14.あの女、腹立つったらもう!(大佐二名、苦しむ)


 空部隊本部指揮官班 雷神室。

 室長である橘大佐は不在。

 副室長の雅臣は、空部隊本部から異動してきてくれた空軍管理を経験してきた事務官の若い男性二人と事務作業をしているところだった。


「なんだこれ。ここ間違っているんだけれど直してくれ」

「も、申し訳ありません。城戸大佐」


 いつになく彼が怯えた声で返答したので、雅臣はハッとする。


「えっと、うん。すぐにではなくていいんだ。今日中、俺が帰るまでに」


 やや荒げてしまった声を和らげる。心優がいうところの『お猿の愛嬌』で微笑むと若い事務官の彼がほっとした顔になる。


「あー、くっそ!」


 留守にしていた橘大佐が大声を張り上げて雷神室に戻ってきた。

 ドアをバンと開けると、室長のデスクに如何にも機嫌悪そうにどっかりと座った。


 こちらの喜怒哀楽がはっきり顔に出る室長殿が不機嫌になるのは良くあること。それを察することができたならば、触らぬ神に祟りなしとばかりに雅臣も事務官の彼等も必死に知らない顔をする。


 そうして、橘大佐はデスクで暫くはイライラしていた。『はあ』と溜め息をついたり、黒髪をくしゃくしゃとかき乱しては歯を食いしばって、何かに耐えたりしている。


 うわー、これは機嫌が悪い。俺もいまイライラしているけれど、室長もかなりきている。これはそっとしておこう――と、雅臣も必死に苛つきを隠そうとした。


「はあ、くっそ。収まらねえ。はあ、くっそ。あの女、許さねえ」


 ひとり苛立つ橘大佐がふっと漏らした文句がそれだった。橘大佐が苛立ちながら『あの女』といえば、あの人しかない。


「あの、橘室長。なにかあったのですか」


 雅臣もいま、あの人にイラッとしているところだけに思わず聞いてしまう。いつもなら『あのお二人の喧嘩には首を突っ込むまい』と決めているのに……。


 案の定、橘大佐がもの凄い悔しそうな顔でデスクを『ガン』と拳で叩いた。若い彼等がびくっとのけぞる。


「あの女がよ、わざわざ准将室まで呼んでくれたからどんな相談かと思って出向いたら。なんて言ったと思うか?」


「相談ですか? 葉月さんに何か言われたんですか?」


「あの女、いつものあのむかっ腹立つ澄ました顔で、『そろそろ横須賀に帰る?』なんて、さらっと言い放ちやがったんだよっ」


 横須賀に帰る? 雅臣も若い彼等も『あのミセス准将が空母指揮の相棒として、女房として選んだ男を古巣に返そうとしている』と知って仰天した。


「それ、本気なんですか?? 准将は!」


「知らねえよ。あのアイスドールの顔で言われた日にゃ、何を考えてそう言いだしたのかまったく腹が見えねえことしてくれるからな。あの女!」


 腹の底が知れないから、余計に怒りが湧くということらしい。

 空母ではなんでも相談してくれて、困ったことはいちばんに俺を頼ってくれる。それは橘大佐が御園准将と共にやってきたプライドでもあると雅臣もそう感じている。


 男としても、海軍の先輩としても、パイロット同志としても。誰よりも彼女と一緒に航海をしてきたんだという橘大佐という男のプライドだった。


 それが今日呼ばれたと思ったら、急になんの前触れもなく『横須賀に帰る?』と突きつけられたので、びっくりしてしまったのだろう。そして、彼もまだ小笠原にいて、彼女と一緒にまだまだ艦に乗っていたいという気持ちも残っていることにもなる。


「あっちが頭を下げてくれたから、俺は出るつもりもない横須賀を出てこっちに来てやったのによ!」


 だがそこで、橘大佐が急に声をすぼめてうつむいた。


「……まあ、二年の約束だったけどな」


 横須賀から『私と一緒に艦に乗って』と引き抜かれた時、橘大佐と横須賀の長沼准将と約束したのが『二年間』だったと雅臣も聞いていた。だがその二年はもう過ぎている。


 若い事務官ふたりの目の前だから雅臣も口には出せないのだが、『橘大佐は、PTSDを抱える御園艦長の症状を隠すためのサポート』として引き抜かれたことは、既に雅臣にも周知のところ。


 その二年が過ぎても、御園准将が手放さなかったことも、橘大佐自身も『そろそろ帰りたい』と言わなかったのも、横須賀の長沼准将が『橘を約束どおりに返してくれ』と言わないのも、『御園艦長が辞するまでは、橘は必要。まだその時期ではない』と三人の意見が一致しているからだと雅臣は見定めていた。


