好きなら好きと言えばいい

 月が綺麗ですね、というのが「好き」という事らしい。遠まわしで、奥ゆかしくて、よきことらしい。馬鹿馬鹿しい。


 好きなら好きって言えばいいじゃん。歌の歌詞や、あるいは、小説なんかでも「好き」を使わずに「好き」である事を表現するのが「上」らしい。くだらない。アホくさい。そんなに「好き」という言葉を信じられないのか。


 同じように「笑う」というのも「口角を上げる」とかがよろしいらしい。死ねばいいのに。「笑う」だけだと何で笑ってるか分からないからとか言うもっともらしい説明を見ると、だったら嬉しそうに笑うとか、ニヤリと笑うとかでいいじゃんって思う。だけど、それは「下」だそうだ。


 だけど私は、「口角」とか出てくるだけで話に入りこんでいた自分が一気に引き戻されて、ああ、口角ってのは口の端でー、とか思わされて辛い。書いている人のめんどくささとか、「笑う」って書いたらダメってのを気にして書けないんだといういたたまれなさを感じて嫌になる。


 そういう表現がめっきり嫌いになってしまった。自分でもどうかと思うくらい嫌いだ。最近では、「たゆたう」「ゆかしい」「手折る」のような言葉が出てきても嫌だ。もう駄目だ。いったん本やブラウザを閉じて自分を落ち着かせるしかない。


 美しい日本語? そうだろうか。収まるべきところにしっくり収まっていなければ、それらは単に場違いで、いびつで、グロテスクで、嘘くさくていたたまれない異分子にしか見えない。


 なぜこんなにも嫌いになったのか。理由は分かっている。あきらのせいだ。あの優柔不断の意気地なしが、ストレートにものごとを言えない自分を誤魔化すために、その手の言葉に飛びついているのが気に入らなくて気に入らなくてたまらないのだ。見るたびに亮の顔がチラついてしまう。


「ねえ、亮。それってめちゃくちゃカッコ悪いよ?」


 私はそうストレートに言ってしまうのだけれども、亮はそれを聞いても受け入れず(動揺はしているようで目は泳ぐ)、強がって、やれやれ、わかってないなというポーズを取る。人間のできていない私は、そのポーズを許すことができなくてカッとなってしまう。


「ねえ、それ強がりだったらまだマシだけど、本気で思ってたらヤバいからね? 亮のそれ、何もしない事とか伝えられない事への言い訳だからね? つか、言い訳にすらなってないからね?」


 と、ついつい怒りに任せて言わなくてもいい事まで言ってしまう。自己嫌悪に苛まれつつも、言ってしまう。口にしてる途中から、あっこれ言わなくていい奴だって分かるのだけれども止められない。もし、相手が亮じゃなかったら放っておけるのに、一番言いたくない相手に言ってしまう。


 亮は大体黙って壁を殴るとかしてどこかへ行ってしまう。亮だってわかってるのだろう。そして私だって分かってる。口に出したってしょうがない事を。あとでどちらからともなく謝る事になるって事を。


 きっと私と亮は一緒なのだ。真っすぐ口に出すか出さないかの違いだけで。2人とも、いたたまれなくて辛いんだろう。場違いな所に収まりたいのに収まれなくて、足掻いているんだろう。


 辛い誰かに関わろうとする人は、手を差し伸べようとする人は、自分も辛い人ばかりだ。そんなの、無理じゃん。助けられるわけないじゃん。でも、それでも私はまっすぐ行くしかない。


 亮が行ってしまった台所で、私はコーヒーメイカーから一人分のコーヒーをカップに注ぐ。亮だったらカッコつけてブラックで飲むのだろう。私は冷蔵庫から牛乳を取り出してたっぷりと注ぐと、砂糖を大匙一杯入れた。


 ぬるくて甘ったるくて世知辛いカフェオレをぐっと飲みほして私は心を強く持つ。負けるもんか。今日も一日頑張るしかないのさ、と。

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