18.まだ見ぬ子供たちへ

「臣さんも来て、びっくりしちゃった」

「俺もだよ。なんだ、最近、書庫で広報誌を読みあさっているんだ」


「うん。これまで小笠原にいた隊員のいろいろがわかって面白いし、ためになるの。秘書官として知っておかなくちゃいけないこともあるからってラングラー中佐に勧められたの。そうしたら、この夕焼けの記事をみつけて……。素敵だったから」


 でもあんなに不機嫌になるだなんて思わなかったと心優が気にしている。


 チェンジ棟舎へ行く渡り廊下まで、心優と一緒に並んで歩いた。


「今日さ、橘大佐が小笠原で子育てをするかどうかなんて話をしはじめてさ。もうすぐ生まれるから当然考えることなんだと思うけど、俺達はどうなるのかなって初めて思った」


 コードミセスの話題よりかは……と思って、頭にあったことをちょっと話題にしただけだった。


「ど、どうしたの臣さん」


 黒髪ショートカット、小さな頭の心優がきょとんと首を傾げて、驚いた猫の目で雅臣を見上げている。


 もうそれだけで『かわいいなあ!』と抱きしめたくなる猿の気持ちが襲ってきても、いまは我慢の大佐を努め――。


「いや、俺達だっていつかは、だろ」


 心優が黙ってうつむいてしまった。そんな話題、まだ早いのだろう。実家への挨拶もまだ。入籍もまだ。式もおあずけ。また航海にでる。なのに子育てなんて、先の話をいま考えても……。


「わたし、臣さんの子どんな子かなっていつも想像しているよ、勝手に」


 ちょっと恥ずかしそうにして心優が呟いた。そして雅臣の胸がドキリとときめいた。


 心優が雅臣とどのような家庭を夢見てくれているのか。俺との間に生まれる子へと、既に思いを馳せてくれていたから。


「俺もある」


「知ってる。三人、だよね。パイロットと秘書官と金メダリスト。臣さん気が早いと思っていたけれど、わたしも思うよ。男の子二人と女の子がいいな」


「いいな、それ。俺も、心優みたいなかわいい女の子は絶対にほしいな。心優みたいに道場着を着て小さな子が空手するんだ」


「えー、女の子だったらかわいく育てたいな。御園准将のところの、お嬢さんみたいに」


「そうか。俺は心優にそっくりがいいな」


 そう伝えただけで、心優が真っ赤になった。


「本気でいってるの? だって……」


 なにを言うかわかって、雅臣は心優のくちびるを指先で押さえる。


「ボサ子っていうなよ。俺の妻は元よりボサ子でもないし、俺の娘はボサ子なんかじゃない」


 それだけで、心優は嬉しそうに笑ってくれる。ほんとうにどうしてこんなコンプレックスになってしまったのか。横須賀基地の心ない者達の陰口と心根を恨むばかり。


「わたしも臣さんみたいな、身体能力抜群の男の子がいいな。空手を教えるの」

「それもいいな。はやくそうなりたいな」


 そろそろチェンジ施設へ向かう渡り廊下。そこはもう夏の夕の気配に色づいていた。


 忙しさに追われて、結婚することが当たり前になって。でもこんな話、ゆっくりしたことがなかったと初めて気がついていた。


 だから雅臣はそのままチェンジ施設へと『じゃあ』とは、別れられなくなっていた。そこでそのまま立ち止まって、心優と向かい合っている。心優も『じゃあ』と立ち去らない。


「三人、いいよね。でもわたしに育てられるかな。秘書官続けたいし」


 そこも雅臣がひっかかっているところだった。橘大佐夫妻でさえ、転属があるなら妻は退官するなんて言っているぐらいだ。


「だから。聞きたかったんだよね。御園大佐に。この広報誌はきっかけにすぎないの。……葉月さんに過去のことを聞くのはすごく気遣うの。この頃って胸を刺されてからまだ数年しかたっていないよね。結婚して、お子様も年子で続けて産まれて、ラストフライト。幸せだったと思う。でもやっぱり気遣うよ。だから、御園大佐に聞こうと思ったの。この写真をきっかけにして『年子で生まれて、どうやって子育てをされてきたのですか』って――」


 まさか。心優がそこまで先をしっかりと見据えていただなんて――と、雅臣は絶句した。


 いや。当然なのではないか。彼女は女性だ。結婚すれば、母親になることだって視野にはいってくる。特に女性はそうなると身体に変化が生じる。その身体で働くことのリスクを考えないわけがない。周りが『妊娠は大丈夫?』と案じるように、心優にとっても当然のこと。


 俺はやっぱり、ただの猿か――と、雅臣は夫になる男としてがっかりする。


 だが、そこで心優が思わぬことを言い出した。


「わたし、小笠原で、御園のご夫妻みたいに、のびのびと島の子として育てたいなって思ってる」


 妻になる彼女の確固たる意志を、初めて目の当たりにした。

 心優はこの小笠原で生きていく意志を既に固めていた。


 だがそれは雅臣も同じだ。


「俺もだよ。俺をここまで戻してくれた、諦めていた空を心優と飛ばしてくれた『あの人』と一緒にやっていくと決めている」


 心優が嬉しそうに笑顔を輝かせた。


「わたしも、おなじこと思ってたよ。だったら小笠原で子育てすること考えなくちゃね!」


 心優はもうすっかりその気だった。

 雅臣はまだ漠然としていただけなのに。


 だが、一緒に生きていこうと誓う彼女が『ここで生きてゆく』『ここで子供を育てるの』とかわいく微笑むと、雅臣も素直にその気持ちになってくるから不思議だった。


「あ、臣さん。いまからチェンジにフライトデータ投入なんだよね。えっと、もう大丈夫? 昨日の……」


 コードミセスに負けてしまった気持ち。もう大丈夫? と彼女が案じてくれている。


 雅臣はいつも自分を思ってくれる彼女を見て、ふと微笑み、自分より小さな黒髪の頭を上から撫でた。


「いまから勝負するんだ。目標は二日。コードミセスと対戦して最短で勝ったミラー大佐の記録をも抜いてやるんだ」


「え、すごいことじゃないの、それ」

「絶対に勝ってやるんだ。心優にもそう報告したい」


 だから今日からしばらく、俺は優しい男ではなくなるかもしれない。そうほのめかした。


 だが心優ももう真顔になって、雅臣をじっとみつめてくれている。


「また見せて、ソニックの空を」


 そして俺の彼女が不敵に微笑む。


「お父さんは、引退しても誰にも負けないエースだったと、子供たちに教えるんだから」


 まだ子供なんて先のこと。でも、もう……いるんだな。俺と心優のこの間に流れる空気の中に。


 その空気の中で、俺と心優がもう育んでいるんだな。

 まだ彼女のお腹にはなんにもなくても。いつかそこに芽生えたら、きっとこの話を聞こえるようにするに違いない。


「行ってくる」


 雅臣は強敵のコードミセスが待つチェンジへと向かうため、妻になる彼女から背を向ける。


「いってらっしゃいませ、大佐。ご健闘、お祈りしております」


 心優が大佐として、パイロットとして見送ってくれるその気持ち――。

 一度は背を向けたが、雅臣はそっと彼女へと振り返る。

 そして、目の前できょとんと猫の目でいる黒髪の彼女の頬をそっと撫でて、一瞬だけ、ほんとに触れるだけのキスをした。


「た、大佐……、えっと、ここ……あの、」


 人気ひとけが少ない教育隊、工学科の廊下でも、時折工学教官達が遠くの廊下を歩いている姿が見えるから、心優がものすごく慌てて顔を真っ赤にしている。


 もうそれだけで、雅臣の硬くなっていた心がほぐれてくる。なんとなく、このまま飛んだらあの死神女王にすんなり勝てる気持ちになってくる。


「俺も、ママと空を飛んだって。子供たちに自慢するよ」


 手を振って、今度こそと雅臣はチェンジ室へと向かう。

 まだ、待っていてくれ。俺と心優のところにくるその日まで。

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