恋味タルトポワール
呼び鈴を押す手は流石に震えた。初めて家を訪ねたときとは比べ物にならないくらい。
今日はぽかぽかとあたたかい日だった。十月の頭、小春日和だ。
なので昨日とは違うミニスカートを選んで、でも昨日よりは短めのソックスを合わせた。
髪は志賀原の褒めてくれた、お団子ヘア。普段のツインテールより、ちょっと大人っぽい、と思う。
自転車で走るときから緊張していたけれど、空があんまり青かったのでそれにおおいに励まされた。空も太陽もぽかぽかとしていて、大丈夫だよ、言ってくれているようだったので。
「ああ、いらっしゃい」
「こんにちは」
思い切って呼び鈴を押すと、やっぱり志賀原は出迎えてくれて、そして笑ってくれた。
でもその笑顔がなんだか固い、と思ったので恵梨はちょっと不安になった。なにか悪いことを……振られるとか……言われたらどうしよう、と思ってしまって。
ううん、そんなことを思っちゃダメ。
恵梨は自分に言い聞かせた。志賀原だってきっと緊張しているのだ。だからきっと。
思いながら前回と同じように庭に自転車を停めさせてもらって、家の中へ招かれた。同じく洗面所を借りて手を洗って。
しかし通されたのはキッチンではなくリビングだった。
「今日、誰もいないからくつろいでくれ」
そう言われたけれど、かえって恵梨は緊張してしまった。
家に誰もいない?
なんだか漫画のようだった。そして漫画の中では、そう、いろいろと恋人同士がするようなことを……。
考えただけで頭の中が煮えてしまって、恵梨は自分の思考を全力で否定した。
いやいやいや、そんなこと起こるはずがないから。
志賀原くんはそんなひとじゃないから。
大体、恋人同士でもなんでもないんだから。
そんなつもりじゃないだろうから。
自分だけが意識してしまっているようで、すでに緊張で死にそうになっている恵梨を置いて、志賀原は「ちょっと待っていてくれ」とキッチンへ行ってしまった。
なんだろう、お茶でも出してくれるのかな。
どくん、どくんとうるさい心臓を抱えながら恵梨はそれを見送った。お客さんがきたのだから、お茶を出してくれるのはある意味当然かもしれない。
しかし、数分が経って戻ってきた志賀原が持ってきたのは、お茶だけではなかった。
大きなトレイ。そこに、大きなホールケーキが乗っていた。
多分タルトだ。
茶色のタルト生地の上には薄い黄色のフルーツらしきものが綺麗に並べられていて、中央にはミントの葉が飾ってあった。
ケーキ?
しかもこんなすごいケーキ?
恵梨はぽかんとしてしまった。
それをリビングのテーブルの上に置いて、志賀原はソファの向かいの椅子に座った。
「お待たせ」
「ううん……これ、志賀原くんが作ったの?」
ここに持ってくる時点で当たり前のことだったかもしれないが、つい聞いてしまった。あまりにケーキが立派だったもので。
「ああ。……口に合うといいけど」
「すっごくおいしそうだよ!?」
「そうか。ありがと」
食べる前からそれがとてもおいしいのはわかっていたので、恵梨はつい勢い込んで言ってしまった。
そのあと志賀原は、ナイフでケーキを切り分けてくれる。
立派なホールケーキを切ってしまうのはもったいない、と思うくらいケーキは綺麗だったのだが、切らなければ食べられないし、それに志賀原が作ったというこのとてもおいしそうなケーキを味わいたい気持ちのほうが強かった。
六等分して、ひときれを綺麗な花柄のケーキ皿に乗せてくれて、「どうぞ」と恵梨の前に置いてくれた。
「ありがとう」
次にひときれを同じ皿に乗せて、自分の前に置く。
「さぁ、どうぞ」
言われたので恵梨はごくりと息をのんだ。添えられたフォークを手に取る。
「いただきます」
ケーキの先端を少し切り取り、おそるおそる口に運ぶ。
おいしいのはわかっていた。
けれど、好きなひとの手作りだ。しかも多分、……自分のために作ってくれた、もの。
「……すごくおいしい」
味わって、飲み込んで、恵梨は言った。
「これ、洋ナシだよね? サクサクしてるのにやわらかさもあって、甘すぎなくてタルトのクリームにすごく合ってる」
あまりにおいしくて、緊張していたのも一瞬忘れた。ケーキのおいしさを勢い込んで口に出してしまう。
しかし視線をあげたとき。緊張は一気に復活した。「ありがとな」と言ってくれた志賀原の目が、とても嬉しそうでそして優しかったから。
「喜んでもらえて、嬉しい」
お礼のあとに言った。
「実はコンポートを仕込んでたんだ」
「え、これ、洋ナシのコンポートから手作りだったの!?」
恵梨はびっくりしてしまう。
てっきり缶詰だと思っていたし、ケーキを作るときにフルーツのコンポートなど作ったことはなかった。作り方すら知らないくらいだ。砂糖で煮込む、くらいしか知識がない。
でも確かに、このタルトに乗っている洋ナシのコンポートは、缶詰にはありえない新鮮さとサクサク感がある。
しかしこれほど驚いたのに、そんな驚きはささいなことだった。さらに上のことを言われたのだ。
「篤巳の誕生日に作ろうと思って」
先程の比ではなく心臓が跳ねた。顔だけでなく体まで熱くなってくる。
そういえば、あと数日で誕生日だ。前に志賀原にも話していた。
だから誕生日の?
