19.大佐の貯金通帳


 城戸の母と双子が帰ってから一週間が経とうとしていた。

 でも、心優と雅臣が浜松に行くのも今度の週末から。もう目の前。


「間に合ったー。もう、ほんとに最近の流通の発展、素晴らしい」


 アサ子母が帰ってから、心優は自宅に帰るとインターネットに向かいっぱなしであれやこれやといろいろ探した。


 それを後十日で入手できるかハラハラしたが、横須賀基地経由の便に間に合って、無事に心優の手元にギリギリに届いた。


 それをもう準備を始めていた旅行バッグへと忍ばせる。


 ベッドルームのパソコンデスクでそうして旅行で知りたいことをいろいろ調べていると、リビングでテレビを見てくつろいでいた雅臣が顔を覗かせた。


「心優。ちょっといいか」

「うん、なあに」


 パソコンから離れ、雅臣が手招きをするまま心優もベッドルームを出た。


 ダイニングテーブルになにかが揃えられていて、心優も座るように言われる。


 座るとすぐに雅臣が一枚の紙を差し出した。


「これ。基地内の役場出張所からもらってきた」


 それは『婚姻届』だった。

 役所になかなか出向けない隊員のために、基地の中には役場の出張所がある。ついに雅臣が入籍するための準備を始めた。


「両親の前で書き込んで、書き込んだものを心優の沼津の実家に見せて、それから提出しようと思う。帰ってきたら『城戸』になる。いいかな」


 心優はそっとその用紙を手に取った。初めて見る実物の……。まさか自分が奥さんになれる日が来るだなんて。紙を持つ手が震えてきた。


「うん。いいよ。はやくそうなりたい。けど、なんかドキドキして来ちゃった。大佐とおなじ名字になるなんて緊張しちゃう」


「それは俺もおなじだよ。沼津のお兄さんに会うのドキドキするし」


「兄ちゃん達は、はやく大佐に会いたいと楽しみにしているよ。エースパイロットが弟になるなんてって喜んでる」


「それならいいけれどな。それからな、心優。これを書く前に、きちんとしておこうと思うことがいくつか」


 改まってなんだろうと心優は首を傾げる。確かに城戸になったらいままでどおりとは行かないとは思うけれど、それも城戸になってから少しずつ対処するべきものかなとゆったり構えていた。


「御園夫妻のように、おなじ名字の夫と妻が近しい部署の隊員として働くことになる。籍は城戸になるけれど、基地ではどうする? 旧姓の園田で通すようにお願いしておくか」


 それは心優も考えていた。まだ小笠原基地に来て一年しか経っていない。その中で、今度は城戸中尉と呼ばれるとなるとどうなるのだろうかと。


 でも心優はもう決めていた。


「御園大佐とおなじでいいよ。ネームタグは城戸で、その時々に園田といい分けてもらうかんじでいいと思う。そのうちに、城戸中尉が普通になる日も来ると思うし」


「わかった。では、その意向は葉月さんにもきちんと伝えてくれるな」

「はい。わかりました」


「それから。これがもっと大事なことで……」


 さらに雅臣が心優にあるものを差し出した。

 彼が差し出したのは、城戸雅臣名義の預金通帳が数冊。けっこう持っていてびっくりした。


「これから家庭の家計は心優に任せる。近い将来子供も出来るだろうし、子育てに役立てて欲しい。それから、俺が航海などで長期不在する間も振り込みはあるが、留守の間なにかあった時にも使ってくれ。それから万が一の時……も、」


 雅臣が黙った。それが軍人として当然の覚悟。そして心優も海軍大佐の妻になるには当然の覚悟。


「わかりました。海軍大佐の妻になるのです、覚悟できています。城戸大佐、そして、雅臣さん。大事に使わせて頂きます」


 心優は頭を下げ、丁寧にその通帳を受け取った。なのに、雅臣が心配そうに『あっ』と引き留めようとしたので、心優も直ぐに受け取ったのが恥ずかしくなってパッと手放してしまった。


「えええっとな。その、ちょっとめくって、金額を確かめてくれるかな」

「え、いいの?」

「そりゃ。渡すんだからいいよ。でもな、その、金額……」


 え、なに? そんな見られるの躊躇うほどの金額なの? 

 心優は妙に落ち着きをなくした雅臣の様子を訝りながら、雅臣が最初に渡した通帳を開いた。


「え! なにこれ!!!!」

「えっと。こっちもな」


 二冊目の通帳も渡され、さらにその金額を確認。もう心優は泡を吹きそうになった。


「なんなのこの金額!!!」


「か、隠していたわけじゃないんだ。ほら、俺って、パイロットだったからその手当もあったし、幹部職になってからこうどばっと。それから仕事ばかりで、あんまり使わなかったし。官舎住まいで家賃かからないし、長いこと独身で自分の生活の分だけあればよかったし、そうするうちに、その金額になっていたんだよ」


 さらに。日常で使っているという通帳も見せてもらい、毎月の彼の給与の振込額を初めて知り、心優は『ああ、この人。ほんとうにエリートの大佐さんなんだ』と今までにない実感をすることに。


「……、そうだよね、大佐なんだもん。これぐらいもらっているよねと、わかっていたつもりなんだけど……」


 心優がしてきた貯金もこつこつだったが、増え方が全然違う。エースパイロットだったし、秘書室長だったし、いまは准将付き補佐で艦長候補の大佐殿。年収なんて心優の倍以上いっている。


「そんな男の妻になって、子供を育ててもらいたいと思うから……。あ、それから。もうちょっと広い間取りの家でも建てようかと」


「ほ、ほんとに?」


「うん、充分な蓄えだろ。この時のために、貯めてきたんだとも思っている。持て余していたけれど、よかった」


 雅臣がしみじみとその通帳を手にとって眺めた。

 そんな雅臣が懐かしそうにぽろっとこぼした。


「若い時、女に持ち逃げされたこともあったんで……、ちょっと慎重になって今になってしまったんだ」


 はあ? 女に持ち逃げされた!?


「臣さん、なんなのそれ」


 またうっかり言わなくていいことをぽろっ言ってしまった自分に、雅臣が我に返る。


「いや、それは! 俺がスワローに配属されたばかりの、二十代の若いころだよ」


「そんなわたしがまだ子供だった頃のおつきあいについて言っているんじゃないの。どうして持ち逃げなんてされたの」


 いやー……と、雅臣が情けなさそうに黒髪をかいてうつむいた。


「女にまだ疎かったんだ。男ばかりの基地にいて、男とばかり訓練をして、戦闘機に乗っている時間が多くて、スクランブル発進に備える日々。そんな中、かわいい彼女ができて舞い上がっちゃったんだよ。かっこつけたくてこの貯金を使って海外旅行でもしよう! なんて見栄張ったんだ。詳しくは割愛するけど、旅行の申し込みなどの諸々を任せていた彼女を信用して彼女が言う代金を渡したら、そのうちに連絡が途絶えて……。気が付けば、携帯電話も着信拒否……これって、と気が付いた時には遅かったとか……」


「ちょーっと臣さん!」

「だから、若かったんだって」


 若い時のお猿は隙だらけで、女の子にいいように手玉に取られていたということらしい。ほんとうに女の子には負け猿になっちゃうみたいで心優はびっくり。


「ひ、被害額は……」

「んまあ、ンン十万円かな」


 五本指以上の金額が出てきて、どこの超豪華ペア旅行ですか! と言いたくなる金額。


「ええ、やすやす手渡しちゃったの??」

「いやあ、あれこれ必要だからこれだけいるっていうんで渡しちゃって」


 もうこんなに騙しやすいお猿さんもいなかったことだろうと心優は彼の過去に泣きたくなる。でもそれだけ純なお猿さんだったとも言える。


 貯金の一部をおろして盗られたため、まったく全額というわけではなかったけれど。


「うそ~、なんなのその女!! 犯罪じゃない!」

「俺よりも、海外旅行よりも、金だったみたいだな」

「もう、やだー……」


「一応、被害届を出すように橘さんに言われてそうしたんだけど、俺だけ騙したのか前科ナシで見つからずじまい。その時の俺を心優が知らなくて良かったと思っているほど、女に疎かったもんで……」


 出会った時は既に大人のお兄さんで、大人の上司だったし、いまも臣さんはかわいいお猿になるけれど、頼りがいある大佐殿で旦那さん。


 でもそれも若い時の失敗を乗り越えてということらしい。


「当時、上司でスワローの隊長だった橘さんにもめっちゃくちゃ怒られたな。どんな好きな女でも『金』については曖昧にしておけって……。特に俺達のような国防パイロットは金を持っていると思われがちだから、金のことについて明かすのは、どんな女も最後だって叩き込まれた。それでなくても、パイロットというだけで寄ってくる女もいるし、お国の仕事をしている男だと近寄ってくる金目当ての女も時々いるから、どんな女にも警戒心を持て――とバッサリやられたっけ」


 ああ、それで心優と結婚することになって最後の最後にこうしてくれたのかと納得した。


「だからって。心優もそうなると恐れて、いままで黙っていたわけでもないんだ」


「それはもう……。まだ一緒に暮らし始めて三ヶ月だもの。それに、わたしにも覚悟がいるので、妻になる決意を固めている今みせてくれたほうが、妻として受け取れるから」


「信じられる女は、妻になる心優だけだ。俺のことを大人の男だと頼ってくれるのは嬉しいけれど、若い時は女にやられてばかりの猿だったよ。だからこそ、俺が最後の女として心優を選んだということ覚えておいて欲しい」


 いままでいろいろな女性を付き合ってきたけれど。こういう恐ろしい目にもあったことがある猿だからこそ、信じられる女として心優を選んだ。そういう意味でも失敗を打ち明けてくれたんだとやっとわかった。


「臣さんが、ファイターパイロットとして、国防で身体を張ってできたものです。子供と家族のために使わせて頂きます」


「うん。楽しみだよ。これからこの家の中が賑やかになっていくかと思うと」


 また男前なお猿スマイルを見せてくれ、心優はもう愛おしいあまりに何も言えなくなってしまう。


「心優、もうすぐ俺の妻だな。そして俺は、心優と生まれてくる子達を護る父ちゃんになるよ」


 テーブルの上で手を握ってくれる大佐殿。しかも向かい側にいる心優の口元まで近づけてくる。そのままキスをしてくれる。


 うん。もうすぐ城戸心優、城戸中尉になるんだね。わたし。


 目をつむって、心優もキスを返す。海軍大佐殿の妻になる決意もキスの熱さに誓いたい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る