花の命はギミック
事務所へと来たところで、ふっ、と良い香りが鼻をくすぐる。香りの主は、駐車場の脇にある大きなキンモクセイの木だ。もうそんな季節になるのか。猛暑だった夏も終わりに近づき、そろそろ秋だ。そういえば、だんだんと日が昇るのも遅くなってきた。自然というのはやはりしっかりしている。月日の進みを仕事の進捗の目安としか認識できていなかった私に、季節という物を思い出させてくれる。
いや、そうではない。自然はわざわざ私に何か教えるために移り変わってなどいない。勝手に移り変わり、たまたま私がそこに居るというだけだ。私は事務所の鍵を開けるのを忘れ、しばしキンモクセイを眺めていた。
それにしても、良い香りだ。花の香りが良いものだと認識し始めたのは、いつの頃からだっただろう。もう定かではないが、遠い昔の事だ。はっきりと覚えているのは、幼い頃、私はこのキンモクセイの香りが嫌いだったという事だ。
子供の頃の私は、鼻が利く子供であった。比喩ではなく、匂いに敏感だったのだ。ちなみに比喩的な方面には全然鼻の利かない素直な子でした。そのはず。ともあれ、匂いには敏感だった。それは大体良い方向ではなく、悪い方向に働いた。キンモクセイを始めとした強い香りがすると、気分が悪くなってしまうのだ。まるで車酔いでもしたかのように耳の後ろ当たりがぐっと詰まったようになり、鼻の奥が全力でその場にいることを拒否してくる。
自然の花の香りだけが駄目かというと、そんなことはなく、芳香剤や香水、母親や先生方の化粧の匂いですら気持ち悪くなってしまう始末だった。
そんな子供なのだから花は嫌いかというと、そうでもなかった。子供の頃の私は花を愛した。美しさではなく、もちろん香りでもなく、そのギミックを。
いちばんのお気に入りはオシロイバナだった。この花の種子は大きな粒胡椒の実のような形をしており、爪を立てると簡単に割れる。中に詰まっているのは、白い粉状の胚乳、つまりは、おしろいだ。このおしろいは肌に塗ったり、チョークのように壁面に絵を描く事ができた。
さらに、オシロイバナの花は、らっぱのようになっており、その根元の膨らんでいる部分をそっと外すと、おしべやめしべが糸状に抜け、らっぱじょうの花の根元から糸が生え、その先に重りがついたような状態になる。見立てとしては、パラシュートだ。これを高い所から落とすと、くるくる回転しながら落ちていく。塗って良し、落として良しの万能選手がオシロイバナだった。
次に好きだったのはホウセンカだ。まるでぶどうの房かのように赤い花を縦に連ねるホウセンカには、種子をため込んだ袋を触ると、はじけ飛ぶという性質がある。単純にそれが楽しかった。だが、一部の子供たちの間でその人気は高く、競争率も高かった。良いホウセンカを見つけても、弾き頃を探っている間に他の誰かに弾かれてしまう、なんて事も良くあった。私たちグループは、日々ホウセンカを見回り、頃合いになったのを見計らって皆を集め、代表者が弾く。それを見て皆で大笑いをするのを楽しみにしていた。
そして、身近には無い憧れの植物が、食虫植物の数々だった。ハエトリソウにモウセンゴケ、ウツボカヅラ。ファーブル昆虫記やシートン動物記や、ディスカバリーチャンネルの中でしか見た事のないそれらは、憧れの的だった。
植物が昆虫を食べる。端的に言ってヤバい。蜘蛛が他の虫を食べるのを知った時や、アリジゴクが罠を作ってアリを食べるのを知った時以上の衝撃が少年たちの胸を撃ち抜いた。なんとか一度見てみたい。親戚一同が集まって植物園に行ったときなどは、従姉妹たちが草花が綺麗だのなんだの言っている間に、私はひとりで食虫植物コーナーに張り付いていた。
その他にも、芝桜を沢山摘んで一斉に高い所から落とし、くるくると回る様を眺めたり、たんぽぽの綿毛を飛ばしたり、オオバコの茎で草相撲をしたり、笹の葉で船を造って川に流したり、ぽきぽきと簡単に折れるヒガンバナを相手に
駐車場でキンモクセイを見つめながら、そんな事を思い出していた。あれほど香りが苦手だった体質も、今では少し変わった。今の私は、とても素直にキンモクセイの香りが良い香りだと感じるようになっている。女性のメイクも、それほど気にならなくなっている。香る柔軟剤で洗濯された服を1日着るのは辛くてできないが、香水の種類によってはいい香りだとする感じることすらある。子供の頃の何かが変わった、あるいは、失われたのだろう。
大人になって鈍感になる事は、強くなった証だという説がある。子供の頃は体が弱く、少しの毒でも危険なために、においや味に鋭敏になっている。それが長ずるにつれ、心身共に丈夫になって、においや味に関する感受性や嗜好が変化してくる、という説だ。この説が正しいとすれば、私も少しは成長したということなのだろう。キンモクセイを見上げたまま、ふふ、と少し笑った。
今ではあまり利かなくなったこの鼻も、比喩的な方面には少しは利くようになりました。そのはず。果たしてそれは成長か、あるいは。
と、花の香りに誘われて妙な方面に思考を働かせている私に気づいてぶんぶんと頭を振る。こうしている場合じゃない。さて、休日出勤の一日を始めましょう。今の私にちょうどいい香りの珈琲を淹れて、今日も初めていきましょう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます