お呼ばれパティシエ
「今日はずいぶんかわいいのね」
支度をして階段を降りていくと、お母さんがちょっと目を丸くした。
今日は髪型を頑張った。梨花に「こういうのはどう?」と提案してもらって、何度か練習したものだ。少し難しかったけれど一人でできるように頑張ったのだ。
その髪型は、サイドを三つ編みして、そして頭のうしろ、うなじの少し上でおだんごにした、ちょっと大人っぽいアレンジ。
どうしておだんごかというと、髪をまとめたかったから。
なぜならば。
「今日はお出かけだから」
言った恵梨に、お母さんは、ふふっと笑った。
「そうだったわね。恵梨が男の子とデートなんてねぇ」
「べ、別にデートとかじゃないから!」
からかうように言われて、恵梨はあわあわと手を振った。
確かに男の子と会うけれど、デートというのは付き合っているひととするものだろう。
別に付き合ってもなんでもないんだから、これはデートじゃないし。
恵梨としてはそういう主張だ。
「はいはい。失礼のないようにしなさいよ。これ、志賀原くんだっけ? のお母さんに渡してね」
お母さんは恵梨の慌てた様子をスルーして、小さな包みを差し出してくれた。
「……はーい」
スルーされた。
ちょっと不満を覚えつつも、これ以上は余計なことのような気がして恵梨は素直にそれを受け取っておく。
中身はお菓子だ。家で作ったものではなく、買ってきたもの。
家にお邪魔するのだから『手土産』がないと、とお母さんが言って買ってきてくれたのだ。
「じゃ、いってきまーす」
恵梨は包みをバッグに入れて家を出る。自転車を出して、乗った。
今日はデート……ではないけれど、お出かけ。
行き先はなんと志賀原の家だ。志賀原に「今度の週末、例の練習に付き合ってくれないか?」と誘われたのだ。
『例の練習』。
つまり『志賀原のお姉さんの誕生日をお祝いするプロジェクト』。
もともと「林間学校が終わった頃に一回作ってみたい」と言われていたのだ。ちょっと都合がつかないからと、少しだけ先送りにされていた。
おだんごも実はこのため。今日はお菓子作りをするので。
お菓子を作るときは、いつも髪をまとめている。もちろん髪の毛が入らないようにだ。
家ではヘアクリップを使っているけれど、ひとの家……しかも好きな男子の家でそれはちょっと格好が悪いかもしれない、と梨花に相談したのだ。
髪型だけでなく、服もばっちり。これも梨花が選んでくれた。
上はふんわりパフ袖のカットソーに、下はミニスカート。
今日はレギンスはやめた。普段はミニスカートには必ずレギンスかタイツを穿いていたのだけど。下着が見えるのが不安だからである。
でも今日は激しく動くわけではないから、スカートもめくれないだろうと思って、ソックスと合わせた。ちょっとこころもとないけれど。
自転車のときだけ気を付けないとなぁ、と意識して、恵梨は慎重にペダルをこいで教えられた志賀原の家へと向かっていった。
呼び鈴を押すだけなのに、すごくどきどきしてしまった。
志賀原の家について、自転車はどこに停めたらいいかわからなかったので、とりあえず家の前に仮駐車した。ドアの前に立って、ちょっと深呼吸する。
自転車に乗ってる間に髪型、崩れてないかな。
ちょっと不安になる。
触って確認したけれど、崩れている気配はなさそうだ。ちょいちょい、と前髪だけ直して、思い切って呼び鈴を押す。
ぴんぽん、と外まで小さい音が聞こえてきて、恵梨の心臓はどきどきとして破裂しそうになった。でも志賀原はあっさりと迎えてくれた。
「いらっしゃい」
ドアを開けて、恵梨を見て、笑みを浮かべてくれた。
「自転車できたんだけど……」
恵梨の言いかけたことは、すぐわかってくれたらしい。
「ああ。庭に停めるところがあるんだ。そこに停めて……」
案内してくれるのだろう、言いながらサンダルをつっかけて外に出てきてくれる。
わ、こんなところは学校じゃ見られない。
あまりに『日常』な志賀原の様子に恵梨はどきどきしてしまう。
さて、自転車も片付いたので家の中にお邪魔した。
志賀原の家はなんだかかわいらしかった。壁は薄い茶色で、絵や雑貨なんかがそのあたりに飾ってある。
「母さんがこういうの好きなんだ」と志賀原はちょっと気まずそうに言ったけれど、恵梨も慌ててしまった。
きょろきょろしてしまったのを知られてしまった。失礼だっただろう。
短い廊下を抜けて、リビングにお邪魔するとそこで志賀原のお母さんが迎えてくれた。
志賀原のお母さんは、かわいらしい家の中を作る人だけあって、ロングスカートを穿いて髪も長い、美人というよりはかわいらしいひとだった。もちろん顔立ちは志賀原に似ている。
「いらっしゃい」
お母さんにも挨拶されて、恵梨は、ばっとお辞儀をした。
「お邪魔します!」
あまりに大きな声だったからか、志賀原のお母さんにくすっと笑われてしまう。
「裕斗のお友達は、かわいらしい子ね」
志賀原の下の名前を呼んだ。
お母さんなのだから当たり前なのだけど、あまり耳にする機会はないので、恵梨はどきどきした。特別な場所なのだと思ってしまって。
「え、えっと……これ、あ、『つまらないものですが』」
お母さんにそう言うように言われていた言葉、『つまらないものですが』と共に、バッグから取り出した包みを差し出す。
「まぁまぁそんな、お気遣い」
志賀原のお母さんは、くちもとに手を当てたけれど、手を出して受け取ってくれた。
「でもありがたくいただくわね。ありがとう」
中身はお菓子だと聞いていたけれど、お母さんが選んだのでどんなお菓子か恵梨は知らなかった。でも気に入ってもらえるといいけど、と思う。
「ほら母さん、もういいだろ。篤巳、台所こっち……あ、まず手を洗わないとか」
なんとなく気恥ずかしそうに志賀原は言って、奥を指さしたけれど、すぐに言った。
そうだ、自転車で外を走ってきたのだし、そうでなくてもお菓子作りの前には、手をきれいに洗うのが基本。
洗面所できれいに手を洗ったら、今日の目的。お菓子作りのはじまりだ。
台所はシンプルで、そして清潔だった。設備も整っているようだ。
ガスコンロは三口あるし、大きなオーブンもある。志賀原のお母さんもきっと料理が好きなのだろう。
そうでなければ志賀原や志賀原のお姉さんも、お菓子作りが好きにはならないと思う。
そしてテーブルにはすでに、材料や道具が並んでいた。
「なにが要るものがあったら買ってくるよ」と恵梨は数日前に聞いたのだけど、「いや、手伝ってもらうんだからオレが全部用意するよ」と志賀原は言った。
そして付け加えた。そこは学校の廊下だったので小声ではあったが。
「たまにスーパーに買い物に行くんだ」
「普段は母さんが小麦粉とか砂糖とか買っておいてるんだけど、たまに足りなくなるから」
そのふたことで、恵梨はずいぶん前のことを思い出した。
まだ春のこと、梨花と初めて一緒に遊びに行ったときのこと。
途中、志賀原を見かけた。スーパーに入っていくところだったので「お母さんのおつかいかな?」と梨花と言い合った。
そのときのそれも、もしかしたらおつかいではなく自分で使うお菓子作りの材料を買いにいっていたのかもしれない。
あれ、そんな些細なことを覚えているなんて、あのときからもしかして志賀原を気にしていたのだろうか?
