26.ウサギが餌に食いついた
週明け、月曜日。
マンデーブルーと言われるのだろうが、雅臣の場合は『海に行ける』と潮の香に心が踊ってしまう。
今日も空母艦に向かう連絡船へと、桟橋で乗り込む。
「来るかね、葉月ちゃん」
「さあ、どうでしょうねえ」
先に雷神のパイロットを乗せたクルーザーが出航する。
指揮官はその後の船に乗船する。
いつもは橘大佐と雅臣が指揮官として共に乗船するのだが、本日は付き添いの空軍管理官数名の他に、普段はいない男性が一人……。
「で、なんで澤村君がいるのかな」
眼鏡の大佐殿が、紺の指揮官訓練着姿で何故かそこにいる。
いつものにっこり眼鏡の笑顔を見せながら、彼も船に乗り込み橘大佐に告げる。
「そりゃあ、あいつが雅臣君の闘志に負けて、餌に飢えたウサギみたいにひょこひょこやってきちゃう姿を見に来たに決まっているでしょう」
橘大佐が呆れながら、ガラス張り船室のシートに腰をかける。
「ほんっとに意地悪い旦那さんですよねえ、御園大佐は。そりゃあ、アイスドールの葉月ちゃんもムキになるはずだよ」
「そうです。僕は意地悪い夫なんですよ。今更でしょう」
「この夫にムキになる葉月ちゃんもたいがいだけれどな。なーんで澤村君だけには、あんな小さなかわいい女の子になっちゃうんだよ。俺がそうなりたかったのに、ずるいな」
「橘さんでは無理だね。俺みたいな意地悪なんかできないでしょう。好きになった女性には甘くなっちゃうんでしょう。だから、ずうっとモテモテだったんでしょう。今は奥さんだけにそうってことは、こうと決めたら一筋彼女にだけ甘くなる。葉月と上手くいっていたら、絶対にベタベタに甘やかしていたでしょう」
妻『真凛』との現状にしても、もしも過去に想いが通じていたとしても、橘大佐の女の愛し方はその通りだったようで、珍しく彼が顔を赤らめていた。
大の男を、飛行隊の大佐殿を、ここまでさせるからこそ、やはりこの眼鏡の大佐もただ者ではない。
「ほんとよく言うわ。ま、俺も澄ました彼女が雅臣の餌に食いついてきて、『私、負けないわよ!』とムキになるところ見たいですけれどね。しかも何事もなかったようにすうっと澄ました顔でやってくる、でも腹の中は
「そうそう。そんな時の葉月は、なかなかに面白い」
「しかし。来るかな~。『感情的になっている私を意地悪く待ちかまえているに違いない』と予測して、もうしばらく来ないかもな。それこそ、ご主人が待ちくたびれた頃に来るんじゃないですかね」
「それもあるなあ。そっか。では、一度、俺が諦めた振りをして安心しきって来たところを楽しもうかなあ」
ほんと意地悪いすねえと、奥さんを驚いた顔にさせるためにいつだって全力の御園大佐に、雅臣も苦笑いしか浮かばない。橘大佐がますます呆れたところで『出航します』と操縦士からの知らせ。
桟橋のビットに繋いでいるロープを船員がほどく。
「待って、乗せてちょうだい」
冷たい女性の声を聞き、船室にいる男達がハッとした顔になる。
桟橋に、紺の指揮官訓練着を着込んだ栗毛の女性が立っていた。その後ろには、同じ訓練着姿の心優が付き添っている。
長身のすらっとした女性が二人そこに立っていると、桟橋にいる作業員の誰もが彼女たちへと視線を向けてしまう。そういう存在感。
それは橘大佐も御園大佐も同様に。それを見た雅臣は『結局、彼女を面白がる前に、男たちのほうが先にびっくりさせられているじゃないか』と呆気にとられてしまう。
「御園准将、お疲れ様でございます」
桟橋でロープを解いた若い船舶隊員がビシッと敬礼をする。
「ごめんなさい、駆け込み乗船ね」
「いいえ、間に合ったようでよろしかったです」
桟橋から彼女が慣れたまま、すっとクルーザーへと乗り込み、船室へと入ってきた。
「あら、御園大佐まで……。本日は甲板でなにかご用なのかしらね」
夫の性格などわかっているだろうに……。あのなに食わぬアイスドールの顔で、御園准将は夫を冷ややかに見下ろしている。
「そうですね、ネイビーホワイトのメンテナンス状況を確認しようと出向くことにしました。准将こそ、空母はお久しぶりではないですか」
