けものの声がする

 時々思う。心の中にはがいる。理性的でないというか、本能的というか、グラッと来る欲求というか。私の気持ちや気分を作るうえで何かと口を出してくる私の中のやっかいな他人。


 けものは欲求に忠実で、飼いならさないと危ない。それに対抗するのは理性で、つまりは頭で、もっと言えば脳。考えて、律するのだ。


 でも、けものが悪い事ばかりかというと、そうでもない。けもののおかげで乗り切れたり、物凄く嬉しかったり満足したりという事だってたくさんある。


 けもの。私の中の他人。もうひとりの私。そんな風に考えていたのだけど、最近、あれ、違うな、って思いはじめた。きっかけは人工知能、AIに関する本を読んだことだ。


 人間に比べ、はるかに高い画像認識の精度の高さを示したことがきっかけで、一気に知名度を高めたAI、並びに「ディープラーニング」という学習方法。そのベースとなる仕組みは割と単純で、割と根性で判断しているような所がある。


 例えば、画像認識の場合、「自分はこういう特徴に注目する」というセンサーが数多く用意される。このセンサーは、何階層かに分けられ、階層ごとに複数を配置する。例えば、


1階層目:センサー5個

2階層目:センサー5個

3階層目:センサー5個


 といった具合。そこに、上から下に向かって画像の情報を流しこむ。まるでポットからお湯を注ぐように。すると、まず、1階層目の各センサーは、自分の担当する注目箇所に応じて、次の階層のセンサーへと流す情報の「量」を決めていく。


 例えば、「画像の『色』に注目するセンサー」であれば、「この配色パターンなら、50%魚で30%哺乳類、15%は鳥で4%はハ虫類。あと、大穴で1%で虫」といった形で情報を流す。イメージとしては、各センサーごとに、次の階層のセンサー全てに情報のお湯が流れるチューブが接続されており、各チューブの太さはバラバラになっている形だ。各センサーを通ったお湯は、太さが異なるチューブによって、次のセンサーに流れる量を個別に調整されていく。


 こうして情報を受け取った次の階層センサーは、これまた自分の担当する注目箇所のみに注目し、判断を行い、次の階層のセンサーへとお湯を流す。こういった「判断」を繰り返す。


 すると、最終的にどうなるかというと、様々なセンサーとチューブを通ってきた情報のお湯は、ゴール地点へとたどり着く。このゴールも、まるであみだくじの一番下のように複数用意されており、そこには流れてきたお湯を受けるバケツが置いてある。


 全てのお湯が流れ落ちた後には、各センサーによって振り分けられたお湯が、ゴールバケツのそれぞれに一定量溜まった状態になっているのだ。このうち、一番溜まっているお湯の量が多いゴールバケツが「回答」となる。


 ペンギンの種類を判断するAIである場合、「イワトビペンギン」のバケツに一番お湯が届いていたら、「この画像はイワトビペンギンだ」となるわけだ。ひょっとしたらとなりの皇帝ペンギンのバケツにもそこそこのお湯が流れ着いているかもしれない。そんな時は「たぶんイワトビペンギン」くらいのニュアンスになる。


 話題になったディープラーニングというのは、こういったセンサーと太さの異なるチューブに対して何度も何度も情報を流し、どんな情報を流しても、「正しい」回答がでるようになるまで、各チューブの太さを調整していく仕組みだ。そのため、膨大な回数の「試行錯誤」を繰り返す必要がある。各センサーが、割と根性で自身のチューブの太さを調整し、相互に影響しあう事で「回答」までたどり着くまで繰り返すのだ。


 この「たくさんのセンサーによって導き出される回答」というのは、ちょっと飛躍した見方をすると、「たくさんのセンサーが決めた『みんなの意見』」ということになる。


 翻って見て、私の身体はどうだろうか。もちろん、AIの仕組みがそのまま人体の仕組みとイコールなわけではない。それでも、ちょっとは似通っているのではないだろうか。そう考えると、私が感じている「感情」というものは、実は「こころ」ひとりだけが考え、作り出したものではなく、体の中の沢山のセンサーがワイワイガヤガヤあーでもないこーでもないと騒ぎ立て、それをまとめた「みんなの感情」ということになるのではないだろうか。


 私が私だけの考えと思っていたのは、実は「私の中の私たちみんなの意見」だったのではないか。


 そうなると、こころとけものは相反する、というのは、そうではない。対立するものではなく、こころはけものたちの集合だ。もし、こころを安らかにしたいと願うなら、こころをいきなりどうにかする、なんてことは不可能で、大元のけものたちである身体や衝動を安らかにするのが大事なのではないだろうか。


 私は私であり、けものだ。だから、気分が乗らない時には、体をケアしてみたりする。運動をしたり、良く寝たり、食べたり、笑ったり、怒ったり。長く心を使う仕事や役目を続けるには、特に、できるだけたくさんのをケアしていく意識が重要になってくる。


 こころが塞ぎ込んでしまう時には、意図的に多くのけものセンサーたちの機嫌を取ってみる。すると、多数決的にわたしのこころの気分も上がってくるのだ。なんだか笑ってしまうくらい単純だけど、効果的だ。心と体のケアっていうけど、体のケアは、そもそもが心のケアにもなっているってわけですね。


 この考え方が正しいかどうかはわからないし、おそらくはいろいろと間違っている。それでも、運動とストレッチで気分転換をする理由としては、そこそこ自分を騙せる理屈ではないでしょうか。


 さて、気分転換に準備体操を済ませたら、今日も一日やっていきましょうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る