25.あいつに、会おう

 ジャングル林から、聞いたことがない鳥の鳴き声が聞こえる。


 それと同時に、雅臣は目が覚める。


 非常に気怠い……。唸りながら寝返りを打ち、ナイトテーブルにあるパイロット仕様の腕時計を眺める。


 反射塗装になっている数字と針を眺め、なんだまだ夜明け前か――と、もう一度ベッドへと身体を沈めた。


 もう一眠り……。夜更けまで、心優と思う存分に愛しあったので身体がだるい。俺もやっぱりもう四十前かもなあとあくびをしながらタオルケットにくるまった。のに……。隣からもぞもぞとした柔らかい感触、それが素肌の背中にぴったりとくっついてくるし、花のようないい匂いがふわっとたちこめた。


「う……ん? もう朝……?」


 裸で眠っていた雅臣の身体に、細長い女の腕が背中から巻き付いてきた。心優が抱きついてきている。


「起きなきゃ……、走りに、いかなきゃ……。何曜日? ……だったら、はやく准将室に……」


 ああ、もう。この子はいつだってそうなんだなと雅臣はちょっと溜め息をついた。


 伸びてきた細い腕、その先にある手を握ってあげる。


「今日は土曜だろ。朝のランニングも、出勤もなしの日だ」

「……あ、そうだった」


 平日の朝、心優はランニングを欠かさない。曜日によっては早めに准将室に出勤をして、先輩たちと大量業務の準備をする日もある。だが心優は土曜日だけはなにもしないと決めて、雅臣とゆっくり過ごしてくれる。それが今朝――。


 すると心優がまたぎゅっと雅臣の背中に力を込めて抱きついてくる。


「嬉しい、臣さんとまだこうしていられるんだ」


 背中に生々しい膨らみがくっついてきたのがわかる。それだけで全身がどきんと脈打つ。


 まだ日が昇りきらない薄明るいだけのベッドルーム。明けの紫に包まれているだけの部屋は静か。でも男の身体は熱くなってしまうばかり。ついに雅臣は抱きついている彼女へと寝返る。まだうつらうつらしている心優もはっとして目を開け、上から覗き込んでいる雅臣の目を見つめてくれている。


 いまはこうして、彼女がそばにいることが当たり前になったからこそ、雅臣は未だに夢のようだと我に返ることが多い。


 わたしはボサ子で男に慣れていなくて、セックスだって苦痛なだけだった――と言っていた彼女が、近頃はセックスに慣れきったのか、雅臣がそうして欲しいとそれとなくせがむことで覚えてしまったのか、あるいは日頃の仕事のストレスもあるのか。それはもう雅臣が望むまま、男の身体の上で激しく悶えてくれる。雅臣が攻めることもあれば、体を鍛えている彼女が男の身体を翻弄することもあるし、かわいい口で雅臣の身体中を愛してくれることもある。


 そんな時の心優は妖艶で、きっと誰もこんな彼女を見たことがないんだろうなと……、雅臣はそんな彼女をみつめて優越感に浸っている時がある。


 かわいい心優が、凄い彼女になる瞬間。俺の身体にまたがっている心優の細い腰を下から支えている時、雅臣も恍惚としながらふと世界がどっかにふっとんでしまう時がある。


 その瞬間、ぼんやりと思い出すことがある。

 

―― いいカラダしているねー。

 初めて出会った時のことを。

 ――中佐、セクハラ発言ですよ。

 当時の部下だった塚田に叱られる声も。

 ――わたしは嫌ではありません。あの、中佐もいいカラダされていますよね。


 あの時も『そんなセクハラのような男っぽいことを言われても、わたしにはわかりません』という顔を心優はした。


 ――中佐は、あなたの鍛えられた身体のことを言っているのです。


 決してセクハラ発言ではなく、空手家として鍛えているしなやかな身体のことに感心したのだ。塚田はそうフォローしてくれた。

 だが違う。雅臣のことをよく知っている塚田も、本当は気がついていはずだった。


 『マジで、俺好みのいいカラダ』だったんだと。

 いまだって、心優は知らない。


 雅臣は、細長くて均等の取れたモデルのような体型の女性がずっとタイプだった。いわば、日本女性ではなく外国人体型。


 あの着せ替え人形のような女性に憧れている。心優はまさにそれだった。●●ちゃん人形のような子だった。


 見た目ボサ子だったかもしれない。でも、気がつく男は気がついていた。『でも、あの子。スタイルいいよな』、『足が細くて長いな』、『程よい膨らみのバストに、ヒップの位置が高くていい形』。そんな男共の囁きは雅臣にも聞こえていた。その時にどれだけ、気を揉んでいたことか。


 それだけではない。『秘書室に選ばれただけあって、表情が読みとれなくて、口も堅い』、『メダルを目指していたメンタルが彼女の軍隊での潜在能力』、そう気がついた男たちは澄ました顔で知らぬふり『様子見』を決め込んでいた。その男達が後ほどこう口を揃えたことも。『御園が目をつけた。長沼准将の審美眼は間違いなかったということか』――と。


 彼女は意地悪な視線と受け取り緊張していたようだが、心優は様々な目線で注目されていた自覚を持っていない。男に慣れていなくて疎い心優が簡単にひっかからないよう年上の大人の上司としても気を配っていた。


 逆にそんなことも見えもしない、外見だけで『ボサ子』と判断するバカ男は徹底的に無視をした。もうその時点で人を外見で判断しているだけで、観察力も洞察力もなし。たいした仕事もできなさそうなもんだから。


 心優が御園葉月准将と並ぶと、ものすごい見栄えがした。あの日本人離れしたすらりとした長身のミセスと、同格のスタイルだったからだ。


 その時に男共はさらに気がついただろう。磨かれたボサ子がどれだけの原石だったことか。ミセス准将に見劣りしないスタイルで一緒に歩いていると、非常に目を引く。そこだけランウェイかというような空気になる。


 そのくせあどけないベビーフェイスな笑顔を見せるもんだから、目上の男達からとても可愛がられる。


 ほんとうにほんとうに、再会してすぐにひっつかまえて俺のもんにして正解だった。即プロポーズをして、婚約して正解だった。でなければ、シドを始めとしたエリート軍団の男共に、心優は猛アプローチの嵐に襲われていたはずだ。しかも御園のお気に入りとなれば、出世を狙う男たちにとっても放っておけないステイタスも持っている。


 そうして、横須賀や小笠原の男たちが、『なんであっという間に城戸大佐のものになっているんだよ』と陰で羨んでいる顔を思い出し、雅臣はほくそ笑む。彼女との極上の朝は、いまは俺だけのもの。そんな満足感に包まれながら、雅臣は心優を己の胸に隠すように、強く抱きしめる。


 本当にいまは、心優と俺だけ……。

 なにもしらない心優。このカラダを他の男に獲られないように、置いて行かれた俺が必死で追いかけたことだって。小笠原ではなく岩国に一度行かされた時のあの焦り、苦みを決して忘れない。だから、もう絶対に離さない!


 上司だった頃の、大人だったはずの中佐殿の邪な熱情は、やっぱり今も内緒のまま。きっとこれからも。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 遅い朝食をとっていると、せっかく楽しい会話をしていたのに心優が溜め息をこぼした。


「あの、仕事の話をしてもいい?」


 心優がそう前置きをする時は、雅臣が『大佐』としてどう反応するか伺っている時だった。


「どうした。もしかして、俺が葉月さんを挑発したことか」


「うん。わたしね、最近、あのわかりづらい葉月さんのちょっとした感情のひだみたいなのがわかるようになってきたんだけれどね」


 うん――と雅臣も新聞を読みながら、でも気にしていないような返事をする。本当はすごく気になる。


「臣さんが『任されている以上、俺はやりますよ』と言いきった後、准将室をでていったでしょう。あの後、護衛で少し離れて後をついていったんだけれど、いつものサボタージュの芝土手にたどり着いてね……」


 ミセス准将がふらっとそこへ向かうのはよく聞く話。


「そこでもの凄くぷりぷりしていたんだよね」

「ぷりぷり?」


 あの女性を捕まえて、そんな可愛げある表現を使われたので雅臣はつい聞き返してしまう。


「うん。お気に入りのレモネードの缶ジュースを片手にね。『まったく、生意気。なにがエース以外の称号を与えろよ。それに私だって英太に1対9を制覇させてやれなかったこと、ずうっとずうっと気にしていたわよ』と、こんなふうに口を尖らせてぷりぷり」


 心優がちゅっとくちびるを子供っぽく突き出したので、大佐の心積もりで聞いていたのに雅臣はふきだした。


「おおげさな変な顔するなって、あの人がそんな顔するもんか」


 笑い飛ばしたが、心優が首を振って身を乗り出し詰め寄ってきた。


「なに言ってるの臣さん。葉月さんが隼人さんにやりこめられる時の顔ったら、未だにほんとうに『お嬢様』みたいな子供っぽい顔になるんだから。つまり! 臣さんは、あの葉月さんに旦那さんにやりこめられたのと同じ状態にさせたってことなんだからね」


「隼人さんがやりこめたのと、同じ……?」


 一瞬、ヒヤッとした。それって、ものすごくあの人を感情的にさせたってことなのでは。


 と、なるとその揺り返しが甲板でやってくるということだった!


 雅臣が黙り込み青ざめたのを見て、今度は心優が心配する顔になった。


「冷たくて意地悪なことされるかもしれないけど、だからこそ、臣さん……思いっきり生意気やっていいと思うよ。臣さん、時々、葉月さんに遠慮しちゃうところがあるから……」


 葉月さんを常々気にしている。心優は雅臣のそんな感情をとても気にする。女性として意識しているわけではない。雅臣があの人を常に気にしているのは、師匠だからだ。橘大佐同様に、空で生きていきたい者はどうすればいいか。それを見せてくれる人……。


 だからこそ気にしている。あの人に二度と見限られたくない。今度こそ、期待に応えたいと思っている。


「わかった、心優。大丈夫だ。そのつもりでふっかけたんだ。なんたって、あの悪ガキ・バレットと組むんだからそれぐらい噛みついてやる気概をもっていないとな」


「鈴木少佐もすっかりその気みたい。自分のエースの称号は誰にも譲らないけれど、それでも、あの時、結婚することで身をひいた相棒のクライトン少佐とははっきりした決着をつけたかったから――って」


 そうか。やっとあの悪ガキ、本気になったか。そして、親友とやりあう決意もできたようだった。


 親友か――。

 雅臣の胸に、また苦しく黒い渦がうごめく。その渦が抜けない棘に触れまくって、抜けないからいじられっぱなしで痛い。


「いいな、英太とフレディは……」


「ミセス准将がその気にならないと対戦すると決まったわけでもないのに、お二人はすっかり対戦気分で、昨日も嬉しそうにして二人揃ってキャンプの道を歩いているところを帰り道に会ったの。これからクライトン少佐のご自宅で食事して泊まっていくんだって教えてくれたよ。今週末までうんと仲良くして、きっと週明けの甲板からは口もきかないほどの敵対心を持って正々堂々勝負するんじゃないかな」


 二人の仲がどうなるかと案じていたが、雅臣はそれを聞いてホッとした。心優は英太と仲が良い、時たま、フレディとも一緒に食事をすることがあるようで、二人の強い絆をもう何度も目の当たりにしているようだった。


 そう思うと、雅臣はどうしてか涙が滲んでしまった。


「お、臣さん。どうしたの?」


 向かいの席にいた心優がびっくりして、雅臣がいる席まですっ飛んできてくれる。


「いや、あいつら、いい友情もってんなと思って……。安心したんだよ。もしかして、俺がすることで仲違いしないかと」


「大丈夫だよ。あの二人はライバルであって、相棒なんだもの。喧嘩も良くするけど、熱くなる鈴木少佐に対してクールなクライトン少佐がさっと抑えて本当に上手く噛み合ったコンビだって雷神のお兄さん達も笑っているもの」


 その時、雅臣はついに……。吐露してしまう。


「どうして俺とあいつは、あんなになってしまったんだ」


 なんのことか察した心優が、さすがに固まっていた。言葉も失った真っ白い顔になっている。


 心優から触れてきたことは一度もないし、雅臣から『彼』のことを口にしたことも一度もない。


「だからこそ。英太とフレディに真っ当な実力の優劣をつけさせるべきとも思いもするし、だからこそ壊れるのではとも恐れている」


「臣さん。鈴木少佐とクライトン少佐のこと……」


 そうなれなかった自分と『彼』を重ねているんだね――。心優はそう言いたそうだったが、そこまでは言わなかった。


 雅臣も不思議だった。今になってこんなふうに溢れてくるだなんて。俺の時間が小笠原で動き始めたから? 俺が置き去りにしてきた気持ち、どうにかする時間がやってきたから? 『妻』という心強い支えを得たから?


「心優。浜松に帰ったら、あいつに会いたい」


 また心優の息が引いたのを雅臣は感じた。でも、今度の心優は優しく雅臣に抱きついてくる。


「うん。一緒に行こう。お花を持って行こう。きっと会いたいと思ってくれているよ……」


 心優も泣いていた。


「後悔していると思うんだ……。空で……。いまは臣さんを心配して見守ってくれていると思うよ。だって、鈴木少佐とクライトン少佐みたいに仲が良かったんでしょう」


「ガキの頃からずっとだよ。あの日までずっとだ」

「誰にも負けないほどだったんだね」


 でも。コックピットという男を魅了するシートを得た者と得られなかった者に分け隔てられ、生死で分かつことまでになった。


 空は人を魅了し、時に魔物。


「一緒に航海に連れて行ってほしいかもよ」


 心優の優しい囁きに、雅臣も静かに頷く。


 もっと早く。おまえを空に海原に俺と一緒に連れていけば良かったかもな。俺が迎えに行かなかったから……。


 そう思った。小笠原はもう真夏のように蒸し暑い。官舎の窓には今日も珊瑚礁の海。熱帯の風が吹き込んできても、ここでは少しひんやりしていて気持ちがいい。


 人知れず。大佐は潮風と彼女に抱かれている。

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