衝突
「え? 私が火の巫女?」
先生……五年三組の受け持ちの柚木(ゆずき)先生に言われて、恵梨は戸惑った。
柚木先生は中年の女の先生だ。優しいと評判だったので、受け持ちになったときは嬉しかった。
その柚木先生が恵梨に「林間学校のイベントで火の巫女をやってみない?」と声をかけてきたのだ。
『火の巫女』というのは六月にある林間学校でやるキャンプファイヤーのイベントの役割のひとつ。その名前のとおりキャンプファイヤーに『火』をつける役目の女子だ。クラスから一人ずつ選出される。
そういう役目があることは上の学年の子に聞いて知っていたけど、きっと学級会とかして立候補とか推薦で決めるんだろうな、と思っていた。そしてそういう学級会があっても立候補しようとなんて思わなかったし、もちろん推薦されるなどとも思わなかった。だから個人的に声をかけられるなんて思わなかったのだ。
放課後の職員室だった。
職員室に呼ばれた時点で恵梨は疑問を覚えていた。別になにか悪いことをした覚えはない。
恵梨は成績もなかなかいいほうだったし、悪戯をするタイプでもない。怒られる心当たりなんてなかった。
でも、呼ばれた時間に柚木先生のところへ行った恵梨に提案されたことはそんなことで。柚木先生は、いつもどおりの明るい顔でにこにこと言ったのだ。
「篤巳さんは背も高いし、たいまつを持っても映えると思うの」
言われて更に恵梨は腰が引けてしまった。
そうだ、キャンプファイヤーに火をつけるということは、たいまつを持つのだ。
当たり前のように火がついているのだ。
それを持つと考えただけでもちょっと怖い。
「火は苦手?」
柚木先生に聞かれて恵梨はためらった。ここで「苦手です」と言っておけば「それならやめておきましょう」と言ってもらえるだろう。けれど恵梨は嘘をつくのは苦手だった。
「……そ、そんなには……」
本当のことを言ってしまって後悔した。
ああ、嘘でも言っておけばよかったのに。
でも先生に嘘なんてつけない。両方のことから恵梨がおろおろしている間に柚木先生は続けた。
「だったら挑戦してみない? みんなの前で、ちょっと挨拶をして、キャンプファイヤーに火をつけるの」
言われて、恵梨は「やっぱり、ちょっと……」と言いかけたのだけど、その前に柚木先生が言った。
「篤巳さんは、ちょっと引っ込み思案なところがあるわよね」
恵梨は黙ってしまう。本当のことで、おまけに自覚があったので。
「そういう、人前に立つような役目をしてみることで、いい方向に成長できるかもしれないと思うの」
優しく柚木先生が言ってくれたことに、恵梨の気持ちは動いた。
そういう役は今までやったことがない。
委員長などの役目もやったことがないのだし。
それに五年生のクラスに入ったときからそうだったのだ。初めてクラスに入るときもおずおずとしてしまったくらい。
そんな自分が成長できるきっかけになるなら。
ごくりと唾を飲んで、恵梨は頷いた。
「や、やってみます!」
答えた恵梨に、柚木先生は嬉しそうに笑った。
「ありがとう。頑張ろうね」
「はい!」
職員室を出ながら恵梨の胸の内は高揚していた。まだ火も持っていないのに火がついたように。
ちょっと怖いけど勇気を出してやってみよう。
変わるんだ。
それに巫女は簡単な衣装が着られる。お正月に神社で巫女さんが着ているような赤い袴だ。
あれ、かわいいと思ってたんだよね。
そんなこともあって少し楽しみにもなってしまった。
その数日後、クラスのホームルームで林間学校の話題が出た。
森の中を歩くウォークラリー。
泊まる施設でやる予定の陶芸体験。
そして夕ご飯のカレー作り。
楽しいことが盛りだくさんの林間学校。
クラスのみんながみんなわくわくしながら先生の話を聞いてたまに意見を言った。そして話題はついにキャンプファイヤーの話になって柚木先生が言った。
「火の巫女ですが、篤巳さんにやってもらうことに決まりました」
決まっていたのに恵梨はどきんとしてしまう。
発表された。
クラスのみんなに知られてしまった。
もうあとには引けない。
「先生の推薦です」と柚木先生は説明してくれて「えー」「やりたかったー」という声がいくつかあがったけれど、最終的には納得してもらえたようだ。
話題はそのまま次のカレー作りの工程の説明に移っていって、恵梨はほっとしたのだけどほっとしている場合ではなかったのだ。
