18.心優の元カレ

 今夜はおなじ気持ち。だから、ふたりがベッドに一緒になると、もうお互いに素肌になって。


 すっかり夜が更けて、いつもどおりにそれぞれシャワーを浴びて。

 今夜は心優が先に、素肌のままベットに横になっていた。


 いつも彼が読んでいる航空マニア雑誌を眺めていると、彼もバスタオルを腰に巻いた状態でベッドルームに戻ってくる。


 心優もそのつもりだから。部屋の灯りは既に落としていた。ベッドサイドにある間接照明のみ。ほんわりとした、柔らかい光だけ。ほのかな明るさのみ。


 そこで彼がベッドに上がってきて、心優のカラダを隠しているタオルケットをとりさった。


「臣さん……、待っていたよ」


 躊躇わず、心優から雅臣の身体にだきついた。パイロットをやめても、鍛えている肉体の胸に頬を寄せる。


 それだけで雅臣が愛おしそうに心優の黒髪を撫で、心優の顎を掴んで上に向かせる。


「心優、俺だって……。おまえじゃなきゃ……だめなんだ」


 大佐の熱いキスにくちびるがふさがれる。今日、エレベーターでした続き? もうなんの遠慮もいらない。周りを気にしなくていい。わたしはいまは『心優』だし、彼は大佐ではなくて『臣さん』だから。




 やっと、二人だけの熱い時間が駆け抜けていく。

 いつも周りを見て動くふたりが、彼と彼女だけを見つめられる、遠慮のない睦み合いをやっと……。




 心優のカラダの中心を熱が駆け抜けていったような時間が落ち着くと、雅臣も心優の隣にそっと寝そべった。


 それでも、上から見守るようにして、いつものように心優の黒髪を撫でてくれる。


「浜松基地にお礼の挨拶に行きたいと思っているんだ。最後の適性検査と飛行訓練、これからも小型機は操縦できるよう免許を取るのに世話になったから」


 突然、そんな話をしてきてた。でももうすぐ浜松に帰るのだから、それも当然と思って『うん、いいんじゃない』と心優は気易く応えていた。


 でも、雅臣は急に、真顔になってなにか躊躇っている?

 黒髪を撫でていた手が、今度は心優の耳たぶを抓んで撫でているけれど。それがどこか彼の迷いにも感じてしまう。


「心優はどうする。まえの事務室に挨拶に行ってもいいし、どこか外で待っていてもいいんだけれど」


「ううん。わたしも一緒に挨拶に行くよ。空部教育隊の隊長に会うのも久しぶりだし、臣さんがお世話になって、わたしもT-4に乗れたんだから」


「うん、なら。いいんだけれど――」


 そう言うと、雅臣はそれきり黙ってしまった。でもまだなにか聞きたい様子だった。


「臣さん?」

「心優にとって、俺もぴったりな男っていうのは、俺もそうだって言い切れる」

「うん」


 その通りだよ。今日だってほら、目が濡れて熱くて泣いちゃったもの。


「でもさ。そんなにだめだったのかと思ってさ。ついさっき……俺に抱きつきながら、『いままでは、こんなことなかった』なんて言うからさ。いままではそんなこと思いつきもしなかったんだけれど。浜松に帰るとなって、ああ、心優も浜松基地にいたんだよな……と思った時にさ……。そんなにだめだったのはいいとして、『そいつ』、まだいるのかなって」


 心優の心臓がどきりと蠢いた。雅臣から初めて触れてきた。ううん、いままでお猿はそんなこと気にもしなかったし、俺には心優だけとそれだけしか見えていなかったのに。


 お互いに過去を持っている土地に向かうとなって、雅臣も初めて意識した。心優の『元カレ』のこと。


 いままで心優が雅臣の過去を気にすることはあっても、大人の雅臣は心優の過去のことはあまり気にした様子を見せたこともない。ただいちばん最初に『男はいるか』ときちんと確認しただけで。


