29.秘密の敗北宣言


 ――出航いたします。

 ベテランの中年船舶隊員がミセスへと敬礼をする。


 ガラス張りの船室。壁際にベンチ式の座席。向かい側にミセスと心優が座る形で、雅臣は彼女達と向きあっていた。


 だが無言が続く。出航した船は、今日も煌めく珊瑚礁の海を颯爽と波間をゆく。空には潮の風。爽やかな夏の空。船室にも青が溢れている。コックピットのそれとは違う、穏やかなもの。


 なんで彼女達と俺の三人だけにされたのだろう。雅臣はそれだけが気になっている。


 なのに。あのミセス准将が、たおやかな微笑みでじっと雅臣を見つめてる。空と海の青が広がる中、彼女の栗毛と琥珀の目も際だってキラキラしている。

 

 そんな輝いているこの人を、見たことがないから、雅臣は釘付けになる。


「雅臣」

「はい」

「負けたわ」


 彼女がにっこりと……。みせたことのない、無邪気ともいいたくなる笑みを見せてくれる。


 心優も隣でびっくりしたのか固まっていた。


「いえ、あの准将……」


 いきなり敗北宣言されても、まだ勝負はついていないと言うのに?


「雷神を頼むわね。安心して空母を下りることができそうね」


「待ってください! エースコンバットはまだ始まったばかりですよ」


「コンバットは勝負がつくまで付き合います。でも、今日、ほんとうに心から思ったの。雷神はもう手放してもいいって……」


 そして雅臣はまた驚かされる。彼女の夫がそうしてくれたように、彼女も雅臣の目の前で急に涙を流し始めたから。


「こうして、また。一緒に連絡船に乗れるようになって嬉しかった」


 雅臣は言葉を失う。


 そうだった。ずっと前、彼女とこうして連絡船に乗っていた。事故に遭った後は、パイロットとしてではなく新人指揮官として。でもその彼女のそばで自分は吐いたり、めまいを起こしたりして空母艦に乗り移ることができず、何度も陸の基地に一人で戻って医務室で落ち着くまでうずくまっている日々が続いた。


 しばらくして彼女に言い渡された。『横須賀に帰りなさい』と。空の仕事から切られた。


 後のことは考えたくない。この人に絶対に言ってはいけないことを言い放った。


 あの時、あのラングラー中佐にも厳しく注意をされた。本当なら顔向けができない。できないのに、この人達から許してくれた顔で雅臣が勤めていた秘書室に訪ねてくる。そりゃ、目も合わせられないし、笑顔なんか浮かべる資格だってなかったと自責しつづけた。


「吐いてから横須賀に帰った俺は、酷かったですね。顔向け、できなかったです」


「顔向けできないことなら、私もたくさんやったわよ」


 誰でも若いとき、誰かに迷惑をかけているものだと、彼女は言ってくれる。


「なぎの大将に聞きました。ほんとうは苦渋の決断で俺を横須賀に帰してくれたのだと」


 ミセス准将が雅臣からさっと視線を外した。そうして、ちょっと気恥ずかしそうに頬を染めている。『もう、なぎのおじ様ったら』と小さくぼやいていた。


 でも彼女がまた涙目のまま、雅臣を嬉しそうに見てくれている。


「あなたが戻ってきてくれて、ほんとうに嬉しかった。それに……もう少し先かな、と思っていたんだけれど。やっぱり本物のエースにあっという間に『私のティンク』がやられちゃったみたいで、意外すぎて悔しかったのも本当。だって、化け物データでも、あれは男みたいに飛べる私だったはずなんだもの」


 コードミセスなんて『嘘のデータ』。あんなものに勝って喜んでいるだなんて、勝った負けたを気にする方が気にするだけのこと――と、この人は言いきっていた。


 でも。本当は『手を加えた虚偽のデータでも、あれは男同等に飛べる私。ほら、誰も勝てないんでしょう』という喜びも密かに彼女は隠し持っていた。


 ただそれで胸を張ることができない。虚偽だから……。だから、彼女はミセス准将として正当の判断でそれをつっぱねる姿を見せるしかなかったのだ。


 心の奥では『誰も勝てないでしょう』と誇りに思っていたデーターにさえ、雅臣はエースとして勝った。


「指揮官として彼等を危ない飛行から守ってやらなくてはならない。しかし、勝負だから彼等同様に雅臣は一線を越える覚悟をしていた。私もよ……。でも、まだ雷神を持ったばかりの貴方にはそれはできない。私が先にその覚悟を見せて驚かそうと思っていたのに……」


