調理実習と彼のヒミツ

 その日朝から女子の間ではわくわくとした空気が流れていた。

 今度家庭科の授業で調理実習としてお菓子作りをすることになったのだ。

 今日の三時間目の家庭科の授業はそのために「なにを作るか」とか「分担はどうするか」とかそういうことを打ち合わせする時間。

「ねー、恵梨はお菓子作り得意なんだよね?」

 三時間目の授業の前、中間休みに梨花が話しかけてきた。今日は窓際である恵梨の机で話していた。開けた窓から入る、初夏の風が気持ちいいのだ。

「うん。たまにお母さんとケーキとか作るんだよ」

「そっかー、じゃ、私たちのグループは安心だね!」

 そう言ってもらえると、自分のできることを認めてもらえたようで嬉しい。

「なに言ってるの、みんなでやるんだよー」

 でも恵梨はそう混ぜ返す。今までなら「ありがとう」とだけ言って終わらせていたかもしれないのに、梨花の言い方が少し移ったのかもしれない。もちろん、良い方向へ。

「そりゃやるよー、楽しそうだもん。でも、できる人がいたほうが安心っていうか」

「それはそうかも」

 言って、くすくすと笑い合った。

「あ! そういえばさー、新しいエプロンお母さんに買ってもらったんだ! 写真撮ったからちょっとスマホ持ってくる!」

「わかった」

 自分の机へと身をひるがえした梨花に恵梨はそれだけ答えた。

 本当なら学校内でスマホの使用は禁止されているのだけどたまにやぶる子もいる。高学年になるほど、そういう子は増えていった。まぁ当たり前かもしれないけれど。

 梨花はそういう子の一人だった。もちろん、見つからないように休み時間にだけこっそり電源をonにするのだけど。

 最初は「大胆だなぁ」と思ったのだけどもう慣れた。一回バレてその日一日取り上げられたこともあったのに懲りないことだ。

 机へ向かう梨花を何気なく視線で追って……そして、恵梨はちょっと違うところへ目を留めてしまった。

 それは梨花の前の席にいる志賀原。なんだか「お揃いだ」と褒められたときから、たまに見てしまう。恵梨はそれがなぜなのかはよくわかっていなかったけれど。

 それはともかく、今回恵梨が視線を留めてしまったのは、彼がなにか本を見ていたから。

 今日はほかの男子と外へ遊びに行っていないらしい。そういう日もあるかもしれないけれど席について本をめくっている。

 普段ならなにか、小説でも読んでいるかもしれないと思っただろうし、実際、その表紙はとてもシンプルだったから、ほかの子であればただの『物語の本』だと思っただろう。

 けれど恵梨はその本を知っていた。

 だって、持っているのだ。

 そしてそれを見て、驚く理由はじゅうぶんあった。

 それは男子が見るにはなんだか不思議な気もする……お菓子のレシピの本なのだ。

「たっだいまー!」

 梨花はランドセルからスマホをひょいっと出して、すぐに戻ってきた。恵梨はそんな梨花に視線を戻した。

「やっばい、あと五分しかないや。写真だけ見せたらすぐ切るね! 取り上げられちゃう」

 あわあわと梨花はスマホの画面を付けて、そしてエプロンの写真を見せてくれた。ピンク色で、レースがついていてとてもかわいかった。

「すっごいかわいい!」

「でしょー」

 褒めると梨花は胸を張る。

「恵梨のはどんなのなの?」

「えっと、実はお母さんが作ってくれたんだ。ちょっと前に」

 今度、目を丸くしたのは梨花のほうだった。

「え! すごいじゃん! 柄は?」

「赤のチェックでね……」

 そこまで話したところで予鈴が鳴った。残念ながら中間休みはおしまい。

 梨花は自然に、すっとスマホを切ってポケットに突っ込んだ。これなら先生に見つかることはないだろう。基本的に要領はいいのだ。たまにやらかしはするけれど。

「じゃ、ね! 相談タイムになったら美里(みさと)たちと四人で相談しようね!」

「うん! 楽しみ!」

 きっと授業が進むうちに、グループで相談の時間になるだろう。授業中に堂々と友達と話ができる楽しみもあった。

 梨花は足取り軽く席へ戻って行って恵梨も自分の席に着いた。特に教科書などはいらないはずなのでノートだけ出す。

 そしてまたちょっと、梨花の席の前を見てしまった。

 志賀原はさっきめくっていた本は片付けてしまったらしい。なにも手に持つことなく、そして机の上にも本らしきものは乗っていなかった。

 ただ、頬杖をついて授業のはじまるのを待っている。

 恵梨はちょっとだけ見てすぐに前を向いた。

 なんとなく、見ているのを気づかれたくなかったので。

 本人にも、周りのクラスメイトにも。

 それでも頭の中で考えてしまった。

 なんで志賀原くんはお菓子のレシピの本なんて持ってたんだろう。

 そしてそれをなんとなく隠すようにしていたんだろう。

 そのふたつは恵梨の頭に引っかかった。




 三時間目の調理実習の話し合いはとても楽しかった。

 クラスで投票した結果、作るのはカップケーキに決まった。

 「簡単に作れる」「材料も少ない」「道具も少ない」そんな理由で決定した。

 そのあとはグループで相談タイムになった。机をくっつけて、あれやこれやと相談する。

 必要なものをまず考えた。お菓子作りが得意だけあって、なんとなく勝手がわかっている恵梨が先導する形で話は進んだ。

「小麦粉と、お砂糖と、バター。あと卵とベーキングパウダー。あとは中に入れるもの」

 恵梨がノートに書いた材料を見て梨花が首をかしげた。

「ベーキングパウダーってなに?」

 確かにお菓子や料理を作らないとよくわからないだろう。恵梨は説明する。

「ケーキを膨らませるためのものだよ。ちょっとだけ入れるの」

「へー、買ってこないとかなぁ?」

「うちにあるから、私が持ってくるよ」

「ほんと! じゃ、恵梨にお願いしよう!」

 そんなふうに話はとんとん拍子に進んだ。カップケーキの中に入れるものも、シンプルにチョコチップにすることにする。「最初は簡単にしてみようよ」ということになったのだ。

