8.男の気持ち、だし巻き卵

 くしゃくしゃの制服姿のまま、覚悟を決めて心優がいるリビングへと雅臣は顔を出す。


 テーブルにはすぐに食事ができる準備が整っていた。しかも三人分。

 テーブルには心優がいなかったので、キッチンを覗いた。制服の上にエプロンをした心優が緑茶を入れているところだった。


「心優、ごめんな」


 情けない小声でいうと、キッチンにいる心優がこちらを見た。


「いいけれど。男のおつきあいもあるでしょうから。父も兄も体育会系、ガッツリ呑んで大騒ぎで帰ってくるなんて、よく見てきたから大丈夫だよ。ただ……」


 ただ……、だよな。そこが気になるよな? 雅臣も覚悟を決める。


「御園大佐とか御園関係の男達が行く飲み屋があるって聞いて。そこがどうしても気になって、シドなら知っているだろうと聞いてつれていってもらったんだよ」


「御園の男性達がいく飲み屋? そんなところがあるの」


 心優も初耳のようで驚いた顔を見せた。


「御園准将がいくショットバーではないの」

「全然違うところ。男の隠れ家みたいなところ。いや、屋台だった」


 屋台! 食べるの大好きな心優も目を輝かせた。


「すごくうまかった。そこの大将が心優も連れてこいって言っていたから、今度一緒に行こうな」


「ほんとに? 楽しみ」


 心優から抱きついてきたので、雅臣もほっとした。それでも心優は雅臣の胸に抱きつくと、すぐに不安そうな顔になった。まだ安心できなくて、雅臣も構える。


 どこか聞きづらそうにして何かを言おうとしているのに閉じてしまう彼女のくちびる。そんな顔をされると雅臣も申し訳ない気持ちが湧き上がってくる。


 遠くからシャワーの音。先に子供っぽく抵抗していたシドを『酒臭いと女の子から避けられるぞ』と説き伏せて風呂に放り込んでおいたので、彼はいまそこにいる。


 だから、その隙にと雅臣は抱きついてきた心優をそのまま冷蔵庫の扉に押しつけた。


「お、臣さん」

 彼女の頬に触れて、その顔を上から覗き込む。

 ちょっと戸惑っているかわいい猫の目がそこにある。

「俺、酒臭いな」

「平気だよ……」

「ただいま、心優」


 そっと心優のくちびるをふさいだ。酒臭いこと承知の上、でも雅臣はそのまま心優のくちびるを吸って遠慮なく口の中まで舌を忍び込ませる。


「っん……、臣さん……」


 時間が経った酒気と男の汗の匂いを彼女に押しつけて、吸わせている。それでも心優は、くたびれた制服姿の雅臣に強く抱きついてくれる。

 だから雅臣も自分より華奢で小さな彼女を、腕の奥深くまで抱きしめる。


 それでも、女はそれで許してくれるわけではない。心優はそれだけでは流してくれなかった。


「二人が一緒にここに帰ってきて、びっくりしたよ。だって、臣さんとシドて絶対に、お互いに近づかないと思ったから。部署も業務も空母艦に乗らなければ接点なんかないじゃない」

「気になっていたところに、ちょうどシドが通りかかったんだよ」

「御園のことなら、毎日一緒に訓練をしている鈴木少佐に聞けたんじゃないの?」


 鋭くて、逃げ道を徐々に塞がれて、雅臣は焦ってくる。それで、なんとか言い訳ようと咄嗟にでたのが――。


「シ、シド。俺がスワローだった時のファンだったみたいで……。その時の話を聞きたいっていってくれたんだよ」


 ものすごいハッタリだった。半分事実で、ファンで話を聞きたいなんて彼から言い出したというのは大嘘。だがそこで心優は。


「そうなの! でも、やっぱりそうだったんだ!」


 なんだかとてもしっくり納得したような驚き顔で、雅臣を胸元から見上げる。


「なんかね。わたしと臣さんのことは関わりたくないって顔をしたり、悪態ついたりすることはあるんだけれど。でも、城戸大佐はいざとなったらすごい男みたいなニュアンスのひとことを、ぽろりとこぼすことがあるんだよね。素っ気ないふりして、やっぱり臣さんのこと、尊敬しているんだと思う」