ケーキ?
こんな、コンポートから手作りしてしまうような、スペシャルすぎるケーキを?
「でも誕生日を待ってたんじゃ、もう遅いってわかった」
志賀原がぽつりと言った意味はわからなかったけれど。
直後、恵梨はその言葉の意味だけではなくすべてを理解してしまう。
志賀原が家に呼んでくれた理由も、ケーキを作ってくれた理由も、そしてほかのことすらも。
視線をあげて、志賀原はまっすぐに恵梨を見つめてきた。
「篤巳が好きだ。ずっと前から」
一瞬、恵梨の心の中が空白になった。あまりの衝撃に。
しかしすぐに、じわじわと熱が生まれてくる。それはすぐに全身に回った。
一番熱いのは顔だったけれど。頬が熱くて、どのくらい赤くなっているかもわからなかったけれど、それにかまっているどころではなかった。
どくん、どくんと心臓がはっきりと跳ねるけれど、それは喜びに。
そこでやっと恵梨は自分の中に生まれた嬉しいという気持ちを自覚した。
こんなこと、夢ではないだろうかとまで思ったのだが、夢ではなかった。
「だから、その、……一昨日、篤巳に言われたろ。そのときオレ、心底後悔した。もっと早く言うべきだったって。篤巳がどんなつもりで言ったかはわからないけど、少なくとも『好きだ』って言葉は先に言いたかったって」
志賀原から言われてしまった。
あのとき自分が言ったこと。
思い出して違う意味で恥ずかしくなったけれど、それを何倍も上回るくらいに嬉しかった。志賀原の言ってくれたことのすべてが。
ごくりと恵梨は唾を飲み込んだ。喉は急速に渇いたようにからからになっていたけれど。
今、言わなくてはいけない。
今まで積み上げてきた勇気。
使うときが目の前にある。
「わ、……私も」
言う声はかすれてしまった。けれど、震える喉を叱咤して続ける。
「志賀原くんと同じ意味で、言ったよ。……好き、だって」
恥ずかしさに目をそらしたくなりながらも、見つめたままで言った。
見つめる先の志賀原の頬も、はっきり赤に染まっていた。きっとそれは、恵梨と同じ気持ちを抱いてくれているから。
今まで見てきた表情の中で一番近しいものだ、と思った。
「……ありがとう」
そのとき初めて、恵梨は知った。
誰かの心に触れること。
それは体に触れるのとはまるで違う。
体に触れるよりも熱く、心を満たしてくれること。
「オレと付き合ってくれるか?」
心に触れたと感じたことで、奇妙に緊張は落ち着いていた。
恵梨はただ「はい」と答える。それだけでもう、じゅうぶんだった。
「今日はありがとう」
帰り道。
今日は一人ではなかった。
志賀原が送ってくれたのだ。おまけに恵梨の自転車まで引いてくれて。
空色からオレンジ色になりつつあるひかりの下を、二人で歩く。
なんだかくすぐったかったけれど、緊張したけれど、今まで感じていた緊張感とはまったく違うものだった。なんとなく安心感もある、不思議な感覚。
気持ちも伝えた。
心に触れた。
片想いの『誰かを想う気持ち』とは少し違った、誰かを好きだという気持ちを知った。
それをくれたのが志賀原で良かった、と思う。
「タルト、おいしかった」
話の途中で恵梨が言ったことには、志賀原は笑った。照れたように。
「篤巳の名前に『梨』が入ってるだろ。だから洋ナシのタルトにしたんだ」
「……そうだったんだ」
今までだったらどくりと心臓が跳ねていただろうに、今のものはそれよりずっと小さかった。なんだか落ち着きすら感じてしまう。
「名前について考えたからかな。作ってる間、思ってたんだけど。……その、名前で呼びたいな、とか」
ためらった様子を見せたけれど、志賀原は恵梨を見て言った。
恵梨の顔が、ふっと緩む。
自分の名前。
「私も、そう呼んでほしいよ」
「そうか。じゃ、……恵梨」
とくりと心臓が跳ねたけれど、それは嬉しさに。
自分の名前を呼ばれてこれほどあたたかい気持ちになったことは、今までない。
そして、自分の名前に入っている『梨』。
以前、梨花が教えてくれたことがあった。
『ねぇ、梨の花の花言葉って知ってる?』
ああ、あのとき梨花と食べたのも洋ナシのタルトだった。
なんだか運命的にも感じてしまう。
梨の花言葉は、『愛情』。
そして志賀原が、……裕斗が作ってくれた洋ナシのタルト、タルトポワールは、たっぷり入った彼の『愛情』の味だったのだ。
(完)
恋味タルトポワール 白妙 スイ@書籍&電子書籍発刊! @shirotae_sui
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