「そうね。私も雷神の状況を、たまにはこの目で見ておこうと思いましたのよ」
夫も素直に来た妻に裏をかかれただろうに、こちらも何食わぬにっこり笑顔。対照的な夫妻の表情だった。
そんな夫妻のやりとりに、船室にいる指揮官達はどう反応していいのか微笑を浮かべながらも、夫妻の間に下手に巻き込まれないよううつむいている者ばかりだった。
――改めて、出航します。
操縦士の合図で、クルーザーが離岸する。
晴れやかな夏の珊瑚礁の海へと、クルーザーが波を切る。
その間も、船室にいる誰もが、ミセス准将の思わぬ乗船に沈黙をするばかり。
だが、その空気を壊したのも、またミセス准将――。
「訓練開始前の乗船にギリギリに間に合って良かったわ。もう、連隊長に
そうして彼女が隣に楚々と座っている心優へと視線を送ると、心優も無言で頷いた。
彼女が手元に持っているバインダーから数枚のプリントを雅臣と橘大佐に渡す。
御園大佐は部外者扱いなのか、または『貴方がいるはずもないから最初から用意しなかった』とでもいいたげに無視されている。それでも御園大佐がめげずに、橘大佐の手元を覗き込んでいる。
だがそこに記されていることを確認し、雅臣は息が止まるほど驚き、正面にいるミセス准将を、真っ直ぐに捕らえてしまう。
「准将、これは……」
「わざわざ連隊長が考えてくださった『新しい称号』よ。この週末休暇の間にここまで準備してくださったの」
御園准将が、誰よりも勝ったと確信した時に見せる微笑みを浮かべていた。
「す、すげえじゃねえか。葉月ちゃん!!」
のこのこやってきた彼女を笑おうと言っていたくせに。もう橘大佐は御園准将がいまここに運んできた台風に自ら飲み込まれ興奮している。
だが、雅臣もプリントを眺める手が震えていた。
「この称号を……。よろしいのですか。准将。これを得たパイロットはとても喜ぶと思いますけど……、でも、そんな……畏れ多いというか……」
「連隊長がたった二日でこれだけのことを決意してくれたということは、『正義兄様』も『復活して嬉しい。そして期待している』という現れなのでしょう」
彼女があっという間に男共を吹き飛ばした今回の突風。
―― エースをラストステージで五回以上撃墜成功したパイロットには『ジャックナイフ』の称号を与える。
『ジャックナイフ』と呼ばれたパイロットがいる。御園准将をパイロットとしてまたは指揮官として叩き上げた中将殿。そして細川正義連隊長の父親、『細川良和』氏がパイロットだった時のニックネーム、タックネームだった。
正式タックネームは『ジャック』、そのジャックが鋭くスマートな飛行で狙撃を成功させる。人々が『彼はジャックナイフ』と呼ぶようになったのは、ファイターパイロットの間では有名な話。そんなパイロットを父親に持ったのが、この小笠原基地の現連隊長『細川正義』少将、彼は息子になる。その息子が、父親が名を馳せた『ジャックナイフ』を、新しいファイターパイロットの称号として新たに設けるという、通達だった。
「では。1対9の演習で、エースの称号を持つ英太を撃墜状態に追い込めば、ジャックナイフの称号を得られるのですね」
「そうよ。エースに手は届かずとも、また雷神の彼等に火がつくでしょう。英太も心してかからないとね」
そこで雅臣に、どっと冷や汗が滲んだ。正面にいるミセス准将が、不敵な笑みを雅臣に向けじっと見つめて離さない。
「どう、雅臣。望みが叶ったでしょう」
貴方の望みを、週末休暇の間に『現実に』したわよ。それだけの力があると、実行力もあるとみせつけられる。
しかも准将は、雅臣の今の心情を既に見抜いていて、あからさまに口にした。
「自分で自分の首を絞めるって気がつかなかったの?」
パイロット全員を思って、雅臣自身が願い出たことだった。エース以外の称号を。それを叶えてくれた。でも……。
「大丈夫なの。雷神のパイロット全員を本気にさせて、敵に回したということなのよ。毎日、死ぬほど追いかけまさわれるのよ、雅臣と英太は……。楽しみね」
喧嘩をふっかけた相手がこんな時に優美に微笑んだ。
