21.サヨナラ、私の恋

「パパ、どしたの」


 小さな女の子が、武野の足のそばでちょこんと首を傾げ、心優を見上げている。


「パパの、基地の、おしごとのひと?」


 パパも海軍の隊員。おなじ制服姿を見慣れていることだろう。


「うん、そうだ」


 武野は笑顔でそういうと、娘の小さな頭を愛おしそう撫でた。


「パパになられたんですね。ご結婚されたということですよね」

「うん、三年前に。娘は翌年に生まれた」


 そうきいて心優の心がずきんと痛んだ。三年って……。心優が彼と別れたのは四年前。つまり別れて直ぐに付き合っただろう女性と即結婚して、すぐに子供も生まれたということになる。


「実は。いま曹長なんだ……。あのあと岩国に転属になってそこで昇進して、妻に出会ったんだ」


「広島の方?」


「うん。あのあたりの出身。それで去年、また浜松に帰ってきた」


 それでも彼は心優と目を合わさず、遠慮したような笑みを見せるだけ。


「そうでしたか。おめでとうございます」

「……嫌味かな」


 彼の頬が引きつったのを心優は見てしまう。心からの言葉だったが、心優もわかっている。


 彼はさっさと心優と別れて結婚もしたし、子供にも恵まれたし、昇進もしている。


 でも。心優からのおめでとうは素直に受けられない。何故なら……。


「そっちは准将付き補佐の大佐と婚約。しかも中尉に大躍進。御園准将の抜擢で、大隊長秘書室の護衛官。空母任務での功績でシルバースター。そちらこそ、おめでとうだろ」


「あ、ありがとうございます」


「俺と別れて大正解だったな」


 言葉にどんどん棘を感じる。でも、でも、心優を捨てたのはそっちなのに。その後のことは、彼がどうなっていようとも、心優だってこの二年必死でやってきただけのことなのに。


「でも……。そういう素質があるのはわかっていた。おまえが俺の下にいるとき、もったいないなと思っていたんだ」


 やっと……。彼から優しい声を聞く。しかも彼はうつむいて、本当に心優を見てくれない。


「俺じゃあ、だめだったんだな。もともと、もっと力量ある上官でないと扱えない素材だったってことだよ……。見合うところに行くことができたんだよ、おまえ」


「武野、さん……」


 彼を名で呼ぶことはなかった。いつまでも上官の武野さん。心優もなかなか素直になれたかったのは確かだった。


「心優?」


 そこへ、背が高い彼が来てしまった。こちらも制服姿の大佐殿。

 雅臣が心優の背後に来ると、武野がびっくりして目を瞠った。


「き、城戸大佐……」


 誰もが知っているソニック、ついこの前まで航空機訓練で研修に来ていた大佐殿。それはもう武野も知っているようだった。


 でも雅臣は知らないので、きょとんとしている。そして心優もさらに汗が滲んできた。のに、その汗がさあっと冷たくなっていく感覚。


「知り合い?」


 雅臣に聞かれ、心優は答える。


「浜松勤務時代に……、その、上官だった、武野さん、いまは曹長です」


 しどろもどろに紹介すると、それだけで雅臣の顔も強ばった。

 きゃー、臣さん。絶対に気が付いた。わたしの元カレだって!