思い出してなんだかちょっと恥ずかしくなった。
「今日、姉ちゃんいないんだ。見てのとおり、母さんはいるけど」
小麦粉の袋を開けながら志賀原が言った。それは使いかけのようで、すでに開封されて輪ゴムで留めてある。
「でも夕飯までには帰ってくるって言ってたから、早めに片づけたいな」
「そうだね」
答えながら恵梨は理解する。
なるほど、今日はお姉さんがいないから誘ってくれたわけね。
まぁ当たり前ではあるだろうが。
お姉さんご本人がいらしたら、きっとバレてしまうだろう。サプライズとして用意するのだからバレては元も子もない。
「今日はまとめてるんだな」
不意に志賀原が言ったことがなにをさしているのか、すぐにはわからなかった。
志賀原の視線を追って、理解する。髪型のことだ。
「あ、う、うん! お菓子を作るときはまとめるから」
あわあわと言った。気付いてくれるといいなと思ったけど、本当に褒めてくれた。胸が嬉しさにざわつく。
「ああ、そうだよな。母さんもそうだ。長い髪は結ばないとか」
志賀原は「納得した」というように言った。
確かにさっき会った志賀原のお母さんもロングヘアだった。あの髪を、料理するときには結ぶというのを見ているのだろう。
「でも、まとまってるだけじゃなくてかわいくもあるな」
今度こそはっきり心臓が跳ねた。
かわいい、と言ってもらえた。
それは『気付いてくれた』より一段上の褒め言葉だと思う。
「あ、ありがとう!」
恵梨が嬉しそうだったのもわかってくれただろう。志賀原はにこっと笑った。
「篤巳はいつもいろいろアレンジしてて、すごいと思うよ」
小麦粉や砂糖の袋を開封していく作業に戻りながらも、また褒めてくれる。
「え、えっと、梨花がいろいろ教えてくれるから……」
「でも自分で結ぶんだろ、それ。服とかも、篤巳も高村もオシャレだしなぁ」
オシャレと言ってもらえたけれど、髪型を教えてくれたのも服を選んでくれたのも梨花なのだ。
梨花に報告しないと、それでお礼をしないと。
次に梨花に会ったときの、嬉しい話題が決まってしまった。
「よし、じゃあはじめようか」
話しているうちにテーブルの上にすべての材料がセッティングされる。志賀原が言って、作業ははじまった。
レシピはすでに決まっていて、何回かイメージトレーニングして予習をしていた。
志賀原と何冊か本を読んだり、ネットで検索したりしていくつもの中から、作りやすそうでおいしそうで、また、手持ちの道具で作れそうなものを選んだ。
最終的に決めたものは本で見たのだが、お菓子作りをするかたわらに置くのだから、小麦粉なんかが飛んだりして本が汚れてしまうかもしれない。なのでコピーを取っておいて、その紙がテーブルの上に乗っていた。
作ると決まったのは『フロマージュ』だ。オシャレな名前のそれは、何回か食べたことがある。
レモンの香りが爽やかでおいしい、チーズケーキの一種。
フロマージュに決めた理由はふたつあって、「姉ちゃん、チーズケーキが好きなんだ」と「夏だから冷たいお菓子がいいと思う」だった。
チーズケーキにもいろいろとある。焼いたベイクドチーズケーキ。
やわらかなレアチーズケーキ。
そしてフロマージュはレアチーズケーキのひとつに分類されている。
かわいらしい名前の『フロマージュ』というのはフランス語だそうだ。フランス語で『チーズ』を意味するのだと書いてあって、恵梨も志賀原も初めて知ることだったので、感心してしまった。
「てっきりお菓子の名前だと思ってたよ」と志賀原は言ったし、恵梨もそう思っていた。
フロマージュはレシピを見たときから思っていたが、ちょっと難しいようだ。
厳密には相当難しい作業はないのだが、とにかくやることが多いのだ。その順序と分量を間違えないことが大切。
まずは材料を測る。
お菓子作りで一番大切なのはこの『材料計測』といっていいかもしれない。
料理は極論、計測はざっくりでもいいのだ。多かったり少なかったりしても、多少であればそれほど影響はしない。
でもお菓子作りはそういうわけにはいかない。少しの誤差で失敗したりしてしまう。
恵梨もお菓子作りははじめ、お母さんと一緒にした。そのときに「レシピどおりの量にしっかり測ることが失敗しないコツよ」と教わったのだ。
必要な材料は、クリームチーズにレモン、そして当たり前のように小麦粉や卵、砂糖などといったお菓子作りに欠かせないものも。
「オレはチーズやバターを測るから、篤巳は砂糖とか小麦粉とかの粉のほうを頼んでいいか」
「わかった!」
志賀原が取り出したのは包丁。
バターは大きなかたまりなので、包丁で切り分けてはかりに乗せなくてはいけない。
危ないからって、気遣ってくれたのかな。
なんだか嬉しくなった。
恵梨ははかりにボウルを乗せる。材料を入れる前にボウルを乗せておくことで、ボウルの重さを引くことができるのだ。電子はかりはそれが便利なところである。
表示されている数字が0になっていることを確認してから、慎重に袋から小麦粉を入れていく。
乱暴にすると、粉が散ってそのあたりが大惨事になってしまう。そうすると掃除が大変なのだ。
慣れない頃に何回かやってしまったことがあるけれど、今はひとの家なのだから、余計に気遣わなければいけない。
小麦粉を測って、砂糖を測って、恵梨が先に終わったので卵の準備も担当した。
卵は卵黄と卵白に分けなければいけない。卵を割ってボウルに入れて、そこから卵黄と卵白に分けて……。
「え、片手で割れるのか?」
そこで恵梨の手つきを見て、志賀原が目を丸くした。
「うん、練習したの。このほうが早いから」
お菓子作りのほかにも、卵は料理にも使うことが多い。玉子焼きやオムレツや……お母さんの手伝いで使うことが多いので、お母さんに教わって練習した。
「マジか。オレはそれ、できないな。今度教えてくれよ」
「いいよ、そんな難しくないから」
教えてほしいと言われるのは嬉しい。恵梨の答えは明るくなってしまった。
「篤巳は作るの、慣れてるんだなぁ」
「そんなことないよ。志賀原くんだってスムーズだし」
「まぁ、それは……さんきゅな」
今度は恵梨が褒めると、志賀原はちょっと照れたような顔になる。
あ、これはなんだかかわいいかも、なんて恵梨はあたたかい気持ちを覚えてしまった。
さて、材料計測も無事に終わって、やっと実際の工程に入っていく。
まずはチーズを練ったり、バター練ったりという基本から。そこへ少しずつ材料を足していく。
ボウルはひとつしかないし、泡立て器(電動泡立て器だった)もひとつしかないので、どちらかが持って、どちらかがサポートすることになる。
志賀原は「オレがボウルを押さえて混ぜていくから、篤巳は材料を入れてってくれるか」と言った。そのほうが効率的なので、恵梨はうなずく。
ヘラを使ったり、泡立て器を使ったりと道具を変えながら混ぜていったが、恵梨はどきどきしっぱなしだった。
だって、なにしろ距離が近い。数十センチしか離れていないのだ。
そうしなければ材料が入れられないし、こぼしてしまう危険があるので当たり前ではあるのだが。
なるべく志賀原に寄って、ボウルに卵や砂糖などを入れなければいけなかった。でも志賀原は気にした様子もなく、真剣な顔でボウルの中を見つめて混ぜていっている。
どきどきしているのは私だけなのかなぁ。
そんな気にすることじゃないのかなぁ。
恵梨は思ったが、だといってもどきどきしてしまうのはどうにもならない。
やっとすべて混ぜ終わり、二人して、ふぅ、と息をついてしまった。
混ぜるだけとはいえ、道具を持ち換えたり、混ぜ方にも気を使った。
『しっかり混ぜるとき』や『ふんわり混ぜるとき』などと、入れる材料によって道具も混ぜ方もまるで変わってくるので。
おまけに『あらかじめ卵白だけ泡立てる』などという工程まである。混ぜるだけでも三十分以上はかかってしまっただろう。
「よし、型に入れて焼こう」
やっとここまできた。
志賀原が用意してくれていた金属の型に、ボウルに入った完成した生地を入れていく。とろとろと落ちていく生地は、焼く前だというのに既においしそうだった。
「いい香りだね」
「ああ、レモンがさわやかだ」
型に入れたものの、このまま焼いてはただのベイクドチーズケーキになってしまう。
レアチーズケーキは少し特殊で、ボウルにお湯を入れてその中に型を浸けながらオーブンに入れて焼く。
そうすることでレアの焼き上がりになるのだ。『湯煎(ゆせん)焼き』というらしい。その準備をしっかりして、オーブンの中へ。これであとは待つだけだ。
「よし。少し待とう」
オーブンへボウルと型をセットして、志賀原が振り向いた。ほっとしたような顔をしている。
とりあえずひと段落だ。まだ仕上がってはいないものの、恵梨もほっとした。
「これで待つだけだね」
そう、焼けたら冷やすだけなのだ。うまく焼ければ成功したも同然である。
「ああ。待つ間にお茶でも飲もうか」
洗った手を拭きながら、志賀原が棚からポットを取り出した。
「え、いいの?」
「当たり前だよ。紅茶でいいか」
「うん、紅茶好きだよ」
志賀原の紅茶を淹れる手つきは慣れ切っていた。お湯を沸かして、茶葉を入れて、蒸らして完成。
紅茶が入るのを待ちながら、恵梨はその様子をつい、じっと見てしまった。
てっきりティーパックだと思っていたので驚いたのだ。
同い年の男子がこうもスムーズに紅茶を淹れるところは初めて見た。志賀原はこういうことも得意なのだ、と知ってしまって。
でも当たり前かもしれない。おいしいお菓子には、ちゃんと入れた香り高い紅茶が合うから。
そのあたりもこだわるんだなぁ。
お菓子を作るだけでなく、あわせるお茶もしっかり作るのはさすがだと思った。
「はい、どうぞ。砂糖は要るか?」
台所のテーブルにお邪魔した恵梨の前に、かたりと置かれたのも、マグカップではなくティーカップだった。
自分の家でメインで使っているのはマグカップなので、むしろ自分の家よりすごいかもしれない、と恵梨はまた感嘆した。
『お客様に出すもの』だからかもしれないが。恵梨の家でもお客さんにお茶を振舞うときはそうするので。
「ううん、そのままでいいよ。ありがとう」
言った恵梨に、志賀原はなんだか嬉しそうな顔をした。
「紅茶はストレートが好きなのか?」
恵梨はそのままうなずく。
「うん。ミルクティーとかも飲むけど……お菓子と一緒のときはストレートが好き」
「あ、そうだよな。お菓子が甘いから、甘くない紅茶が合うよな」
志賀原はもっと嬉しそうに言った。自分と同じなのが嬉しい、というのが表情に浮かんでいた。
恵梨ももちろん嬉しくなる。自分なりのこだわりを志賀原が言ってくれたので。
そのあともケーキが焼けるのを待つ間、何気ない話をしていた。
志賀原の家……緊張して当然のところ……に居るというのに、恵梨はいつものように志賀原と話せてしまった。
それがなんだか不思議だったけれど、理由はなんとなくわかった。一緒にお菓子を作ったからだ。共同作業をして、距離が近かったからだろう。いまさらだ。
そして思った。
『いまさら』なんて思うくらい、近くにいたなんてすごい。
持ち掛けられたときはちょっと臆してしまったけれど、一緒に作れて本当に良かった、と思う。もちろんこれは練習であり、本番はまだ先なのだけど。
「おいしいね!」
「ああ。すっごいうまい」
フロマージュは大成功だった。
ぱくりとひとくち食べて、恵梨も志賀原も顔を輝かせてしまった。ふんわりやわらかく、レモンの味と香りがさわやか。
焼き上がって、冷蔵庫で冷やして。
あまり時間がないのでしっかり冷やしきるまでいかずに、まだほんのりあたたかさは残ってしまっていたけれど。でももう少ししたらお姉さんも帰ってきてしまうだろう、仕方がない。
「ありがとう。篤巳が手伝ってくれたおかげだ」
志賀原はフロマージュが成功した嬉しさからか、明るく言ってくれた。
そのとおりかもしれないけれど、そう言われるとなんだかくすぐったい。
「ありがとう。でも志賀原くんが頑張ったからだよ」
「いや、オレ一人だったらもっと手間取ったと思うし」
そんなやりとりをする近くには、志賀原のお母さんもいた。
『お裾分け』である。
台所はある意味、志賀原のお母さんのものである。台所だけではなく道具もなにもかも。そこを貸していただいたので、志賀原が「母さんも食べなよ」と言ったのだ。
志賀原のお母さんと一緒に食べるのは緊張したけれど、「おいしいわ」とひとくち食べたお母さんも褒めてくれたので、恵梨はちょっと誇らしかった。
作った自分たちだけではなく、ほかのひとにも褒めてもらえたので、『自作した補正感情』だけでなく、本当においしくできたのだろう。
フロマージュの試食が終わる頃にはもう夕方だった。
志賀原が「もう片付けないと。そろそろ姉ちゃん帰ってくる」と食べ終わった皿などを台所に運ぶ。恵梨も当然のように手伝った。
「姉ちゃんには内緒だから、悪いけど食べさせられないな。余ったから、篤巳、持って帰ったらどうだ?」
志賀原が言ってくれて、恵梨はちょっと驚いた。てっきり志賀原の家で、志賀原のご家族が食べると思っていたので。
「え、いいの?」
「ああ。ウチにあって姉ちゃんにバレるほうが困るから頼むよ」
ああ、確かにそれは困る。
冷蔵庫に入っていたら見つかってしまうかもしれない。
なので恵梨はお言葉に甘えて、いただくことにした。