 それすらも、雅臣は即決をし、英太と共に『ギリギリに挑んででも栄光を掴む』覚悟を決めていた。考えていること、すべてミセス准将と同じというわけだった。


 どうしてレモネードを買いに行かされたのか、やっと雅臣は意味を知る。ミセス准将として言葉にしたくないことを、これから後継する男にその本心を告げておきたいから、『二人きり』になりたかったのだ。


 心優は雅臣の妻になる女性であって、彼女のいちばん側にいる護衛官。間にいてそれを見届けてほしかったのかもしれない。


「やっぱり、本物のエースには敵わない。初めてそう思ったのよ。だから、負けよ。ソニックに負けたんだから、ぜんぜん悔しくない。むしろ、すっきりよ」


「准将……」


 雅臣はもうなにも言えなかった。そして雅臣の胸にも、いままでのなにもかもが迫ってきてこみ上げてくる。


 なのに、もうぐずぐず泣いているのは、准将の隣にいる心優だった。彼女に先に泣かれてしまい、雅臣の涙は止まってしまった。心優もきっと『やっと臣さんが取り戻したかったものを、すべて取り戻せた』と感じてくれたのだろう。


「任せてください。パイロットとして葉月さんの役には立てないまま去りましたが、これからは指揮官として雷神を継がせて頂きます。あの時できなかったことをさせていただきます」


「うん、お願いね」


 空母の指揮官としても、雷神の隊長としても。雅臣は近い将来、ミセス准将の全てを引き継ぐことになりそうだった。


 だが思った。『あれ? 御園大佐を後継と考えているのではなかったのかな』――と。もう諦めてしまったのだろうか?


「はあ、でもチョコレート屋さんになれるのはまだまだってところね」


 ん? チョコレート屋さん?? 雅臣は心優と一緒にきょとんとした。

 レモネードをおいしそうに飲み干す葉月さんをじっと見つめていると、彼女もやっとハッとした。


「あ、いま……。私、なにか言ったかしら……」


 あのミセス准将が頬を真っ赤にして焦った顔になっている。


「チョコレート屋さんとおっしゃっていましたが」

「え、言っていないって」

「チョコレート屋さんはまだまだ遠いと聞こえましたが」

「次にチョコレート屋さんに行けるのはいつかしら……と」

「いいえ。なれるのは――とおっしゃっていましたよ」


 雅臣のしつこい追及に、あの葉月さんが『うわん、やっちゃった』と顔を覆ってしまった。


「……その、隼人さんには内緒にしておいて。近いうちに心優にだけは教えておこうと思っていたんだけど」


「あの、どういうことなのですか。それ」


「そうですよ、准将。わたしにそろそろ教えておくって、隼人さんも知らないことってなんですか」


「あー、雷神を任せられて安心して嬉しくて、つい言っちゃったのよ……。あー、失敗した」


 そんなミセス准将ほどの方が、うっかり部下を目の前に旦那さんも知らないような思惑をぽろっとこぼしちゃうってなんなんですか! また言えない秘密を押しつけられた気分で、雅臣は心優と一緒に真っ青。


 どうも葉月さんは、雷神を手放したら『こうしよう』ということを既に考え中のようだった。


 なんだかまた振りまわされる予感――。

 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 浜松の実家に電話をする。



母さん、俺。雅臣。来月の長期休暇が決まったから知らせておく。

うん、そう。その時に『彼女』と行くからよろしくな。


 ついに『帰省』の日程が決まった。改めて思うと、心優と同じ静岡出身同士。まずは雅臣の実家へ行き、その後心優の実家がある沼津に寄り、そのまま伊豆へと彼女と温泉旅行をすることになった。


 心優はいまから『おでかけの荷物』を考えるのに、とても嬉しそうにしている。


 だが、雅臣はちょっと頭が痛い。


 母の言葉が蘇る。

『雅臣、あんたさあ、母さんのこととかちゃんと彼女に話しているんだろうねえ?』

 母がちょっと困ったように呟く。


 大丈夫。心優はその名の通り、心優しい子なんです。……そりゃ、母親のことを聞かれて言葉を濁してきたのは確かだった。


 でも信じている! 雅臣の実家の実態を知っても、きっときっときっと……。

 いや、それで過去のカノジョにふられたことは、確かにある、あるけれど。


『臣さん、わたしのこと、ちゃんとお母様にお話ししてくれているの? わたし、ぜんぜん女らしくないボサ子と言われていた女で、空手ばっかりしてきた女だってこと』


 心優もそこは不安に思っているようだったが、これも同じく。『うちの母親はそんなこと気にしない』と自信を持って言える。


 おそらく、母は心優を気に入ってくれるとこっちは信じられる。心優だって、雅臣の家族を見て、きっと受け入れてくれると、もちろん、もちろん、信じている!



 なのに。なんだ、この不安は!

 どうせ、俺は猿だよ。女心をうまくリードできない猿だよ!


 

『もしかすると、マサ君の実家……ついていけないかも』


 


 過去に言われたことが蘇るし、母にそのことは言わずとも、母も『実家うちに連れてきたから別れたのか?』と気にしていたことがある。


 実家じゃない。いや実家もひっくるめて、『雅臣のルーツにバックグラウンドも含めた、プライベートは三枚目の猿生活』があの手の女の子には受け入れられないものだったのかもしれない。


 そうだなあ、塚田の実家は品がよいもんな――。雅臣も納得済み。


 塚田は、眼鏡の優等生。冷たい横顔を保っているきつい男と見せておいて、本当は男らしい心根優しさを備えている。どちらかというと塚田は日本男子標準体型で、軍隊の中では小柄に見える方。でもいるのだ。背丈なんかない男でも、男らしいエリートの色気を放つ男が。それがまさに塚田!


 雅臣ときっぱり別れた後に、カノジョがそれに気がついて惹かれたのだってしかたがないと思っている。


 


『マサ君、ごめんね。そんなつもりじゃなかったの……。マサ君の部下だから、マサ君を心配して私に近づいてきただけだってわかっていたんだけれど。彼のそういうところにいつのまにか……』

『気にするなよ。塚田なら俺も安心だよ。もう塚田だけ信じろよ』


 

 井上なんかに騙されるなと言いたかったが、カノジョがいちばん傷ついていた出来事でもあったのでそこは言えなかった。


 事務官を辞めるの。マサ君の邪魔にならないように、彼を支えるから安心して。


 それもカノジョのケジメだったのか。元カレと夫が上司と部下という関係。そこで同じ職場で部署は違えど、事務官だったカノジョがうろうろしていれば迷惑だと思ったのだろう。


 実際に、塚田がカノジョと結婚すると知れ渡った時、カノジョも覚悟はしていたようだが『上司と部下を手玉にとった』と後ろ指をさされていた。そこへあの井上が意地悪い仕返しも陰でしていた違いない。カノジョはそれも傷ついていただろうし、雅臣にも塚田にも迷惑をかけたらいけないと思っていたのだろう。


『雅臣~。あんた、塚田君にカノジョをとられちゃったんだね』


『とられてないつうーの。俺と別れた後! だいぶ経ってから、塚田と出会ったんだよ』


『だっておなじ秘書室なんだよね? あんたが秘書室長になってから、塚田君ずっと補佐をしてくれていたでしょう。塚田君のことも意識していたってことだったんじゃないのー』


『うるさいな。ほうっておいてくれよ。結婚なんてみじんも望んでいないからな』


 母が溜め息をつく。


『……そんなこと心配していない。塚田君との信頼関係を心配していたんだよ。だって、あんた……』


 信じている男に裏切られた過去を持っている。そのせいで、生き甲斐だったコックピットを追われた。


 母はそう言いたかったようだが、さすがに言葉を濁していた。そして雅臣もなにを言おうとしていたかわかっていた。


 結婚よりも、そばにいる男を信じることができているのかい?


 そんな母の心配。思えば、『秘書室』という部署にいたからこそ、男同士の信頼を生身で築くことができたのではないかとも振り返っている。


 空のコックピットで繋いできた絆とは違う。毎日、目の前で彼等の表情を見て、言葉を交わして、ボスを守っていくチームを作り上げる。


 それが秘書室で学んだことだった。そして、そこで雅臣は『にっこり笑って、腹で本音を隠す』ということを覚えてしまっていた。


 空で真っ直ぐなだけでやっていけた男ではなくなった。

 でもそれがこれからの俺を助けてくれることになりそうだと思っている。


 その姿で守っていくべきものを守る。それを教えてくれたのも、雅臣が尊敬する元パイロット。ミセス准将だった。


 彼女も微笑みはしないが、その平坦なアイスドールの表情を固めているその腹の中に、本音を隠すことで戦略を紡いでいる。


 彼女から離れ、『管理する仕事』、陸勤務を徹底的にしたことは無駄でなかったと近頃は思い知らされている。


 だからこその『副艦長』の使命を与えられようとしていた。

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