「そうでしたか。心優がお世話になっておりました」


 制服姿のなのに、『心優』と言った。つまり制服姿でもプライベートのつもりという雅臣の意思表示。しかも『彼女がお世話になって』なんて、既に夫の口ぶり。


 そして武野は一気に緊張した面持ちになった。


「は、初めまして城戸大佐。あの、つい最近研修に来られていた時『ソニック』の飛行に感動していた一人です」


「いや、もう久しぶりだったので、あんなみっともないアクロバットしかできなくて」


「い、いえ……。同僚達と身を乗り出して見ていました。スワロー出身の飛行かと思うとそれだけでもう……」


「ありがとう。あれで諦めがついたけれど、最後に……彼女を乗せて一緒に小笠原で飛べたのでもう満足です」


 そういって、雅臣が彼の目の前で心優の肩を抱いて引き寄せた。もう、それも心優は元カレの前でどうしていいかわからず身体がかちこちに固まったまま。


 臣さんの愛嬌笑顔がすごく不自然? 秘書官時代に見せていた『腹に一物あり、でも笑顔の室長』みたいな微笑みに心優には見える。


「一緒に、乗った? まさか、T-4に?」


 でも武野は、雅臣の話を聞いてすごくびっくりしている。

 心優もただ黙ってこっくり頷くだけ。


「え、ソニックが操縦するコックピットに??」


「は、はい。御園准将が城戸大佐の最後の戦闘機操縦だからと、一緒に乗せてくれました」


 うわ、嘘だろ――と武野が絶句している。

 そうしてしばらく武野も黙ってしまった。


「心優、行こうか」


 雅臣も意に介さず。元カレと会ったからとて、それ以上なにを話すのだとばかりに、急に冷めた目つきになった。


「武野さん、それでは。失礼致します」


 また彼は心優に顔を向けず、目も合わせてくれず。そうして逸らしたまま。これが最後、そうもう会わないし、関係のない人になる。これでいい。


 でも、そんな心優を武野の足に掴まっている女の子がじっと見つめている。


「かわいいお嬢様ですね。さようなら」


 女の子に手を振った。


「バイバイ。おねえちゃん」


 かわいく笑ってくれたので、心優も微笑む。


「バイバイ……」


 名前がわからない……。

 だからそのまま会計をしている雅臣の背を追いかけようとした。


「き、綺麗になったな」


 え? びっくりして、心優は思わず振り返る。

 今度の武野は、心優の顔を見てくれている。


「俺の時に、そうなってほしかったよ」


 そう、なれるとわかっていたら、心優だって頑張って……。ううん、違う。雅臣に出会って本気になった。そう気が付いて心優は初めて、自分も悪かったんだと痛感する。


「うじうじしていたから、わたし。前を向かないわたしなど、あなたになにも与えてなかったことでしょう」


「俺も、本気にさせれやれなかったんだ。それに……。本気になった心優なんて、きっと俺のところにはいなかったと思うよ」


 涙が出てきた。どうしよう……。自分も悪かったし、彼がどうして自分を嫌になったのかも、『つまらない』と言われた訳もいまならわかる。それに少しは気に入ってくれたからつきあってくれていたこともわかったから。


「武野曹長、お世話になりました」

「園田中尉。これから様々な任務に就かれることでしょう。どうぞこれからは気をつけて、ご活躍楽しみにしています」


 彼が心優に初めて敬礼をしてくれた。そう、わたしはもう彼より上に行ってしまったから……。でも本当にいま彼は心優を今まで以上に敬ってくれている。


「武野曹長のご活躍も楽しみにしております。……どうぞ、お幸せに」


 心優も敬礼を返す。でも最後は、元部下として深々と頭を下げた。

 わかっているだろうに。会計を済ませた雅臣はこちらを見ることもなく、冷めた横顔のままコンビニを出て行こうとしている。


 心優も急いで彼の後を追った。



 もう、うじうじすんなよ。結婚、おめでとう。



 最後に聞こえた武野の声にまた涙が溢れてきた。


 雅臣がさきに運転席に乗り込んだ。心優もすぐに助手席へ。

 車の中に入りシートに座ると、雅臣がハンドルを握ったまま溜め息をついた。


「もう、だからな。元カレいるのかいないのかって聞いたんだって」


 すごく不機嫌な顔になっている。シドと親しくしていたってこんな顔見せたことがない。それはやっぱり実質的に心優と異性関係があった事実を感じてしまったからなのだろうか?


「転属したけど戻ってきていたんだって……。でも。未練なんてなかったよ。臣さんに出会って全部消し去ってくれたから。あの、涙が出たのは、その……、」


 過去の嫌な思いが昇華されたから……。


「良い別れができたなら、それでいいじゃないか」


 フロントをまっすぐに見つめ、雅臣がどこか切なそうな眼差しで呟いた。


「俺は。浜松基地に連れてきて、元カレとばったり会った心優が、辛いことを思い出したら嫌だなと思って気にしていただけ。もし過去の心優をけなしたら、そいつをぶん殴っていたと思う」


 そこで雅臣がやっと素っ気なく出てきたコンビニへと振り返る。レジで娘と会計をする武野の姿が見えた。


「いいヤツだったみたいだな。でも、お互いに分かり合えず、か。あるよな、そういうこと――」


 そんな経験はお猿さんの方がいっぱいしてきたはず。だから、切なく感じてくれているのかも。


「まあ、そのおかげで心優に出会えたしな! さって、行くか!」


 シャーマナイトの瞳が、きらっと光って前を向く。いつもの愛嬌たっぷりお猿スマイルになった雅臣が元気よくエンジンをかけ、車を発進させた。


「あ、お茶……買えなかった」

「あ、俺も、アイスコーヒー忘れていた」


 元カレと遭遇して、本当に欲しかったものをすっかり忘れて、コンビニを出てきてしまったらしい。


 元カレが目の前に現れた威力ってスゴイ……。臣さんまでこんなになっちゃう。


 でも、会えて良かった。心優の目も浜松の青空へ。そこにはもう中等練習機、川崎T-4が飛んでいた。

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