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて……」
「帰って、もっとよく冷やして食べて、それでその感想聞かせてくれ」
食べた皿を洗いながら、志賀原とまた普通の会話をした。
「篤巳の家族は何人なんだ?」
志賀原が洗った皿を受け取って、恵梨がふきんで拭く。志賀原の質問に何気なく答えながら。
「お父さんとお母さんで、私を入れて三人だよ」
「そうなのか。……初めて知ったな」
「そういえば、そういう話をしてなかったね」
いろいろ話したと思ったけれど、まだまだ知らないことはたくさんあるのだ。
今日来られてよかったし、またいろいろ話せたらいいな、と恵梨は思う。
「一人っ子は気ままそうでいいよな」
志賀原の言う声は不満そうだったので、恵梨は言う。
「え、私はお姉ちゃん欲しかったよ。梨花もお姉ちゃんがいるんだけどさ、いろいろおしえてもらえるみたいだし……」
「でも姉ちゃんいると、あれそれ比べられるからさ」
「あ、それは聞いたことあるかも」
そんな話をしながら片付けも終わって、そしてフロマージュは志賀原のお母さんが包んでくれた。
「おうちの方によろしくね。お土産もありがとうございましたと伝えてね」
「はい! じゃ、そろそろ」
恵梨のほうもそろそろ家に帰らなければいけない時間だったのでそう言ったのだが。
そのとき「ただいまー」と声が玄関のほうから聞こえた。
あ、きっと志賀原くんのお姉さんだ。
察知した恵梨は、サッと自分のバッグにフロマージュの包みを入れる。
志賀原がそれを見て、ほっとしたような顔をした。
すぐにリビングのドアが開いて、お姉さんが入ってきた。
初めて見る、志賀原のお姉さん。ずいぶん背の高いひとだった。
志賀原の身長はクラスの男子の中では普通くらいなのだが、お姉さんは同級生の中でも背の高いほうなのではないかと思わされた。すらりとしていて、カッコいいひとだった。髪もショートヘアだ。
「あー、疲れた……お茶ある?」
当たり前のように言ってから、恵梨の存在に気付いたらしい。
「あら……お客さん」
「お邪魔してます! 志賀原くんと同じクラスの篤巳です」
お姉さんに見られて、恵梨はどきんと心臓を高鳴らせながら自己紹介とお辞儀をする。
なんとなく、言われそうなことはわかっていたのでどきんとしてしまったのだ。
恵梨を多分、頭の先からつま先まで見て、お姉さんは、にやっと笑う。その笑顔は志賀原とよく似ていた。
「彼女を連れてくるなんて、裕斗のくせに」
ああ、やっぱり言われてしまった。
恵梨の顔が熱くなる。
そしてそれは志賀原も同じだったらしい。焦った声で言う。
「いや違うから!」
「そうなの?」
そのやりとりは、志賀原のお母さんが止めてくれた。
お母さんもそう思っていたかもしれない、とは思うのだが。口に出さずにいてくれたのだろう。だって男子が女子を家に呼ぶのだ。
そう誤解されても仕方ないと思う。
「美斗(みと)、からかうんじゃないわよ。恵梨ちゃん、今日は遊びに来てくれてありがとう」
志賀原のお母さんはお姉さんの名前を呼んで、それから恵梨に言ってくれた。
そう、帰るところだったのだ。
「恵梨ちゃんっていうのね。またきてね」
お姉さんもその話はやめて、言ってくれた。今度は優しく笑って言ってくれる。
「はい、お邪魔しました」
そのまま三人に玄関まで送られた。志賀原だけは外に出て、自転車を道路へ出すのを手伝ってくれる。
「篤巳、今日はありがとう。また月曜にな」
「うん、またね」
何回も言ってくれたのに、まだ「ありがとう」って言ってくれた。
帰り道はとても楽しい気持ちだった。自転車で走るときは周りに気を付けなければいけないので集中していたけれど、それでもいろいろと考えてしまう。
お菓子作りは楽しかった。成功もした。おいしかった。
それに。
カノジョ、って誤解されちゃった。
志賀原の家でそう言われるかもしれないと覚悟はしていたけれど、やっぱり。
彼女。
本当になれたらいいのにな。
きれいな夕暮れのオレンジを見ながら、恵梨はくすぐったくもあたたかい気持ちで自転車を飛ばした。
二人で作ったフロマージュはその晩の恵梨の家のデザートになって、お父さんもお母さんも「おいしい」と褒めてくれたのだった。
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