 あのトラ猫王子が人を尊敬している素直な姿なんか似合わない。そんなことあるわけない。でも、まあ。心優がそう感じたようなので、ひとまずそこに落とし込んでおくことにする。


「まあ、それで。スワローの話で盛り上がって男同士で呑んでいたら、酔っぱらちゃったみたいなんだよな」


 そこで雅臣はまだ抱きついている心優を、さらに胸元に抱き寄せる。小さな黒髪の頭をぎゅっと抱きしめた。


「ごめんな、びっくりしただろう。なんか、すげえ騒いで帰ってきたんじゃないかな」

「うん。すごく仲良く帰ってきたよ。肩を組んで軍歌を唄いながら帰ってきて『ああ、男同士なんだから』ってかんじだった」


 記憶にないとはいえ、自分がやったことが目に浮かんだ。若い頃から酔えばそんなかんじだったから。先輩達と呑むだけ呑んで、大声で騒いで寄宿舎や官舎に帰る。それが男の羽目外しだった。


「もうチャイムが鳴る前から、下で大声が聞こえて。でも、他のお父さん隊員もよくやっているでしょ。今日もどこかのお父さん達が羽目を外して帰ってきたのかなと思ったら、なんか唄う声がうちに近づいてきてチャイムが鳴った時は『え、うち!? 臣さんが!』て驚いちゃった」


 うわー最悪の帰り方だと雅臣は項垂れた。


「ということは。ここらへんのお父ちゃん達に聞かれていた、奥さん達に見られていたってことか」


「うん、ゴミ捨てに行ってきたら、さっそく言われちゃったよ。でも臣さん、御園准将のお気に入りで普段からきちんとしている爽やかな大佐さんだって奥さん達が言っているから、城戸大佐でもあんな男っぽく羽目を外すのね、うちの主人だけでなくて安心した――なんて逆に奥さん達ほっとしていたけれど」


「あー、そうなんだ。俺のそのイメージ、違っているのにな」


 心優がくすっと笑っている。


「だよね。お猿な臣さんだって、そのうちに奥さん達もわかってしまうかもよ」

「やめろよ。俺が猿になるのは、心優の前だけだろ」


 また心優を冷蔵庫の扉へと押し返して、雅臣は身をかがめて彼女のくちびるを探して、もう一度チュッとキスをしてしまう。


「もう、だめ。シドが出てきちゃうよ。臣さんは先に食べてよ。時間ないよ」

「はあ、仕方がない。今夜にとっておこう」


 今夜こそ、心優とゆっくり寄り添う夜を堪能しようと心に決め、雅臣は心優からやっと離れた。


 先にテーブルについて食事をいただくことにする。軍人生活そろそろ十八年、時間が限られている時の食べ方は慣れている。


「うまいよ、心優の和食の朝メシ」


 せっかく作ってくれたのだから、急いで食べてもそれぐらいは言っておきたい。


「臣さんの予備のシャツに、シドの大尉の肩章を付け替えたらいいんだよね」

「悪い。あいつも相当くしゃくしゃだったんだよ。連隊長秘書室の男がそれじゃあ駄目だろ。酔わせた俺も責任あるし」

「いいよ。わたしはもう食べちゃったから。臣さんも早くお風呂に入ってよ」

「まあ、俺はいまは汗まみれの現場にいるからいいかなとは思うけど。汗くさくて当たり前の世界だからな、最近、トワレとか興味なくなってきたしなあ」


「でもシャワーぐらい浴びていってよ。さりげなくトワレの匂いがする臣さん、うんと素敵だったのにー。室長だった時、そんな大人のビジネスマンみたいな臣さんに、わたし、すっごい憧れていたんだよ」

「わかった、わかった」

「もう~。お父さんみたいな言い方」


 若い心優に親父臭いと言われると、雅臣もドッキリしてしまう。最近、ちょっと気にする臣サン。


「臣さんがお父さんみたいに一から十まで男臭くなったら嫌だな、わたし。奥様達はほんとうに臣さんのこと『笑顔が爽やかな大佐さん、元エースパイロットで鍛えた身体でスタイルもよくて素敵。秘書室長だっただけあってビジネスマンみたいな身なりを心得ているし、三十半ばだなんて信じられない』なんて言ってくれているんだからね」


 一応、奥様達から見るとまだ若々しくみてもらえているらしい。


「御園大佐も季節ごとに、新しい自分の香水を探すらしいよ。大佐はもともと興味なかったけれど、葉月さんの従兄のお兄さんの影響で習慣になっちゃったんだって。そういえば、御園大佐もほんのりと香る時あるものね。すっごいこなれているんだよね。やっぱり大人だよね」


 なんだと。御園大佐は興味ない振りして、実はプライベートではきちんと男の嗜みを忘れていないというのか。あの人からそんな匂いしたことあるか、なんて、雅臣は密かに振り返る。それほどさり気なくつけていて、心優もちゃんと嗅ぎ取っている。女の子って敏感なんだなあと雅臣もその気になった。


「そうだな。訓練する時はともかく、制服の時はまたつけてみるか」

「ほんと、嬉しい。帰ってきた時に臣さんに抱きつくの楽しみ」


 いい匂いの大佐殿に抱きつくのが楽しみとかわいい顔で言われてしまい、もう雅臣は力が抜けてふひゃふひゃになっていきそうな気持ち。それこそ本当に鼻の下を伸ばした猿顔になっているのではないかと思う。


