せいけんお

木染維月

「私、『せいけんお』なのよね」


 彼女は、何の脈絡もなくそう言った。


 馬鹿みたいに暑い、わざとらしいくらいの夏の日だ。空は青く遠く、入道雲は白く光り、蝉たちは生命の最後を声高に叫び、そこかしこに生える草木の緑はあまりにも深い。こうして歩いているだけでも肌はじりじりと焼かれ、汗が吹き出てくる。

 生命そのものと言ってしまっても過言ではないような、溢れんばかりの生命たちで満ち満ちた季節――活力やら動力やら、そういったものに満ち溢れた季節。


 そんな、この季節を象徴しているかのような今日という日に、彼女はそう言ったのである。


「え、えーっと……性嫌悪、って言った? 僕は気にしないから大丈夫だよ、僕たちずっと清い関係を続け――」


「違うわよ」


 彼女は呆れたように僕の言葉を遮る。


「『せい』のりっしんべんが要らないわ。生きる死ぬの『生』の字で『生嫌悪』」


「生、嫌悪……?」


「そう、生嫌悪」


 ま、造語なんだけどね──彼女はさらりと付け足す。


 ……いやいやいや、ちょっと待って欲しい。そんなに堂々と造語だと宣言されても──しかも彼女ときたら、それ以上話すことはないとでも言いたげな、澄ました顔をしているではないか。彼女の唐突なのは今に始まったことでもないのだが、今日は些か言葉が足りなすぎやしないだろうか?


「も、もうちょっと詳しく説明してくれないかい? 悪いけど何が言いたいのか全然伝わらない」


「説明も何も……そのままの意味なのだけれど」


 困惑したように彼女がこちらを見るが、困惑したいのはこっちの方である。造語をそのままの意味だと言い張られても、造語なんだから彼女以外の人間が意味を知っている訳がないだろうに。


 ──生嫌悪。

 生を、嫌悪するってことだろうか。

 生きているものを、嫌悪? それとも――生きていることを、嫌悪?


「まぁでもそうね、感覚の話だし、理解できなくても仕方ないかもしれないわね――そう考えると言葉が足りなかった気もするし、もう少しちゃんと説明するわ」


 ……何やらいろいろと噛み合っていない気しかしないが、とりあえず説明をしてくれる意思はあるらしい。

 腑に落ちない部分は多々あるが、ここは黙って耳を傾けておくことにした。



「『生嫌悪』はね、この世のありとあらゆる『生』を酷く穢らわしく感じてしまう状態を表す言葉よ。造語だけど。自分の周りにある生命──他の人間や野良猫、虫、或いは草木に至るまで――そういうものが、とても穢いものに感じられてしまうの。ありとあらゆる『生』が私を取り囲んで、私を侵食して、私の居場所を苛んでいくように感じるのよ。生々しい例えをするなら、そうねぇ、一、二か月発酵させた生ゴミの袋が四方八方から迫ってきている感じ。汚いし触りたくないから逃げ出したいでしょう? でも逃げ場はどこにもないのよ、周囲は既に生ゴミで溢れ返っているからね。……でも、最も穢いのは周りの生じゃないの」


 ここで彼女は、一度言葉を切る。

 そして、ひとつ息をつくと――まるで使用済みの雑巾でも見るような目で、言った。


「自分が『生きている』という事実、それが穢らわしくて仕方がないの。穢いのよ。物凄く穢い。自分の身体の中にこんなものを宿しているなんて、吐き気しか催さないわ。今すぐこの穢いものを吐き出して、清潔な『死』になってしまいたい。生存に関わるもの全て、この体内に留まっていてほしくないの――内臓やら、食料やら、そういうの全部。貴方も、例えば生ゴミとか犬の糞とか、もしも手に持っていたら一刻も早手を離したいでしょう? 一刻も早く手を洗いたいでしょう? ……そんな、感覚なの」


 親の仇の話でもするかのような口調でまくし立てた後、ふと冷静になったようにそう吐き捨てて、それきり彼女は黙った。


 彼女の言っている意味は、詳しく説明してもらってもやっぱりよく分からなかった。分からない方がいいのだろうと思った。分かってしまっては、僕は彼女の隣にはいられないのだと──何となく直感的にそう思った。



「…………君は、死にたいの?」


 囁くような声量で、そう聞く。


 絞り出すようにして発した声は、掠れていた。


 否定して欲しかったのかもしれないし、案外そうでもなかったのかもしれない。僕と彼女はちっとも同じ感覚を生きていないのだと、何となくそれを理解してしまったがために、僕が知っている世界の言葉にして欲しかっただけなのかもしれない。或いはただ単に、彼女の嫌悪の対象が僕にも向いているかもしれないことが怖かったのかもしれないし、やっぱり彼女が死のうなんて思っているかもしれないことが一番怖かったのかもしれない。


 ただ、聞かずにはいられなかった。


「死ねないわ」


 彼女は僕の問いには答えず、それだけ言った。


 ──その日、僕らがそれ以上言葉を交わすことはなかった。

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