マフィンを召し上がれ

 フォークを持つエマの手は震えていた。この一品でエマの将来が決まってしまうと思うと無理もない。無理もないが、震えているようでは困るのだ。エマは調理台に向かって前のめりになっていた背を伸ばすと、天井を見上げ、深呼吸をひとつして自分の頬を2回叩いた。


 ダイニングのテーブルでは、アルノーが紅茶を飲みながら待ち構えている。アルノー、リースのパティシエ界の重鎮にして、エマの父。彼に「おいしい」と認められなければ、パティシエ修行に出る話は消える。それどころか、パティシエになる事を諦めるという約束になっている。


 父と約束をしたのは1月前。それ以来、エマは毎日毎日どんなスイーツを出そうか悩み抜いた。


 たっぷりのバターと砂糖でキャラメリゼしたりんごをふんだんに乗せた、タルト・タタン。焼きたてにバニラアイスを添えて出すのはどうだろうか。熱々のタルトで少し溶けだしたアイスと温かいりんごの相性は信頼できる。


 それとも、ブランデーを少し効かせたガナッシュをたっぷりと入れた、フォンダン・ショコラはどうだろう。こげ茶色のチョコレート・パウンドを割ると、温かくて下品なほどに甘いガナッシュがとろりと流れ出してくる様は、スイーツ好きならばそれだけで満足してくれるはずだ。


 それともプチ・フール小さなスイーツの数で勝負した方が良いだろうか。底面ピエをカリッと出して焼き上げた色とりどりのマカロンであれば、それだけでパティシエとしての腕を示すのに丁度いい。中に挟むのは、バタークリームを軸にして、こけもものジャムや、オレンジのマーマレード、抹茶と粒あんのクリームだ。バラエティに富んだクリームを用意することで、勉強と熱意の量を示すのだ。これならば父は――


 手持ちのレシピ帳を見ながら検討を重ねていたエマは、しかし、力なく首を振った。自分の力量は自分が一番良く知っている。パティシエの世界に入って初めて知ったが、スイーツ作りというのは本当に細やかな仕事だ。1グラムの分量で味が大きく変わり、1℃の温度の違いでバターの食感や香りすら変わる。繊細で、そして、瞬発力と経験が必要な仕事なのだ。知識もそうだが、経験ばかりはどうしようもない。


 頭では分かっているが、理屈では分かっているが、体がその通りに動かないがために、せっかくのスイーツを台無しにしてしまう。生クリームをホイップしすぎたり、フルーツを焼きすぎたり、ショコラを冷やしすぎたり。目の前で起きている事を素早く判断して対処するには、エマの経験はあきらかに不足していた。それは自分でも痛感している。


 だが、同時に、エマは怒りを覚えていた。経験。そもそも、パティシエにならなければ、パティシエの経験はできないではないか。その経験を積む機会を与えず、あまつさえ奪っておきながら、経験不足を理由に諦めさせようというのは、筋が通らない。だから修行に行きたいと言っているのに、順序がおかしい。絶対に納得させてやる。だが、どうやって。何を作ればいいのか。エマは堂々巡りする思考と不安に苛まれながら、頭を悩ませ続けていた。


 そして約束の日の朝。エマは覚悟を決めてキッチンに立っていた。考えに考え抜いた末に辿り着いた一品を焼き上げると、父の待つテーブルへと皿を運ぶ。


「お待たせ。さあ、召し上がれ」

「ほう。これは……。マフィン? エッグベネディクト? なんだこれは。スイーツじゃないただの朝食じゃないか。諦めたというわけか」

「いいから食べて」


 父は訝しげな様子で、それでも、目の前のマフィンに手を付けた。フォークを使って半分に割いたイングリッシュ・マフィンにフライパンで焦げ目をつけ、厚切りベーコンとチーズの上にポーチドエッグを添えて挟み、たっぷりのオランデーズソースをかけたそれは、確かにスイーツには見えない。


 だが、そのマフィンを口に入れた父の顔は、綻んだ。苦笑交じりに頬を緩めて、納得したかのように小さく頷いている。


「甘い。なんだこのマフィン。蜂蜜か」

「そう。たっぷり沁み込ませてあるの」

「ああ、そうだろうな。お母さんと一緒だ」


 エマが作ったのはスイーツではなく、昔、良く母が作っていた朝食だった。父の条件は「おいしい」と認めさせること。だから、この料理を作ったのだ。思い出の母の料理を。


「おいしい。ひどい味だが、おいしいと言わないと天国のママに怒られるからな。ずるいぞ、エマ」


 そう抗議する父は、笑顔だった。


「私の負けだ。エマ。好きにしなさい」

「ありがとう、父さん。そしてごめんなさい」


 エマはぺこりと頭を下げた。


「私、ちゃんとわかってるからね。をしたって。だから、ちゃんと一番おいしいスイーツが作れるように頑張るから」

「そうか。エマ、おまえのは、ずるだけどずるじゃないんだ。スイーツや料理にはそういう所がある。食べる人にとっての一番というのは、その人の経験に左右されるという所がな。それはとても大事な考え方だ」

「うん。でもね、父さん。私はあると思うの。誰が食べても一番のスイーツというのが。この世で一番の、最高のスイーツというのが。だから、『人それぞれに最高のスイーツがある』なんていう甘えに寄りかからないで、追及してみたいの。だから、修行に行かせてください」


 エマの願いを、父は笑って承諾した。2人は改めて朝食の席に着く。甘くてしょっぱいマフィンを頬張り、新しく淹れたコーヒーを飲みながら。そして9月の最終週を新たな気持ちで始めていくとしましょうか。

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