 それがここにきて、いきなりあの人は『そろそろ帰る?』と言いだしたらしい。


「なんだあれ。人をいらなくなったから、いらないみたいな言い方!」


「葉月さんにどう返答されたのですか」


「バカにすんな、コノヤロウ! と怒鳴りつけて帰ってきたに決まってんだろ。ほんとうだったら、准将様にそんなこと出来ねえんだけれどな……あ」


 ちょっと俺も冷静ではなかった――と、また橘大佐がうつむいた。


 雅臣の師匠でマリンスワローの部隊長だったベテラン先輩である彼でさえ、あの人はひっかきまわしてしまう女性ひと。だから橘大佐も、いちいち彼女にひっかきまわされるから男としても情けなくて、余計に怒りがこみ上げてくるらしい。


 だが、そう思うと、雅臣もなんだかイラッとしてきた。


 あの澄ましたお姉様顔が麗しく見える日もあれば、今日なんかは思い出すだけで俺もムカッとする! あの死神的飛行、架空の映像だったはずなのに、スズメバチ尾翼のコックピットに、アイスドールのひんやりとした目と澄ました顔が見えてしまいムカッとする。上からエースの俺を見下ろして、なんでもない顔で当たり前のようにして撃墜しやがったあの顔!!


 う~、俺もイライラしてきた! と雅臣も不機嫌になっていく。


「あの城戸大佐、先ほど自分が間違えたここなんですけれど」

「なんだよ。そこが間違えていると言っただろ」


 またつっけんどんな言い方になっていた。しかも、彼がおずおずと指さしたところを確認すると、よーく確認すると『間違っていなかった』と気がついてしまう。


「わ、悪い。ほんと、俺が悪かった。申し訳ない」


 雷神指揮官の大佐が、元秘書室長だった男が、この有様。雅臣もがっくり脱力してしまう。


 そんな雅臣を橘大佐がじっと見つめて、何か気がついた顔つき。


「あのさ、雅臣も昨日からおかしいよな。おまえが苛立つって余程だろ。秘書室長の時はそのおおらかさを武器にして、いつだって余裕のにっこり笑顔で割と世渡り上手だったくせに。おまえがそれだけ苛立つこととなると、コックピットしかないはずなのになあ」


 ドッキリとさせられる。まさにその通り! 秘書室でのトラブルなんて冷静に対処すればなんとかなるもの。どんなに不本意なことだろうと、コックピットでの意地に比べれば、さらっと流せることばかり。コックピットでは譲れないことが多々あれど、他の仕事ならどんなことでも折れてくれてやってもいい。それぐらいの気持ちだから、おおらかに、またはどんと受け止める姿勢で室長が務まっていたとも言えたかもしれない。


「雷神の訓練ではなにもなかったはずだろ。なんだよ、俺はすぐに態度に出るから俺が機嫌悪いそんな時は、おおらかな雅臣がフォローしてくれるんで助かっているのになあ。おまえまで苛立っているのはなんなんだよ」


 それも若い事務官の前では言えないこと。『極秘データであるコードミセスに一発負けして、苛ついている』だなんて。


「おまえを怒らせる出来事といえば……。あ!」


 原因がわかった、俺はわかる! とばかりに橘大佐が雅臣を指さす。雅臣は再度どっきり、おまえが苛つくのはコックピットのことパイロットのプライドしかない、ここでコードミセスとかいいだすのかと焦った。


「シドが心優ちゃんにべたべたするから、苛ついてるんだろ。コックピットぐらいにおまえが苛つくことって、もう他には心優ちゃんしかないじゃないか。もう雅臣は大佐としては事務的なことは冷静にできるのに、プライベートのことは顔にすぐでる」


 は? そっち? まったくの的外れに、雅臣は逆に何も言えなくなってしまった。しかも、若い事務官のふたりも『なるほど、それは仕方がない』とかうんうん頷いて納得している始末。


 塚田がいうところの『城戸さんは、恋には三枚目すぎるんですよ、もったいない』というのが、雅臣の弱いところ。それは橘大佐もよくわかっていて、そのことが原因だと思っている。


 しかし、シドが心優にちょっかいを出すから苛ついているとも思われたくない!


「いや、そういうわけではありません。まったく別件です」

「……なんか、あったな? 雅臣」

「別に、ありません?」


 しかし、それこそ顔に出てしまっていたようだった。

 すると橘大佐がすっくと室長デスクから立ち上がった。


「俺、メシに行ってくる」


 もう御園准将の腹立たしさも収まったかのように、落ち着いた大佐殿に戻った。


「雅臣、一緒にこい。俺の愚痴、聞いてくれよ」


 はあ……、しようがないな。彼の腹の虫も抑えておかないと、若い彼等に負担がかかるからここで取り除いておくか――と、雅臣は室長殿の後をついていく。


 だが、実際に『取り除いてもらう』のは、雅臣自身となった。

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