6.上官(あの人)が泣いた日

 日暮れ、薄闇に紛れるようにして、男二人は警備口で待っているタクシーに乗り込んだ。

「はあ~、なんですかね。このスリル感」

 隣に座った金髪のシドは、タクシーに乗り込んでも妙に辺りを気にしている。


 これも海兵隊の性なのかなと思うほどだった。でも『スリルだ』と大きな身体を丸めているトラ猫王子を隣で見ているのはなかなか滑稽で、雅臣はつい笑ってしまっていた。


「若手ナンバーワンの海兵隊員がなにいっているんだよ」

「俺と城戸サンが一緒なんて、どう考えてもおかしいじゃないですか。しかも、まさかのあそこに連れていくことになるなんて」

「シドがそこがいいって言ったんじゃないか。他にないのか、本当に。いまから行くところが本当に行きにくいところなら、シドが行きやすいところでもいいんだからな」


 本当は、変なオジサン達の溜まり場にものすごく興味があるけれど。この御園ファミリーであるトラ猫がここまで嫌がると、雅臣もそれはそれで『そんなに嫌なところ?』と警戒してしまう。


「ダイナーなんて以ての外。寄宿舎にある倉庫バーは若い隊員達の騒ぎ場で、俺が行くならともかく臣サンが行くと若者がびっくりするし」


 俺、いつから若者じゃなくなったんだ――と臣サン密かにショック。でも、秘書官を必死にこなしている内にいつのまにか三十も半ばなったのも本当のことで何も言えない。


「ムーンライトビーチっていうショットバーは奥様が幹部と集う場で、ここは臣サンがお似合いだけれど、俺は子供扱いされるところで、Be my Lightというレストランこそ基地中の誰もが来ていて、俺達二人絶対に目立つ。あとの飲食店は軍人がいるだけで目立つ。あ、料亭があったな。連隊長御用達の……」

「あー、『玄海』という店か。パイロットだった頃、一度だけ葉月さんが連れていってくれたな。そこは敷居が高いな」

「でしょー。となると、この峠を越えた島の裏側にある漁村しかないんですよ。基地があるこっち側はまさに軍人がうろうろしているから」


 なるほど。基地の裏側、島の山をひと越えした海岸にある漁村か……と雅臣も納得した。


 そのタクシーがちょうど、峠を越えたところ。時間はそんなにかかっていない。だがタクシーでなければ来られないほどのところに、御園大佐はわざわざ行くのかと驚きだった。


 それほどに通ってしまう場所とは如何に。


 峠を越えるとすぐに海辺を走り出し、漁港へと辿り着く。タクシーが止まっただけで、雅臣はそこをみつけた。


「屋台?」


 赤提灯に『なぎ』と書かれている屋台が港でぽつんと営業している。


しょうさんという『大将』が、親父達の愚痴を聞いているってところっすかね。元は奥様がパイロット達と通っていたところみたいだけれど、いつからか御園の親父たちの集まり場みたいなんですよ」


 まさかの屋台! しかもまさに『親父が集まりそう』!

 タクシーを降りて、その屋台へと向かう。もう屋台にお似合いの親父さんがいる。タオルハチマキにジャージという姿の彼が、寸胴鍋の中身を怖い顔で覗いている。


「大将、久しぶりー」


 シドは既に顔見知りだからか、軽い調子で大将に声をかけた。


「おお、シドじゃねえか。任務から無事に還ってきたんだな。ご苦労さん」

「なかなか大変だったよ、今回は。あの奥様のお供も楽じゃないっすね、といいたけれど、なかなかやりがいがあったかな」


 トラ猫王子が少しだけ無邪気に見えたから不思議だった。その親父さんの顔を見ただけで、基地ではきついオーラを放っているシドが心を緩められる、そんな場所?


 タオルハチマキに不精ヒゲの大将が、シドの後ろにいる雅臣を見た。


「んー? 子猫にお友達か? お友達にしては、シドにはお兄ちゃんすぎる大人のお友達じゃないか」

「子猫っていうなよっ」


 ここでは、赤ちゃん扱いになるらしい。なるほど、おじさん達の縄張りという匂いがプンプンしてきた。そんな雅臣は落ち着いて大将に挨拶をする。


「城戸雅臣と申します。雷神の指揮を、御園准将から任されています」


 そういっただけで、大将がものすごく驚いた様子で後ずさるというあからさまな反応を見せた。


「あんたか! 葉月ちゃんを泣かしたパイロット。雷神のいちばん最初の、飛行隊長、リーダーだっただろ」


 葉月さんを泣かせたパイロット――という認識に雅臣は目を丸くする。


「泣かせたといえば、泣かせたような……。ですが、雷神のリーダーにと准将が抜擢してくれたというのは、自分のことです」

「そ、それ以上はいわなくてよし! つーことは、横須賀から来た『新しい大佐』だな」


 よく知っていてびっくりする。それ以上言わなくていいということは、雅臣が事故で雷神を去ったことも知っているようだ。


「そ、そうです。よくご存じですね」

「おっしゃー! やっと来たぜ、真のエースパイロット! 今夜はこれだな!」


 もう詳しく自己紹介をしなくても大将はなんでも知っているようで、雅臣の目の前にドーンと日本酒の一升瓶を置いた。


「えー、俺はワインがいいなあ」


 早速シドがむくれた。


「ワインなんてこじゃれたもんがほしい赤ちゃんは、峠を越えてアメリカナイズな基地に戻りな。こっちは昔っから日本なんだよ」

「じゃあ。おっちゃんの、おでんが食べたい」


 あのトラ猫王子が、だんだん子猫に見えてきて雅臣は目を擦りたくなってきた。


「よしよし。おまえ、よく来たな。今日は隼人君もこないんじゃないかな。純さんは仕事が明けないとこっちにはこないし、そうなるとジュールもお手伝いで忙しくてこないだろうな。エドはいまは横須賀にいるようだしな」

「マジで、よかったー。大佐とゆっくり話せる」


 なんだ、御園大佐はこないのか……とがっかりしてしまった。そこで雅臣は初めて気が付いた。俺、隼人さんに相談したかったのかもしれないと――。


「ほれ、大佐も座りな。まずはおでんでいいかな」

「はい。いいですね。まさか島暮らしで本格的なおでんに出会えるとは思いませんでした」

「おう、まずは新規ご来店のお祝いで、おっちゃんのおごりな」


 豪快な大将が、ガラスコップにとぷとぷと冷や酒を注ぐ。


「はー、親父くさ。俺、日本酒のクセがまだ慣れないんだよな」


 シドが面倒くさそうにガラスコップを持つ。


「だからまだ子猫ちゃんなんだよ。文句言うならこっちくんな」

「いただきます、大将」


 初来店サービスの一杯を手に取り、最後は年代が違う男三人、ひとまず『いらっしゃいませ、初めまして』の乾杯をした。

 さっそく出されたおでん盛りを食べたが、極上だった。


「うまい。こんなにうまいおでんを食ったの久しぶりだな」


 これは心優にも食べさせてあげたい――。そう思ったが、ここに来るのは確かに『気持ちが向かうかどうか』は難しそうな雰囲気だった。


 親父の店、御園が集まる、シドは子猫と子供扱い、基地の裏側で小さな峠を越えなくてはならない。

 だが、うまいおでんと、何も言わなくてもわかってくれている親父的な大将。そして静かに凪いでいる漁港。港も自分たちだけで静か……。


 ここで黙って酒を飲んで、うまいおでんを食べているだけで。それだけで、落ち着くような気がする。なるほど『男の場所だ』と雅臣もだんだんと親父達の気持ちがわかってきた。


「シド、葉月ちゃんは大丈夫だったか」

「んー、まあ。そこそこかな」

「そっか。いつまであの子は無茶するんかね。コックピットにいる時から、どこまでも自分を追いつめて」


 大将は自分の妹か娘を案ずるかのように、疲れた顔を見せた。


「大丈夫だって。今回は司令の配慮だったと思うんだけれど、旦那さんが途中で空母に配属されたんだ。高知沖で補給があったんで、その時に補給艦に乗って帰ったけれどさ」

「そうか。海東君もそこは心配だったわけだ」


 親父さんとシドのなにげなく続く会話。でも、雅臣はおでんのちくわを頬張りながら目を瞠っている。その、その、御園の極秘がつまった話をここで易々と。しかも壁もない野外で大丈夫なのかよ――という驚きだった。しかも親父さんなんでも通じているし、海東司令を『海東君』と呼ぶなんてどんな大物!


「司令も、御園と提携していないと困ること多いんだろ。そりゃあ、葉月奥様を大事に大事にしているよ」

「そうして葉月ちゃんも守ってもらっているわけだしな。ちょうどいいギブアンドテイクってところか」


 話の内容がわかりすぎるぐらいにわかるのに、雅臣は驚きすぎてまったく話に入れない不思議な状態。


 しかも雅臣がそれを聞いてもいい人物なのか、聞かせてはいけない人物なのか。そんな警戒も一切なし。それはつまり? 既に御園大佐やミスターエドから『城戸大佐という男はうちの仲間』と伝わっているということなのか? もう雅臣の頭の中はぐるぐる渦巻いている。


「シドも夢が叶って良かったじゃないか」

「は? 俺の夢? そんなもんないっつーの」

「なにいってるんだよ。おまえさ、子供の頃、『僕、日本に来たら忍者になる』て言っていたじゃないか」


 雅臣のとなりで、シドがコップ酒をぶっと噴いた。


「俺、おっちゃんにそんなこと言ったか?」

「言ったわ。かわいかったなあ。あんころのシドは、ママに連れられてここに来たことがあっただろう」

「うーん、覚えているけれど。俺、そんなこと言ったのか。マジか! うわ、恥ずかしい!」

「いまは、空母の艦長様を守る裏方の海兵さん。忍者みたいなもんじゃないか」

「やめてくれ、おっちゃん。そ、それ以上、俺がガキの時の話、大佐の前でしないでくれよ」

「あー、そうそう。城戸君、この子、時代劇の大ファンなんだよ。それで『僕、忍者になる』なんだよ。かわいいだろ」


 金髪青眼のフランス生まれの王子が、『時代劇の大ファン』。しかも子供の頃の夢が『忍者』。もう雅臣も駄目だった。『マジかよ!』とコップ酒片手に大笑いをする。


「わーっ! だからここに来るのいやだったんだよ! 初めてきた男にここまで俺のことを喋られるとは思わなかった!」


 『くそ、もう一杯!』と、シドが一気に飲み干したコップを大将に差し出す。大将もかまわずになみなみとコップに日本酒を注いだ。

 もう雅臣もおかしくて、おかしくて。まさか、こんなトラ猫王子が見られるとは思わなかった。


「だってさ。俺って、大人になったら日本の御園家を護衛することを前提に育てられたんだぜ。朝飯も納豆とか平気ででてきてさ。イタリアの離島だったんだぞ。なのに、納豆が当たり前に出てきて、エドにだし巻き卵とか食べさせられて。いまでは、どーしてだよう……。エドのだし巻き卵が『おふくろの味』になっちゃって泣けてくる!」


「すごい育てられ方してんな、シドは……。ミスターエドとかと一緒に暮らしていたりしていたんだ」


「うーん、まあ。母親も実業家なんで忙しい人だったから、黒猫の大人が必ず一人は俺と留守番をしてくれていて、みんなが俺の育ての親って感じっすかね。日本のことは黒猫の大人達に刷り込まれたようなもんですよ。時代劇のDVDをみて、日本の文化や歴史を視覚的に軽くまずは知るという感じでしたね。でー、俺、むっちゃ侍とか大好きになってしまったんですよ。着物の日本女性もめっちゃ憧れ。だから、アジアンビューティーとか、アジアンキュートな心優……」


 あっという間に酒で酔いが回ってきたのか、シドがそこでぽろっと『心優』とこぼした。そして、雅臣もギョッとする。


「もしかして……。シド。それで、日本女性が好みとか……」

「いうなー! 気が付いても、言って欲しくないっす! 大人の男なら、そこはスルーでしょ、臣サンっ」

「さらに、もしかして……。酒、弱い……」

「城戸君。もうそれ以上は、子猫のことはそっとしておこう。ま、こうしておけば、生意気なことも言わないで大人しいからな。ほい、シド、もう一杯行け」


 子猫をぐだぐだにして、大人しくさせて、こっちは大人の話をしようという大将の狙いにも雅臣は目を丸くするし、あれだけ生意気なトラ猫王子が、日本酒三杯でぐだぐだになったのにも驚くしかない。


 シドはもう本当に子猫のように、大人しくおでんを食べる男の子みたいになっていたので、雅臣も笑いが止まらない。

 大笑いして気持ちがスカッとしてきたせいか、楽しそうにしている雅臣を見て親父さんが感慨深そうにこちらを見つめている。


「城戸君とは、初めての気がしないんだよな。会うのは初めてだけれど……。なんつーか、葉月ちゃんが城戸君を手放した時の泣きようが異常だったもんで、印象的だったというか」


「え、葉月さんが俺のことで、ですか?」


 雅臣が知らない、上司だったあの人が泣いた日を、大将が語り始める。


「ああ、もう。事故で大事な大事な部下を失った、手痛く小笠原から追い出したて、ここで管巻いて呑んだくれてさ……。あの子がああなるのは滅多にないこと。隼人君と一度別れちゃったことがあって、その時に戻りたいけど戻れない、彼が好きだけれど近づけないという状態の時があってね。あのもどかしーい時に一度、呑んだくれてぶっ潰れて。結局、隼人君が迎えに来て面倒を見るという。それ以来じゃないかな」


 大佐嬢だったミセスと御園大佐が、一度別れたという噂は、若きパイロットだった雅臣も聞いたことがある。その後、ふたりがどうなるかというのも基地では注目されていた話題でもあった。


 そして雅臣も、大事にしようとしていた女性隊員を泣く泣く手放したことがある。いまはすぐそばにいるけれど、心優を手放してしまった時の痛手……。それを、葉月さんも、俺のために感じて、男と別れた時ぐらいの気持ちで、泣いてくれていたんだと初めて知る。


「隼人君からも聞いているし、デイブ……、えっとコリンズ大佐からも。そして、ブライアン、ミラー大佐からもな。誰の口からも、城戸君のことは聞いていてね……」

「そうでしたか。つらい事故でしたが、当時は大人になりきれず、上官の皆様には大変な迷惑をかけたと思っております」

「かけりゃ良かったんだよ。小笠原でさ。葉月ちゃん、その覚悟はしていたよ。でも、城戸君自身が空母搭乗に拒絶反応を起こしているのを目の当たりにしたのが、彼女に決意させたんだろうね。だってさ、彼女だって、拒絶反応……。知ってるんだろ?」


 ミセスのPTSDのことを暗に仄めかしているとわかった。この大将は御園ファミリーに等しい。雅臣もわかってきた。だから信じて、静かに頷いて返答する。


「本当は、城戸君の痛み。いちばん分かる人間が、その時の上官、葉月ちゃんだったんだよ」

「後で、わかりました。それも知らずに、先に知った部下だった彼女を引き抜かれた時、葉月さんを恨みました。俺から奪っていくのかとか、やっぱり俺はもう眼中にはない用なしで、まだ未熟な俺の部下なら伸びしろがあって育てられるとみせつけているのか――とか。だいぶ荒れました」

「まあ、知らなかったんだから仕方がないよな。そこは、葉月ちゃんもわかっていたと思う。そう思われて、恨まれて然るべき道を上司として選んだってことをね」


 だんだん、やるせない気持ちになってきた雅臣は、手元のコップ酒をあおった。


「城戸君をつっぱねる決意をするまですごく悩んだみたいだな。『あの子は、私と一緒になった。ある日突然、これこそ自分の生き甲斐、誇りというものを他人の憎しみを全身に受けて奪われた。その痛み、生半可なものではない。どうにも消えない。一生付き合っていく。だから、わかる。きっといま、あの子は空母にいたら駄目だ』と言っていたね。ほら、葉月ちゃんもヴァイオリンを奪われただろう。動けない手でヴァイオリンを弾けと言われるほど残酷なことはない。飛べなくなったのに、空に飛んでいく部下や後輩を心から応援できるのだろうか。否、私ならできない。だから、あの子は『いまは』空母から降ろすてね」


 雅臣は黙りこくる。あの時の、痛みに哀しみがぐわっと蘇ってきた。

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