30.母とミセス准将、そして彼女
「ねえ、臣さん。浜松へのお土産なんだけれど、横浜でチョコレートを買っていってもいい?」
真夏。八月に入り、日本人隊員達が落ち着きをなくす。盆休暇がそろそろやってくるからだった。
心優も盆を含めた長期休暇を目の前にして、それぞれのお里帰りの支度に余念がない。
「またチョコレート。うちの母親も姉貴もなんだって喜んで食べるからいいんじゃないか」
「ほんとうに? 臣さん、適当に言っていない? 男の人ってそういうところ全然気がついていないことが多いんだもの。なんだって大丈夫でほんとに平気?」
「平気だって。ほんとに、こだわりなんてないって。それにそのチョコレートとかいうの。葉月さんが大好物のチョコレート屋のヤツだろ」
「うん、そう! わたし、全然興味がなかったんだけれど、葉月さん、ほんとうにいろいろなチョコレートショップをご存じなの。それで、いまお気に入りのお店のものをご馳走になったら、ほんとうにおいしかったんだもの!」
「興味がなかった心優が喜ぶぐらいなら、うちの母親も姉貴も気に入るって。あの人達も、なんていうか……」
言いそうになって、また雅臣は言葉を濁す。
すると、心優がじいっと雅臣を真顔で見ている。
「臣さん。ほんとうに、大丈夫だよね。わたしが行っても。お土産も」
「大丈夫だって。マジで」
「ねえ、臣さん。なんか言っていないことない?」
雅臣はドッキーンと痛んだ胸を密かに押さえる。
「全然、実家のこと話してくれないよね」
「それはだな。そう……、その、嫌な思い出が」
嫌な思い出? 今度は心優がハッとした顔になり黙り込んでしまった。
「ご、ごめんね。そうだよね。ご挨拶すればなんてことないよね」
「あ、心優。嫌な思い出というのは――」
事故のことではなくて、元カノのことで――と正直に言おうとしたが、心優には『事故を思い出させたくない』という結論になったようで『もういいの!』と笑顔を繕って、ベッドルームに消えてしまった。
「はあ……。言いそびれた。まあ、会えば知らざる得ないだろうしな」
あの母……のこと。元カノが敬遠してしまう、そういうものを持っている母。
なのにあのミセス准将は。
『雅臣、お母様によろしくお伝えしてね。本当にしばらくぶりになってしまって、私、ご挨拶まだなの。貴方と一緒にまたお仕事をしていること、安心して頂こうと常々思っていたんだけれど』
ミセス准将は、事故で入院した病院で母と対面をしていた。
あの時は母もミセス准将も気が狂わんばかりに取り乱していて、お互いそれどころではなかったのだろうけれど。
後になって、それぞれが。
『あんたの上官ってあんな綺麗な女性だったんだ、びっくりだよ。あれで元パイロット、嘘だー! もっとちゃんとした母親の姿をしておけば良かった、ごめんよ』と母。
そしてミセス准将は『なんとなく……。雅臣がどうしてエース級パイロットの素質を備えていたのか、わかった気がするの。いいわね、私もお母様と同じ気質を持っていると思うから、なんとなくお話しが合ってびっくりしたわ』と――。
そう。母とミセス准将は気質が似ているといえば、似ていると雅臣も思う。だからきっと心優とも合うと思うんだ。雅臣は案じていない。
いまだからこそ、笑える。母親とミセス准将が病室で対面した時の、互いが『え』と固まったあの顔と顔。
『あの、城戸君のお母様ですか……』
あのミセス准将が、病室で雅臣につきっきりで看病している母を一目見て、非常事態とはいえそこはさすがに目を丸くしていたあの顔。
そして、母も。
『そうですが……。あの、雅臣のパイロットの……隊長さん……ですか』
『はい。雷神の隊長をしております。御園です』
栗毛の楚々とした制服姿の女性と、そして一風変わった母。その女性同士の対面。