 心優は一生懸命に、夏制服の白シャツに、黒い肩章を付け替えている。


「シドも背が高いけれど、体格は臣さんとはちょっと違う気がする。合うかな、合わないかな……」


 他の男の体型を知っているのかよ。俺と比べているのかよ。海兵隊の青年に負けたくないなとまた複雑な臣サンに。


 そろそろ出てくるだろうと思ったら、ちょうどそこに上半身素肌で腰にバスタオルを巻いたシドが、奥のバスルームからリビングへと現れた。


「大佐、お先でした。すみません、いろいろお世話になって」


 急に礼儀正しい大尉に戻っていた。そして気後れした様子で、リビングのソファーで肩章を付け替えている心優へと見た。


「園田中尉にもご迷惑おかけしました」

「いえ、その。ずいぶんと楽しかったようなので、良かったですね」


 シドが礼儀正しいだけで、逆に妙にぎくしゃくした空気になっていた。


「あの、これ。大佐のアンダーシャツと制服ですけれど、今日はこれをどうぞ」


 心優がタンクトップの下着と、肩章を付け終えた白い夏シャツをシドに差し出した。


「大佐、中尉。お借りします。向こうで着替えてきます」


 素直に受け取って、男二人で酔いつぶれていた和室へと消えてしまった。

 心優がちょっと寂しそうな顔をしている。


「変なの。いつもはすごい悪態ついてくるのに」

「他人様の家だって分別がちゃんとついているじゃないか。連隊長秘書室の秘書官として、お邪魔しているという気持ちに切り替えたんだろ」

「プライベートで呑んでいたんじゃないの、男同士で」

「それは酔いつぶれるまで。その後は不可抗力で思わぬ状況になったから、シドもきちんとしてくれてるんだろ」

「なんか調子狂っちゃう」


 やっぱり心優はいつものシドでいて欲しかったようだ。

 味噌汁をいただきながら、雅臣はシドに心で感謝していた。『ちゃんと男としても弁えた姿を心優に示してくれたんだな』と。


 しばらくすると、雅臣のシャツを借りて着替えたシドがさっぱりした好青年の姿でリビングに戻ってきた。


「では、自分はここで失礼いたします」


 雅臣と心優はそろって慌てた。


「なんだよ。食っていけよ。昼までもたないだろ。遠慮するなよ」

「そうだよ、シド。ちゃんと食べていってよ。わたしのご飯じゃ満足できないだろうけれど」


 一応……とばかりに、心優が整えた食卓をシドが見渡した。


「心優。俺な、だし巻き卵はガキの頃から、エドがつくってくれたのがいちばんだから食えない。悪いな」


 いつもの心優に接している親しい口調に戻ったが、心優はショックを受けた顔をした。


「そんな、なんでも器用なミスターエドと比べられたら勝てないよ……」


 食べる前から『おまえの美味くないだろうから食わない』と言われてしまったのだ。

 そこは意地悪くても、シドの男としての意地だと雅臣にはわかってしまう。彼女が家庭でつくった料理はまだ食べることができないという男の気持ちだ。


「残念だな。わかったよ、シド。出勤後、隙を見てうまく腹を埋めろよ」

「イエッサー。昨夜はソニックと話せて楽しかったですよ。では失礼いたします」


 礼儀正しく一礼をすると、金髪王子はすっと玄関へと向かってしまう。


「心優、見送ってやれよ」


 それにも心優は驚きの顔を見せた。少しでも、シドと二人だけにしようと雅臣が許したからだろう。

 シドの為じゃない。心優が親しいお姉ちゃんとしてシドと話したそうにしていたからだ。


 シド、待って。


 心優が玄関へと彼を追いかけた。黒い革靴を履こうとしているシドになにか言おうとしている。


「シド、待ってよ。昨夜、屋台に行ったって本当なの」

「おまえ、旦那から聞いたんだろ。臣サンがそこに連れて行けっていうから連れていっただけだよ。御園のおっちゃんたちが良く集まるところなら行ってみたいって言い出してさ……。一人じゃ気の毒だから、ついていっただけだよ。なのにそこの大将にがんがんに呑まされちゃったんだよ」

「臣サンって呼んでいいのはわたしだけなんだから」


 そんな会話が聞こえてきて、雅臣はギョッとした。臣サンと呼んでいいのはわたしだけ――。そういってくれた彼女を見たいと、ちょっぴりだけドアの向こうを覗いてしまう。シドはシドでまたびっくりした顔をしている。


「あ、そう。しらなかったんで。じゃあ、城戸サン。……とアクロバットの話をしていただけ」


 話し合ったわけでもないのに。シドも上手い具合に『スワローの話で盛り上がった』としてくれた。これは本当に偶然。


 だから、やっと心優の溜飲が下がったようだった。


「シド、ソニックのファンだったんだ」

「めっちゃかっこよかったんだぞ。おまえの夫になろうとしているエースさんは」

「知ってるよ」


 その途端だった。シドが心優のおでこへと、自分の額を軽くこつんと当ててきた。


「悪かったな。騒がせて。じゃあな」


 キスではないけれど、シドにはそれに値する行為?

 一瞬とは言え突然の接触にびっくりしたのか、心優も何も言えない様子で唖然としていた。


 雅臣はまたドッキリ。あいつ、隙を突いて、しかも俺が叱れないような軽いスキンシップしやがって……と。

 シドからも一線はきちんと引いてくれたが、そういう上手い隙ついて、心優に触れようとしてるんだな。腹も立つが、なんだか男として切ない気持ちもわかってしまうからどうしようもない……。


「えっと。帰っちゃった」

「そうか」


 素知らぬふりをした。

 ひとまず、シドが恐れていた『そちらの赤ちゃんはどうするつもりという話をするために、実は会っていたんだ』――ということは知られずに済みそうだった。

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