「も、もう。結婚しているし、転属、しているんじゃないかな」

「ふうん。どんな男?」


 えー、いつのまにか大佐殿のような真剣勝負の男の顔で聞かれている! 心優はちょっと焦る。


「どんなって、普通の人だよ」

「階級は」

「……、か、海曹……」

「何等?」


 つっこまれ心優は『一等』と答えた。

 それでも浜松時代は心優にとっては上官だった。


「へえ。捨てた女が上官になってどうなるんだろうなー」


 うわ、けっこうえげつないこと言う。こういう時の雅臣は大佐思考。せっかくほてった肌がすうっと冷まされていくようだった。そういうとき雅臣は大佐殿の腹黒さで容赦ない。


「でも。彼なりに、幸せになっていると思うよ。普通が安心する人みたいだったから、わたしみたいなおっきな女は、ねえ……」


「普通ね――」


 すんごい冷めた目線が、雅臣から放たれている。


「もういないよ。会うはずないじゃない。こんな最高のエースパイロットと結婚するんだもん。関係ないよ」


 やっと雅臣がお猿の愛嬌でにっこり微笑んだ。


「だよな。関係ないよな」


 え、関係あると案じていたかのような言い方ではないかと、雅臣以上の男性はもういないというのに、なんとなく気にしていたのかと知って驚いてしまう。


「いないならいいんだよ、いないなら……」


 まだ雅臣の中で案ずることがあるのか。ちょっとだけ溜め息をついているのを心優は聞き逃さなかった。




 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 

 熱帯夜の熱愛、一夜明けた朝の准将室。

 なぜか同じような溜め息をつく女がふたり……。


 はあ、昨夜の臣さんすごかったなあ。最初からあんなになって。あれで終わりかと思ったら、その後もう一回攻めてきたし……。四十歳も目の前なのになんなの、あの底なしの体力。元パイロットでお猿な体質あなどれない!


 さすがの心優も今日はちょっとぼんやりぎみ。


「はあ……」


 もうひとり。万年筆の先を見つめて集中できない人が目の前に。

 ミセス准将も今朝はちょっといつもと違うご様子。


「こんなときにインクが切れるのねー」


 いつもなら、インクが切れたからと騒がず集中力を維持したまますぐに交換して、即座に元のペースに戻って書類を作成しているのに。


 今日はそんな万年筆のペン先を見つめてそのまま。


「スペアインク切れているなら、売店まで買いに行ってきますよ」


「ううん、あるの。よく気が付く人がいてね。そろそろだろ……? なんて顔でお土産みたいにして持ってきてくれるの」


「ああ、そういえば……」


 眼鏡の旦那さんがふらっと准将室にやってくる時、いろいろと手土産を持ってくる。女性が喜びそうなおいしいものの時もあれば、本当に他愛もない文具用品だったり、雑誌だったりいろいろ。その中に『愛用万年筆のインク』もそういえばあったと心優は思い出す。


「これって。あの人が、わたしが准将に昇進して、この部屋に異動してきた時に、お祝いで探してきてくれたのよね。大佐室にいたときから、こういう本物のしっかりしたペンが欲しいとは思っていたの……。あの人ちゃんと見ていた」


 隼人さんがプレゼントしてくれたものということらしい。

 この時、心優は『あれ』と思った。


 昨日、准将室まで押しかけて怒りまくっていた隼人さんとは、自宅に帰ってからどう決着つけたのだろうと。


「あの人、ものを探すとなったら頑固にこだわりまくって納得できるまで探すから――。ほんとうに、質のいい万年筆を探し当ててくれたのよね。そうこだわると頑固なの」


「……あの、昨日は大丈夫だったのですか? 御園大佐は、葉月さんが訓練校のお仕事を任命されることまだ知らないはずですよね」


「知らないはずなんだけれどね。私もほのめかさないよう気をつけているんだけれど……。どうも協力してくれてきた正義兄様に海東司令の方が『ほのめかし』を始めている気がする……」


「え、それって。連隊長と海東司令は、もう隼人さんに気が付かせようとしているってことですか」


「……かもね。私のポジションがほぼ固まったから、隼人さんが騒いでももうどうにもならないでしょう。それならそろそろ徐々に諦めさせるようにもっていくんじゃないの」


 諦めさせる? 奥さんを司令官にするためならどんなこともすると思っている旦那さんの夢を諦めさせるという意味らしい。


「わかってる。あの人がいうとおりに、優秀な部下で固めれば出来ると私も思う。でもそれは迷惑をかけるということでもあるのよ。それに、私ももう……辛いから……」


 彼女が時々見せるミセス准将らしくない、苦悩してきた女性の顔になる。そうなると、心優も切なくなってしまう。


「あの、わたし思うんですけれど……」


 生意気だと思いつつ。でもおなじ女性として感じていることを伝えたいと思った。


「どんなに俺のミセス准将と思って、どんどん輝くように応援するんだと旦那さんが決めていても、奥様が本当に辛そうにしている姿を見たら、ちょっと考え直してくれると思うんですよね」


「そうね、そうかも。でもそんなこと滅多にないから」


 あったじゃないと心優は言いたい。今年の春先に空母艦任務で航海をした時、ミセス准将は不明者侵入の男に襲われそうになったが艦長として毅然と対処した。でもその後、彼女は精神のバランスを崩し、それで体調を崩すことになった。海東司令がそれを予測したのか、ちょうどいいタイミングとちょうどいい言い訳を用意して、ミセス准将の世話ができる御園大佐を送り込んできた。