ホームルームのあとはもう放課後だった。掃除をしたら今日は委員会などの用事もないので、みんなすぐに帰れる日。
「帰ろー!」
恵梨と梨花と、同じ方向へ帰るグループの美里がランドセルをかつぎながらやってきたけど、梨花は、ふいっと顔をそむけた。
「私、ちょっと急いで帰らないとだから。先に帰る」
「そうなんだ? じゃあ、また明日ね」
恵梨はそう言ったのだけど。梨花はなにも返事をしてくれなかった。
そのとき初めて恵梨は気付く。
掃除の時間も担当は一緒だった。廊下の掃除だ。
でも梨花はその間、恵梨となにも話してくれなかったのだ。
恵梨はそのとき気付かなかった。掃除に一生懸命になっていたので。
梨花はそのまま一人で出ていってしまった。
なんだろう。
恵梨は不思議に思って、そしてなんだか寂しくなった。梨花の言った、「急いで帰らないと」というのはなんだか言い訳のようだったので。
「梨花、どうしたんだろうね?」
美里も梨花の様子がちょっとおかしかったと思ったらしい。恵梨を見て、そう言った。
「わかんない……」
恵梨は梨花の出ていってしまった教室のドアを見つめた。
なんだか嫌な予感がした。
それまでずっと仲の良かった梨花が初めて、恵梨に冷たい態度を取った瞬間だったので。
そして嫌な予感は当たった。
翌日体育の時間に恵梨はいつものように「梨花! 一緒にやろう!」と梨花を誘った。その日はサッカーのパス練習で二人組を組むように言われたのだ。
二人で組むときは毎回梨花と組んでいた。なのに梨花は恵梨と目も合わさずに言った。
「ごめん。今日は美里とやる」
「え?」
驚いたのはむしろ声をかけられた美里だったようだ。不思議そうな声を出した。
そこでとりなすように「じゃ、恵梨は私とやろ!」と、普段美里と組んでいる佳奈が言ってくれて恵梨は、ほっとした。自分だけのけものにならなかったことに。
でもサッカーのパス練習中、恵梨はキックを外してばっかりだった。
当たり前だ、相手はいつも一緒にやって慣れている梨花ではないのだから。
それに勝手が違うだけではない。
集中できなかった。
梨花に拒否されたことが初めてだったから。
なにか、梨花を怒らせたりすることをしたのかな。
恵梨は不安になってしまう。
こういうの、喧嘩なのかな。
体育の時間はちっとも楽しくなかったし、その少しあとの給食の時間も同じだった。
一応、グループの四人で一緒に食べた。
けれど梨花は恵梨のほうをまったく見なかった。美里と佳奈にばかり話しかけて。
恵梨はもくもくとご飯を食べるしかなかった。給食は大好きなハンバーグだったのに、ちっともおいしくない。
梨花と話す、美里も佳奈も「なにかヘン」と思ったのだろう。でも直接梨花に言うことはなかった。
そして昼休みも一緒に遊ぶことはなかったし、放課後もやっぱり梨花は「今日、ピアノのレッスンだから」なんて、さっさと帰ってしまった。
「うん。ばいばい」と言った恵梨に、やっぱり返事もしてくれなくて。
美里と佳奈が近くにきて「喧嘩したの?」と聞いてくれた。
でも恵梨は首を振るしかない。喧嘩なんてしていない……と思うのだけど。
「わかんない。なんか、なんだろ……」
一番戸惑っているのは恵梨なのだけど、同じグループなのだから美里と佳奈も困ったように顔を見合わせた。
「嫌なことがあっただけかなぁ」
「でも、私たちには普通に話すよね」
つまり、やっぱり恵梨がなにかしてしまったらしい。けれど。
「でも、思い当たることないよ……」
恵梨はそう言うしかなかった。
「でも良くないよね」
そう言い合い、最終的には佳奈が言った。
「明日、聞いてみたら?」
「うん……」
恵梨の返事は濁った。気が進まない。
「もう絶交」なんて言われたら、なんて怖くなってしまって。
本当にどうしてこんなことになってしまったのかわからなかった。
でもわからないがゆえに梨花に直接聞いてみるしかない。
「なんでもないよ」
次の日の昼休み。恵梨は思い切って梨花に声をかけた。
さっさと教室を出ていってしまった梨花を追いかけて廊下で捕まえた。でも梨花は恵梨を見ずにそう言う。
「なんでもなくないよ。私のこと、無視してる」
もう一度思い切った。
恵梨の言葉に梨花は黙る。当たり前のように自覚はあっただろう。
「ねぇ、私、なにかした? なにかしたなら謝るから」
「別に」
梨花はそっけなく言ったけれど、なにもないわけがない。恵梨は悲しい気持ちでいっぱいになってしまう。
なにかしてしまったのなら謝りたいのに、梨花はそれすら拒絶することしか言ってくれないのだ。
「梨花と一緒にいられないの、悲しいよ」
言っていた。本当の気持ちを。
恵梨の声が泣きそうだったからか、梨花はちょっとこちらを見た。
でも眉が寄っている。なにか、機嫌が悪いときの顔、そのままだった。
「……あっちで、話そ」
やっとまともに話してくれた。
梨花が指さしたのは、少し先の教室。空き教室だ。
普段はどこかのグループが集まっておしゃべりをしたり、遊んでいたりすることもあるのだけど、幸い今日は誰もいなかった。
二人で教室に入って、梨花は乱雑に置いてある机のひとつに腰かけた。お行儀が悪いけれど、今はそんなことを言っている場合ではない。
「恵梨さ、林間学校の火の巫女になったじゃん」
そうしておいて、ぽつんと梨花が言った。
やっとなにか話してくれる。
それだけでも恵梨はほっとした。そして梨花の言ったことは事実だったので「うん」と言っておく。
「あれ、私もやりたかったのに」
梨花の続けたこと。それで恵梨はすべてを理解した。
恵梨が火の巫女になったことが不満だったのだ。
恵梨はそう思ったのだけど、梨花の思いは少し違ったらしい。
「立候補とかもなしに決めちゃうとか、ずるいよ」
恵梨はどきりとする。それは本当のことだったので。
恵梨だって思っていたのだ。火の巫女は、学級会で立候補や推薦で決めるのだろうと。
つまり、梨花の機嫌が悪くなったのは恵梨がクラスのみんなをある意味『出しぬいた』形になったからで。それが柚木先生の推薦だったから、という理由があっても、梨花は不満になったのだろう。
「……ごめん」
「先生が恵梨にやってって言ったからなのはわかってるよ。でも、平等じゃない。先生だって、ひどいと思う」
謝った恵梨に梨花の言葉は少しやわらかくなった。
そして、次々にたまっていたであろう気持ちが出てくる。
それを聞けるのはほっとするできごとだったけれど、同時に胸と耳が痛くもあった。
「確かに、先生が私にって言ってきたとき『私にだけいいの』って思ったよ」
本音を話してくれる梨花に、恵梨も決意した。
自分も本当の気持ちを言おう。
口に出す。
「でも先生が言ったの。『篤巳さんは引っ込み思案なところがある』って。それで『火の巫女に挑戦してみたら、それが変えられるかもしれない』って」
恵梨の言葉に梨花は黙った。ただ、恵梨の顔を見つめる。
こう言って、梨花が納得してくれるかはわからない。でも本当の気持ちを言うと決めた。
「私、積極的じゃないってわかってる。五年生のクラスに一人で入ることになったとき、すごく怖かったし。どうしようって思ってたし。でもあそこで梨花に声をかけてもらって」
思い出した。
『ねぇ! あなた、私と同じ漢字だね!』
梨花が、初めて話しかけてくれたこと。恵梨にはその積極さが眩しかったのだ。
「私、あのときの梨花みたいに積極的で明るくなりたい。だから、『やります』って言ったの」
そこで全部だった。
梨花はしばらく黙っていた。一分は経っただろう。
「……わかった。それなら、恵梨がやってみるの、いいと思う」
でも最終的に、梨花の言ってくれたことは、それだった。
恵梨はほっとした。ありがとう、と言おうとしたのだけど。
「恵梨にちょっとクラいとこあるの、知ってるしさ」
にやっと笑って言った梨花は、もうすっかり普段通りだった。ふざけることを言う。
「……ひっどい」
ほっとして、でも恵梨はちょっと膨れた。からかわれたのがわかったので。
「……でも、梨花には先に話しとくべきだったかもしれない、ごめんね」
「いいよ。私こそ、勝手にムカついて、機嫌悪くなってごめん」
謝り合って、それで本当におしまいだった。
「それに火の巫女、やらなくたって私は目立つもんね!」
「そうだね。梨花はいつもかっこいいし。見習いたいよ」
「見習いたまえよ」
あはは、と笑いながら梨花はぴょんと机から飛び降りた。恵梨に手を差し出してくれる。
「ね! 美里と佳奈、探しにいこ。二人にも心配させちゃったから私、謝らないと」
「うん。私も二人に火の巫女のこと、説明する」
恵梨は梨花の手をしっかり取った。梨花の手は恵梨と同じくらいの大きさで、やわらかくてあたたかかった。
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