 どこのグループも材料や役割分担は決まったようなので、先生が言った。

「じゃ、次の家庭科の時間に調理実習にしましょうね」

 わぁ、と歓声が上がってその日の家庭科の授業はおしまいになった。

 とても楽しみ、というわくわくとした空気が教室を満たす。

 恵梨もとても楽しみだった。好きなお菓子作りができるだけではなく友達やクラスメイトで作るのだ。家で作るよりもっと楽しいだろう。

 さて。一日の授業が終わって、恵梨は「ちょっと用事があるから」と一人である場所へ向かった。

 そこは図書室。お菓子作りの本を探してみるつもりだった。

 カップケーキならレシピは持っている。けれどほかの作り方が載っている本もあるかもしれない。

 そして図書室ならそういう、自分で持っていない本があるかもしれない。探しに行こうと思った。

 放課後の図書室は図書委員の子が退屈そうにカウンターで当番をしていた。

 何人かのほかの学年の生徒が絵本や本を探しているけれど静かだった。

 当たり前かもしれないが、図書室では静かに過ごす決まりなのだ。恵梨はたまに来る図書室の棚の列の中へ入っていく。

 さて、お菓子作りが載っているような本はどのへんにあるかなぁ。

 図書室で探すのは初めてだったのでちょっと迷ってしまった。いくつか棚を見て、次の棚を覗き込んだとき。

 恵梨はちょっとどきっとした。そこにはクラスメイトがいたので。

 しかもそれはなんだか最近目を留めてしまう志賀原だった。棚の前で一冊の本を広げて見ているようだ。

 そして今度のその本は明らかに料理の本だった。恵梨の視線に気づいたのだろう、志賀原はこちらを向いた。

「篤巳?」

 ちょっと気まずそうな顔になる。それがどうしてなのかは恵梨にはよくわからなかった。「お菓子の本を探しに来たの?」と聞きながら近づく。

「ああ」

 志賀原はシンプルに答えた。

 そっか、男子だとレシピとかよくわからないかもしれないもんね。

 恵梨はそう思ったのだけど、志賀原が言ったことはそれとはまるで違っていた。

「……新しいレシピがないかと思って」

 びっくりした。

 『新しいレシピ』と言った。

 つまり、『新しくないレシピ』は彼の中にあるのだ。

 それは、つまり。

「え、お菓子とか作るんだ?」

 恵梨の言葉に志賀原は目を丸くして、そして視線が泳いだ。髪に手を突っ込んでかき混ぜる。照れたような仕草だった。

「うわ、言わなくていいこと言った」

 そして教えてくれた。

「……菓子作りとか、結構好きなんだよ」

 さらに驚きの事実だった。でもそれでどうして照れるのかはわからない。

「なんで『言わなくていいこと』なの?」

 そのまま聞くと、志賀原はぼそぼそと言った。

「いや、だって男子で菓子作るとか」

 ああ、なるほど。

 恵梨は納得した。

 お菓子作りが趣味の男子は確かに少ないだろう。それで恥ずかしい、というかあまり公言していないのかもしれない。

「別にいいと思うけど。むしろパティシエとか男の人が多いじゃん」

 それは素直な気持ちだった。恵梨の言葉に、志賀原はほっとしたようだ。

「そ、そっか。さんきゅ」

 気まずそうな顔から笑顔になる。

 あ、また笑ってくれた。

 恵梨の心臓が勝手にひとつ跳ね上がる。

 言って良かった。

 次には胸が熱くなる。

「篤巳もレシピ本、探しに来たのか?」

 聞かれたので恵梨はうなずく。

「うん。新しいのが見てみたくて」

 そっか、と言ったあとに志賀原は続けた。

「この本、結構良さそうなんだ。良かったら篤巳も一緒に見てみないか?」

 誘われて、どきっとしたものの、志賀原が『良さそう』と言ってくれるなら、見てみたい気持ちが生まれた。

「いいの? じゃあ見てみたい」

「じゃ、あっちで見よう」

 そんなわけでなんと同じ本を一緒に見ることになってしまった。本を読むための大きなテーブルに隣同士で座って本を開く。

 その本は初心者向けではなかった。基本的なこと、たとえば『小麦粉はこんなふうにふるう』とかそういうことはすっ飛ばして書いてある。

 しかし志賀原は、この本を『良さそう』と言った。つまりそんな基本的なことはもうとっくに知っている、ということなのだろう。

 結構ひんぱんに作るのかな。

 思ったけれど、そんなことを聞く余裕はなかった。なぜなら男子とこんなふうに近付いてひとつの本を見たことはなかったので。なんだか妙にどきどきした。

「オレ、これコピーして帰ろうかな」

 ひととおり見たところで志賀原が言った。

「あ、じゃあ私も」

 恵梨も言う。本はカップケーキ以外にもおいしそうなレシピがいろいろ載っていたのだ。カップケーキ以外も作ってみたいと思わせるような興味深い本だった。

 本を一緒に見ていた時間は三十分くらいだっただろう。でもそろそろ帰らなければいけない時間だ。暗くなってしまう。

 この時間が終わってしまうことをなんだか寂しく思って恵梨は戸惑った。さっきはちょっと緊張していたのに。

 二人でコピー機の使用許可を取って、本をコピーして。

「じゃあな。また明日」

 志賀原が先に図書室を出たのだけど。志賀原が出たところで、クラスメイトに会ったようだ。もちろん恵梨も知っている子だ。

「あ! 志賀原くん、今帰るの?」

 それは堀 麗華(ほり れいか)という子だ。

 梨花とは違う方向におしゃれな子。どちらかというと派手なのかもしれない。

 恵梨は洋服のことには詳しくないのだけど、梨花が前に言っていたことがある。「麗華ちゃんの服ってさぁ、ブランドものがたまにあるんだよね」と。そして『家が結構お金持ち』だと噂でもあった。本人も別に隠してはいないようだったが。

 そんな麗華がちょうど図書室の前を通りかかったようだ。志賀原に声をかけていた。

「ああ。ちょっと用があったんだ」

 答えた志賀原に麗華は嬉しそうに言った。

「ね! なに見てたの? 小説?」

「あ、ああ、うん……」

 志賀原はちょっと困っているようだった。コピーした紙をそっと、うしろに隠すように持つ。

 その様子を見て、なんだか恵梨の胸はざわついた。

 麗華は積極的に志賀原に話しかけていた。

 そういえば前から麗華は志賀原にたまに話しかけていた、と思う。前は別に気にもしなかったのに、今は妙に気になった。

 そして気になってしまうことに恵梨は戸惑う。

 なにこれ。

 でもすぐに思った。

 志賀原が背中に回したコピー用紙、それになにがプリントされているのか知っているのは麗華ではなく自分。

 麗華は志賀原が小説かなにかの本を見ていたのだと信じたようでそういう話をしている。

 でも自分は本当のことを知っている。

 なにこれ。

 もう一度思った。

 こういうのって『優越感』っていうんじゃないの?

 そんな気持ちをいだいてしまったわけが、そのときの恵梨にはまだわからなかった。

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