 体調を崩したミセス准将をひと晩世話をした夜明け。あの時の、静かにうつむいていた御園大佐の姿が心優は忘れられない。


 あんな妻を見ても、もっと頑張って、今以上の女将軍様になってくれ――と、妻を愛する夫は願い続けるだろうか? 心優はふとそう振り返ることが多い。


「奥様がほんとうに辛かったら、旦那さんも無理強いはしないと思うんです」


「そうかしら。なんだかずっと頑張れると押されてきた気がする。それに、そのおかげで心強かったし、パワーも出たし、信じて前に行けた。それは感謝しているの。でも、これ以上は――」


 さらに苦悩を刻む顔になったミセス准将が深い溜め息をついた。


 もうあの夜明けの隼人さんの姿を伝えてしまいたい。でも、きっと隼人さんもあんな姿は葉月さんに知られたくないんだろうなと心優は思っているから、勝手に伝えられない。


 すごくもどかしい。どちらの本音もこうしてそれぞれ見てしまっている心優だからこそ。でもまだ首は突っ込めないかなとはっきりした態度でつっこむことが出来ないでいる。


「それで……。昨夜は、なんとか誤魔化せたのですか」


「うん、まあ。あまり酷くは突っ込まれなかったんだけれど――。どうしておまえが訓練校のアグレッサー部隊を設立する仕事を任されているのかとは問いつめられたかな」


 そりゃ疑うよね――と、心優も思う。それをあの連隊長が隼人さんがいる目の前で堂々と明かしちゃったんだから、彼が疑問に思ってもしようがない。ほんとうにワザとほのめかしているとしか思えない。


「でも。空部隊で新しいことを始めるなら、それは大隊長の私が携わっても当然でしょうと誤魔化したんだけれどね。その後、どう思ったかはわからない。急に笑顔になって『怒ってわるかった』なんて謝るの」


「うわあ……。あの、旦那様のにっこりっていつも怪しいですよね」


「うん。怪しいと私も思ってる。ほんとうにそこで納得してくれたの? あなたそれぐらいで誤魔化される男じゃないでしょうなんて……。ばれてほしくないのに、そう思ってしまう私も大概よね」


 わかります……と、心優も頷く。それってなにかに気が付いて『じゃあ、暫くは騙された振りしておくか』という笑顔じゃないのと心優だって思う。


「では、激しい喧嘩にはならなかったのですね。安心しました」


 ひとまず休戦のようで、夏休みを迎えてしばらくミセス准将から離れる心優はホッとした。


 でもそんなミセス准将が、ちょっと頬を染めてお嬢さんの顔になっていたので、心優はどうしたのかと首を傾げる。


「なんか……。男の人の『ごめんなさい』ってずるいのよね。いつも」


 かわいいお嬢さんの顔になっていたので、心優も瞬時に察した。それに『好きな男性のごめんなさいは、ずるい』は、心優にもすっごくわかる!


「わかります、わかります。ものすごく腹が立っていたのに、そんな時にすんごく優しくなって、その……」


 かわいいお猿の顔になるの! と言いたいけれど、これは葉月さんには通じまいと思っていえず、もどかしい。


「あ、雅臣にもそういうことあるのね。でも、雅臣ならわかるわー。かわいい顔してごめんなさいと言って、そんな時はすんごく優しいお兄さんになるんでしょう」


 まさにその通りと言いたかった。では、葉月さんも? と返そうと思って心優はハッとする。ああ、だから葉月さんほっぺが赤いんだと。


 お嬢さんとお兄さんみたいな関係だから、きっと御園大佐はかわいい男の顔なんてしなくっても。きっとあれだ。『ごめんな、ウサギ』とかお兄様の顔で言って、お嬢さんをだっこしていい子いい子なんてやったんじゃないかな! だから葉月さんも『そういう私の弱いところをわかっていて、ずるい』と赤くなっているんだと予測した。


 つまり。そういう仲直りに持ち込まれたということらしい。

 それはますます安心した。


「では。ひとまず休戦というところでしょうか」


「うん。そうね。旦那さんもなにかを企んでいそうだけれど。まだお互いの弾は発射せずというところね」


「はらはらしますねー」


 本当ねとミセス准将が微笑んだが、もういつもの優雅に落ち着いた大人の顔に戻っていた。


「さて、続き続き」


 やっと万年筆のインクを交換し、いつものアイスドールの横顔に戻った。


「いよいよ心優も長期休暇ね。ゆっくりしてきなさい」

「はい、そうさせていただきます」


 雅臣との帰省旅行も数日後と迫ってきていた。

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