『あの葉月さんの元に戻ったんだって。だったら安心だね。良かったね。あの人のそばでまた仕事ができるだなんて、よろしく伝えてくれよ』
母はもう雅臣のことは案じていない。
『事故に遭ったあんたを見るなり、あんなにすがって泣いた上司さんだろ。まるであっちの方があんたの母親みたいでびっくりしたけどさ……』
それだけの気持ちを持っていくれていた人のそばに行くから案じていない。そして。
『その葉月さんの護衛官になった女の子なんだろ。間違いないじゃないか。楽しみだよ! ただね……、うん、普通の格好しておく』
そんな気後れする母に雅臣はもう言ってある。
「母さん、大丈夫だから。気にしないでいつもどおりの母さんを心優に見せてやってくれよ。心優もきっと気に入ってくれるから。俺、自信ある」
でも……と、気後れを見せる母に雅臣はそうしてくれと頼んでおく。心優には普段の実家そのものを見て欲しいから。
「臣さん、お洋服なんだけれど。やっぱりお嬢様風がいいのかな」
ベッドルームで着ていく服を考え始めている心優がドアを開けてちょこっと顔を出してきた。
「いや、心優らしいのがいちばんいいと思う。黒でクールに決めたらいいんじゃないか。そうすると心優は大人っぽくなるから俺は好きだな」
「ほんと? じゃあ、そうするね」
お洒落もだいぶ気にするようになって、近頃は通販でいろいろと揃えているようだった。
心優がお嬢様風でもクールな大人の女風でも。きっとあの母も気にしない。むしろ、母のほうだな。雅臣はその瞬間、心優がどう感じるか。それはちょっと不安に思っている。
―◆・◆・◆・◆・◆―
長期休暇まで半月。その頃になって、空部隊に携わる指揮官数名が御園准将室へと招集される。しかも、細川連隊長からの招集にて、集まれとのことだった。
「空母に乗り込む指揮官の内示を連隊長が伝えてくれるということだ。予定どおりの指名になるといいのだがな」
雷神室の二人も来るようにとラングラー中佐から連絡があり、橘大佐と共に雅臣は御園准将室へと向かっていた。
「なんでしょうね。連隊長と葉月さんとなると、いろいろと一筋縄ではいかないでしょう。なんでもかんでもすんなり行きそうになくて、本当に自分が副艦長という内示をもらえるのかまだ確信がないんですよね」
「俺もだよ~。出産があって、真凛の産後に付き合いたいから今回は外してくれるって、葉月ちゃんも約束してくれたんだけれどなあ。まさか、行ってくれなんて言われないだろうな。今度の出航は十一月の末だろ。完璧に年末年始は海上で、家族で正月を迎えられないってことじゃないか。それ、今回ばっかりは困るなあ。出産後の今回だけは、俺も陸にいたいんだよ。雅臣が副艦長を任せられる後輩で助かったと思っていたのに」
橘大佐も呼ばれたということは、それもあり得るということだった。
お互いにもやもやしたまま。『ほんとうに俺達は、連隊長とミセスにやきもきさせられてばかり』と橘大佐とぶつぶついいながら、准将室に到着した。
「お待ちしておりました、どうぞこちらへ」
扉を開けて心優が迎えてくれるのも、お決まりの光景になった。
だが今日の准将室の応接ソファーには、空部隊の大佐達が集まっている。
銀髪のミラー大佐に、コリンズ大佐。
彼等はミセス准将について『副艦長』として乗船した経歴がある。
そして、御園大佐も呼ばれてミラー大佐達とソファーで談笑しているところだった。空部隊の任務の様子は彼にも知らせておかねばならないのだろう。
「橘大佐はエスプレッソでよろしかったですよね。城戸大佐はいかがたしましょう」
秘書室の『お父さん』福留少佐も接待で准将室にいて、今日はお茶入れを担当しているようだった。彼が淹れるコーヒーは秀逸と有名で、退官を目の前にしてミセス准将が秘書官として引き抜いてしまい、いまは契約隊員として勤続年数を引き延ばしている。
「私も橘大佐と一緒のものでよろしくお願いいたします」
「かしこまりました」
サロンにあるようなティーワゴンでは、その福留少佐と心優が忙しくお茶の準備をしている。ラングラー中佐は大佐達へ、出来上がったお茶を届けたりしている。
ミセス准将は相変わらず。男達が和やかに賑やかに会話をしていても、静かに淡々とデスクに向かって万年筆を動かし、書類を書き込んでいる姿のまま。
そのミセス准将へと、雅臣は構わずに歩み寄った。
「お疲れ様です。御園准将」
「お疲れ様、城戸大佐。わざわざご足労だったわね」
淡々として冷たい顔をしているが、近づいてきた雅臣を邪険にせず、その声は柔らかだった。
「内示を伝えられるとお聞きしておりますが、連隊長室ではないのですね……」
「そうなのよ。あの正義兄様も、意外と我が侭なのよ」
あの恐ろしい眼光を放ち、口調も厳しい細川連隊長を捕まえて、『我が侭な兄様』と言うから、雅臣はちょっとゾッとしてしまう。
そのうちに、准将室ドアにノックの音。ラングラー中佐が出迎えると、細川連隊長が側近の水沢中佐を従えてやってきた。
そこでやっとミセス准将がデスクから立ち上がった。
「お待ちしておりました、連隊長。どうぞ、こちらへ」
御園准将自ら、連隊長をソファーと案内をする。
「待たせたな。こちらに邪魔することになって悪かった」
銀縁眼鏡に、切れ長の目。普段は細めて鋭く見える眼差しが、今日は少しだけ緩んでいる。
「連隊長。福留の珈琲がお目当てでしたか」
御園准将がタイトスカートの制服姿で、ここでは優雅な微笑みを連隊長に見せている。彼もソファーに座ったところだったが、頬を緩めて彼女の微笑みをみあげていた。
なんだ。いつもは『わがまま嬢ちゃん』とか『いけすかない兄様』とやりあっているのにいい雰囲気にもなれるんだなと、雅臣は意外なものを見た気がした。
「そうだな。葉月に福留少佐を取られてから、まったくもってあの秀逸な珈琲が気軽に飲めなくなってがっかりだ」
「いつでもこちらにいらしてくださってよろしいのですよ」
ミセス准将がにっこりと笑う。今の雅臣には、彼女のにっこりを目にすると『腹黒いこと隠してんな』としか見えなくなってしまっていた。
それは連隊長もきちんと伝わっている。彼も普段みせもしない『にっこり顔』になったではないか。
「それはそれは有り難いな。でもなあ、俺が頻繁に訪ねてくると、葉月はサボタージュができなくて困るだろう」
「一緒におつきあいくだされば、レモネードをご馳走いたしますわよ」
「嬢ちゃんの『お外でお楽しみの』レモネードをご馳走されたとなれば、連隊長を辞退しなくてはならなくなる。つきあえるか」
にっこりにこにこ合戦をするジャックナイフジュニアの細川連隊長と、アイスドールのミセス准将。普段笑わない二人がにこにこやっているので、逆に周囲の大佐達は硬直し黙りうつむいている。あの御園大佐までもが。
「まあいい。葉月、おまえもそこに座れ」
「かしこまりました」
途端に、いつもの細くて鋭い眼差しの連隊長殿に戻った。そして御園准将も笑顔を消し、細川連隊長の正面に座る。
その周辺に、ミラー大佐にコリンズ大佐、橘大佐に御園大佐と空部隊の主立った大佐が座る。雅臣は彼等の端へと席を取った。
「御園准将に連絡するよう伝えていた通り、ただいまから横須賀司令部と検討した上で決定した、防衛航行任務にて空母に乗り込む幹部の内示を伝える」
彼を正面にし、ミセス准将と大佐一行は静かに固唾を呑む。
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