。どうしよう。

 雅臣は自分の育った部屋だからなのか、すっかり寝入っている。


 ふっと空気が動いた気がした。ビクッとして心優は起きあがる。ドアは開いていないし、静か。


 コンコン。とっても小さなノックが聞こえる。黙って様子を見ていると、またコンコンと控えめのノックの音。


 あちらも遠慮しているとわかって、心優から出向いた。ベッドを降りて、そっとドアを開けると、そこにアサ子お母さんが立っていた。


「お母さん、どうされたのですか」

「ごめんよ。起きているかなと思って……」


 親はここまで来ないと言っていた雅臣だったが、そんなことはなかった。節度は守って当然だったと心優は雅臣に流されなかったことに胸を撫で下ろす。


「雅臣は寝付きがいいからさ。心優さんさえ起きていればと思ってね」


 息子がスヤスヤ寝付いてるのを確かめ、心優に言った。


「ハーレーに乗ってでかけないか」


 え、あのバイクに乗って。いまから?

 時間は二十二時。雅臣はぐっすり眠っている。


「湖畔を飛ばしてさ」

「いいですね。お願いします」


 夫になる彼に内緒で、お姑さんと夜中のおでかけ。

 そっとラフな服装に着替え、心優はゴリ母さんと一緒に家を出る。

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