第3話:その声を聞いた俺は
「住む場所がないんです」
三年前、下北沢の小さなバーでツクリテがそう言った時のことを、俺はまだ覚えている。
そこは俺がたまに行く店で、狭いが間接照明と木製のインテリアにこだわった空間、しかもコスパも大変よろしい。
ツクリテと俺は、ガラス窓の前に立っていた。
「え、住所不定? 普段どうしてんの? 無職?」
「バンドとバイト、掛け持ちしてて、今はバンド仲間の家とか車とかで寝てます」
「えー! 実家出てるの? 地方?」
「いや、俺、親とかいないんで」
「あ、ごめん……。音楽やってるんだ」
「ええ、まあ……」
「マスター、ちょっとちょっと! この子にカルーアミルクあげて。俺が持つから」
俺がそう叫ぶと、ツクリテは驚いた様子で俺を見上げた。
「俺ね、芸術方面疎いの。だからそういう活動をしてる人が困ってたら助けたいの」
「でも、俺の曲聞いてもないのに、何だか恐縮っていうか、その……」
「じゃあ聞かせてよ。今音源とか持ってないの?」
俺の言葉に、ツクリテはぼろぼろのトートバッグかなり古びたMDプレイヤを取り出して、これまた使い込まれたヘッドホンを差し出してきた。MDなんて何年ぶりに見ただろう。
ヘッドホンを装着して、再生してくれと眼で合図した。
三分にも満たない曲だった。
俺が分かる限り、ギター二本、ドラム、ベース、そしてヴォーカルのサウンド。
この声は、なんだ?
ハッキリ言ってしまえば、全体的に演奏スキルは低いと素人の俺でも分かった。だがこの声はなんだ?
すっと耳に入ってくる、そこまでは無害。具体的に言えば線は細いがしなやかで情感あふれる声、シャウトもかなりあったが、乱暴には聞こえない。
そして鼓膜を叩いた瞬間、声は俺の脳をがっちりと包み込み、心とか呼ばれる不可視の概念はぽろぽろと涙を流した。
と思ったら、俺は本当に泣いていた。
「これ……、歌ってるのはどんな人……?」
「え? あ、俺ですけど」
「ああーもう何だコレ!! きみ物静かそうなのに、こんな声出せるの?! クソ、涙腺決壊だよ!!」
「す、すみません」
「違うって! 感動してんの! 他に曲ないの? いや、っていうか全部聞かせて。何ならここで歌って!」
「すみません、今聞いていただけるクオリティのものはこの曲だけで……」
「じゃあもう俺んち来いよ! ウチ防音室あるし部屋も余ってるからさー、もっと聞かせてよー。何ならシェアハウスでもしようか?!」
酔いもあり勢いで俺はそうまくしたてたが、ツクリテは一瞬表情を緩め、それから、
「……シェアハウス、ですか?」
と食いついてきた。俺は一瞬、こいつマジだ、と思ったが、もしかしたら案外悪くないアイディアかもしれないと考え直した。
「うん、家賃は安くするし、防音室も好きに使ってくれていい」
「じゃああの、住所と連絡先を伺ってもいいですか? あの、初対面ですげえ不躾ですけど、今俺ホントに帰るところがなくて……」
もじもじと、しかしツクリテの中ではすでに決定事項かのような声音だった。
そして俺は感じた。
この子は、本当に独りで、帰る場所がない。
眼を見れば分かる気がした。この子は飢えている。求めている。
『ただいま』と言って帰れる場所と、『おかえり』と迎えてくる人間を。
成人したばかりの男の子だろうが、おそらく、産まれてから今に至るまで、ずっと。
こんなに素晴らしい才能を持っているのに。
こんな声で歌えるのに。
「俺に歌とか曲聞かせてくれるならいいよ」
「マジすか? じゃ、じゃあ……えーとその」
「今から一緒に帰る? その荷物見るに、今夜の寝床も俺は心配だし」
図星だったのか、ツクリテは顔をくしゃっとして苦笑した。
俺らの共同生活は、こんな風に始まったのだった。
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