見えないもの
第八話 現実世界の蝶
出会ったとき以上にワンピースを揺らして、ナホは笑顔を私に向かって振りまく。元気があってよろしいがいつまで振り続けるんだろう。元々の色を失った錆びた手摺りに体をもたれさせて、手を振り続けるナホに手を振り返す。もう腕が疲れちゃった。
一通りアカウント削除事件の情報を伝えて、ちょうど喫茶店から出たところ。非常階段の三階に私はいた。そろそろお昼時というのもあって、灰色の建物が強くなりつつある日光を反射させて、私を日焼けさせようとしている。
「……日焼けすると痛いのかな」
経験はない。外に出ることが少ないから。
日焼け止めを買っておけばいいんだっけ。
手擦りがギシリと嫌な音が聞こえて、思わず飛び上がった。
振り向いてみると、ギンヤが手摺りに体重をかけていた。びっくりした。手擦りが今にも壊れそうなのにも関わらず、ギンヤは悠々と背中を預けている。
「それじゃ、ハッカーのお嬢ちゃん。まずは被害者に話を聞きに行きたいんだが、連絡はつけられたか?」
そんな状態のギンヤは平然と聞いてくる。その間も手擦りの方からはギシギシと音が聞こえてきた。壊れてギンヤが落下するんじゃないかと不安になる。
事前に被害者の何人かに電夢メールは送っていたけど……。
「……まだ、返事は無いわね。私達は警察じゃないから話をしてくれる人はそんなにいないのかも」
「そうか」
そっけなく彼は言う。
早く真犯人を突き止めたい。ジュンイチ先輩が疑われているというだけで、心が辛くなる。だけど、“透明な蝶”とギンヤが呼称する何か以上に、新しい情報もないのも確かだし。
ところで、と前置き。
「……楽ジュンイチという男がメディアに載っているのをあまり見たことがないな」
私に話を振っているのかしら。
「あの人は人前に出るのが苦手だったから」
楽ジュンイチ先輩は褒められ慣れていない人だった。
だからこそ、取材の連絡はずっと来ていたのに、恥ずかしかって研究室から出ないなんてよくあることだった。
それに。
作ることが本当に好きな人だった。まるで子供みたいだったし、実際、私よりもずっと子供っぽかった。だからこそ、夢と現実を繋げようなんていう突飛な発想が出てきたんだろう。
「人前に出るのが苦手だった、ね……。……であれば、そもそも……メディア関係者と……知り合いには……」
ギンヤはずっと何かを考えているようだった。会話が続かない。共通の話題なんて……
フラフラと黄色いものが視界の端に入った。
「あ、蝶……」
灰色の街の一点に現れた黄色くて小さい蝶が、風に煽られて咄嗟に開けた私の手の平の上に避難してきた。遠路はるばる風のせいでこんなところにまで来たらしい。
「都会にまだ蝶がいるなんて珍しいわね。斑点があるし、この子は……確かモンキチョウだったかしら」
図鑑の知識しかないから、合っているのかもわからない。
ギシリ、と錆びた鉄が擦れ合う音が一段と大きく聞こえた。
蝶を見ていた顔を上げてみると、険しい表情をしたギンヤが近づいてくる。
「なに!? どうしたの!?」
思わず呼吸を忘れるほど視線が飛んだ。ギンヤが軽トラックを思わせる勢いで私に向かって体当たりを仕掛けてきたのだ。
でも、それで終わりではなかった。続く音は鉄の棒が弾ける音だった。
「きゃ――」
地上三階の非常階段が、少し離れたところに見える。足が地に着いていない。私は今、ギンヤに抱き抱えられる形で、宙にいた。
「――きゃああああああ!」
胸が張り裂けんばかりに私は悲鳴を上げていた。さながら、殺害現場で最初に死体を発見した人物のように。
このままだと地面に激突して――死。
次の瞬間、私を襲ったのは強烈な腐臭だった。鈍い衝撃こそあったが、ギンヤが私を抱きかかえるように上手くクッションになってくれたみたい。気づいたときにはゴミ袋の山の中に私とギンヤがいた。
死んだかと思った。
まだ心臓がバクバクと暴れている。驚かせるにはどう考えてもやりすぎだ。
「ちょっと、ギンヤ! 突然、何をするのよ!」
太い腕を払いのけて睨みつける。
彼に恨まれるようなことはしたけど、それでも突然こんな……。
「……いる……」
「いる?」
何がいたの? 蜂とか? でもそれにしてはいくらなんでも、過剰反応過ぎない?
ギンヤはゴミ袋の山から立ち上がり、そして、なぜかゲームの世界でもずっと掛けていたサングラスを外した。
「……“透明な蝶”だ……!」
こんな目の色を見たことがない。蒼く、紅く、黒く――常に虹彩の色が変わり続けている。
ギンヤは私達がさっきまでいた非常階段のその目で凝視している。
「間違いねぇ! なんでこんなところに!」
あそこに何かいるのだろうか。でも、私には何も見えない。
「何もいないわよ?」
目を細めて見てみるが、やっぱり蝶らしきものは見当たらなかった。さっきまでのモンキチョウもどこかに行ってしまったみたいだし。
「……ハッカー。君はここにいろ」
ギンヤが駆け出す。でも、その方向は非常階段の場所じゃない。
「ちょっとどこに行くのよ!」
立ってギンヤを追いかけようとする。でも、それは出来なかった。
「いた……」
左の足首を見ると腫れていた。流石に骨が折れているなんてことはないだろうけど、三階から飛び降りてこの程度で済んでいるのは幸運だと言える。それでも、ズキズキと痛んで力を入れられない。
「ちょっと、ギンヤ!」
あの探偵の影も形も見えない。どこかに走って行ってしまった。せめて、救急車を呼ぶとかくらいはしてほしかった。
「……もう!」
救急車を呼ぼうと手首につけたDLS端末を操作するが、うんともスンとも言わない。最悪だ。
「……大丈夫?」
幼い女の子の声だった。
黒く汚れ切った建物の側にあるゴミの山。その上の私の前にふわふわの白いロリータを思わせる少女がいた。
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