雅臣だけじゃない。そこにいる男たちが、彼女の冷気に固まりたじろいでいる。夫の御園大佐と、護衛の心優を除いて。
臣さん、これから冷たい意地悪をされると思うけれど、思いっきり生意気やってもいいと思うよ。
心優に言われた言葉を思い出す。こういう焦りをこれから何度も味わわされるのだろう。でも雅臣も願ったり叶ったりだ。
「やっと本気になってくれるのかと安心しました。いまのままではどうあっても英太の一人勝ち。これぐらいの餌をさっさと与えるべきでしたね」
その餌を准将はいままで甘んじて与えていなかったのですよ――と言ってしまったことになる。内心では、敵わない尊敬している彼女に生意気をつきつけて雅臣はドキドキしている。
「そうね、ほんとうに遅かったと思っている」
思った通り、正面にいるミセス准将の目が笑っていない。彼女が空母艦で、スクランブルに立ち向かう時に空を見据えている目になっている。雅臣もここは逃げずに見つめ返すが、それが精一杯。
だが途中から、彼女の目が変化したように見え、雅臣はふと首を傾げたくなる。
ミセス准将からそこで目を逸らしてしまう。
「雅臣、今朝のブリーフィングの資料をみせて」
「かしこまりました」
胸ポケットに入れていた今朝の雷神チームとのミーティングで行った本日のブリーフィング内容を手渡した。飛行するための本日の天候や訓練航路を確認したもの。
「なんか久しぶりね、これを見るの」
天気図や、島周辺の航路を眺めると、彼女の目が生きてくる。
「本日も晴天ですね。ですが、午後はやっぱりスコールでしょうか」
心優も航空のことをだいぶ学んで、自分の上司がなにを見てなにを思っているのが通じるようになってきているようだった。
「ほんと、南になると午後は雨。フロリダもそう、夏期はよくスコールが降って雨の中のフライトも当たり前だったわね」
「フロリダってそんな気候なんですか。いつか行ってみたいです」
「そうね。心優にはいつか私が育ったところを見せたいわね」
親子のような姉妹のような女性同士で急に和やかになる。
そうなると、それまでミセス准将を中心に渦巻いていた強烈な空気に気構えていた男たちが、同じように微笑ましい顔になる。
なるほど。俺の心優はそういう空気を周りに与えることができて、ミセス准将を引き立てているのかもしれない。初めてそう思えた。
ガールズトークというべきか、そんな会話に夢中な彼女たちに安心したのか、御園大佐が向かいの席からふっと雅臣の隣に移動してきた。
「ああいうの見ると、ホッとするんだよねえ。あれは園田だけが成せるものだな」
「そうですね。自分もいま実感していたところです」
「園田はわからないってふりして、実は頭の中で誰がなにを考えているか、もの凄いフル回転で予測している。知らぬ間に助けられている上に、園田自身が役に立っていたという自覚もないから、思い上がりなどするはずもない。彼女のことを、何もしていないくせにと感じるだけで終わる残念な人間も多いことだろう」
雅臣はドッキリして、いつも穏やかな笑顔で爽やかそうにしている眼鏡の大佐を見下ろした。ほんとうにこの人は食えない男。こちらも改めて実感した。夫になる俺が彼女に対していつも思っていること。ちゃんと見抜いていると。
「そりゃそうだよな。空手で相手のことを読まねばならぬ対峙を繰り返してきたんだから。慣れているわけだ」
これまたそこまで彼は読んでいる。そして雅臣も今になってなるほどと唸った。
「自分もそういう彼女にだいぶ助けられてきたんですよ。ホッとするんです」
「俺もかな。この前の航海で、黙って淹れてくれた早朝のコーヒーはきっと忘れないよ」
ん? なんのことだ――と雅臣は思ったが、御園大佐がそこで急に真顔で妻と心優をじっと物憂い眼差しで見つめていた。
時々彼は、こういう顔を一瞬だけ見せることがある。それが同じ男として時々気になる。そんな時の御園大佐は哀しい目をしているのに、そこに妻への愛を感じてしてしまう瞬間。雅臣も同じ男だから知ってしまった目のような気もしている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます