アンデッド・ホームズ

 ホームズが宿敵モリアーティ教授と共に、ラインバッハの滝に姿を消してからもう3年が経つ。彼のいない生活にも慣れてきたが、ときどき、ふと思い出す。今日もロンドンの街並みを眺めながら鑑賞に浸っていると、一人の老人が私の診療所へとやってきた。


「先生、どうも最近体がだるくてね。ひとつ診てくれませんか」

「ええ、もちろん。そこにかけて下さい。では、まずは脈を測りますね」


 老人の手を取り、脈を測ろうとしたが、脈が無い。しかも、やけに冷たい。体温が低下しており、血管が細すぎてわかりにくいのかと思い、もう一度橈骨とうこつ動脈を探したものの、どうにも見つからない。首を傾げつつ、老人の顔をちらりと見ると、ニコニコと笑っている。


 コホン、とひとつ咳ばらいをして背後を向き、机から聴診器を取り出して振り返った時、目の前からは老人の姿は消えていた。


「やあ、久しぶりだねワトソン君」


 目の前の椅子に座っていたのは、シャーロック・ホームズその人だった。そして私はそのまま気絶した。


##


「ホームズ! 君も人が悪いな!」


 診療所のベッドの上で意識を取り戻した私は、半身を起こしてホームズが淹れてくれたコーヒーを飲みながら悪態をついた。


「ははは、すまない。せっかくだから驚かそうと思ってね。やりすぎたようだね」

「まったくだ。しかし……生きていたんだな。おかえり。ホームズ」

「ただいま、ワトソン君。しかし、生きているかという点に関しては微妙だがね」

「どういう事だ? まさか幽霊というわけではないだろう?」

「幽霊か。フフフ、近いかもしれないな」


 ホームズはニヤリと笑った。私は脈拍の一件を思い出し、ベッドから降りて椅子へと座りなおした。


「どういうことなんだい、ホームズ」

「実は3年前、僕とモリアーティはラインバッハの滝から転落したんだ」

「ああ、マイクロフトが転落した痕跡を見つけたよ」

「流石だな。滝つぼに落ちた僕は、流石にもう駄目かと諦めていたんだ。意識は遠のくし、体は動かない。その時、腕に何かに噛まれたような痛みを感じたんだよ」


 そう言って左腕の袖をまくり上げると、その部分の肉は少し、削げ落ちたかのように凹んでいた。


「何に噛まれたんだ」

「さあ、エグリかツァンダーか。まあ、スイスの川にならどこにもでもいるヨーロピアン・パーチのどれかさ。重要なのはね、ワトソン君、その魚はどうやらゾンビ・ウィルスに感染していたらしいんだよ」

「ゾ……ゾンビ? じゃあ今の君は……」

「そう。アンデッドさ。心臓は止まっているし、血管には血液の代わりに防腐剤が流れているのさ」


 私は慌ててホームズの手を取り、もう一度脈を取る。が、ない。瞳を覗き込むと、瞳孔も不自然に開いている。ホームズはニヤニヤしながらされるがままになっていた。


「驚いた……。本当に君は、ゾンビに……」

「ああ。だが、ゾンビ・ウィルスとやらも、この灰色の脳細胞を支配下におさめることはできなかったようだね。知っているかい、ワトソン君。ゾンビ・ウィルスの正体はね、ウィルスよりは少し高度な進化を遂げた、微生物なんだよ」

「微……微生物だって? じゃあ何か、寄生虫のようなものが君の体内に侵入して、ゾンビ化しているということなのかい?」

「ああ。そうだ。簡単に言うと、『ストレイン』みたいな事だ。最も、あれは吸血鬼だがね」

「おい、ホームズ。それは2014年のテレビ番組だぞ。この時代には……」

「なに、朝っぱらからこんなテキストを書いたり読んだりしている連中はそんな事気にしないさ。それよりも大事なことは別にある。実は、モリアーティの残党がなにやら良からぬことを企てているらしくてね、それを防ぐためにロンドンへと舞い戻って来たというわけだ。ワトソン君、力を貸してくれるかい?」

「ああ、もちろんだ」


 私はホームズとがっちりと握手を交わした。久しぶりのその手は、しかし、冷たかった。


「君がいれば百人力だ。ゾンビ探偵。いいじゃないか。フフフ、僕が世界で初めてのゾンビ探偵かもしれないね」

「いや、ホームズ。山口雅也さんの『生ける屍の死』の中でパンクなゾンビ探偵、グリンが既にデビューしているぞ」

「ワトソン君、それは1989年に刊行されて2018年、つまり去年に改稿された本じゃないか。この時代とは順番が……」

「なに、気にしないさ」

「それもそうだな。ムチャクチャ面白い本だし。しかし、既に先達がいたとは」


 ホームズは少し残念そうに眉根を寄せたが、直ぐに気を取り直して話を続けた。


「そうだワトソン君、君にもうひとつ頼みがあるんだ」

「なんだい」

「この体の事さ。僕も自分なりに研究をしてみたのだけどね、どうもこの寄生虫ウィルスは、社会性のようなものを持っているようなんだ。つまりは、同じ種の寄生虫に感染した物同士は、ひとつの目標に向かって、個々に役割を持って共同作業を進めるような傾向があるのさ。まるで、昆虫の蜂や蟻のようにね」

「ふむ」

「僕がわかったのは、そこまでだ。やはりこういうものは医者に任せようと思ってね。すまないが、この寄生虫に対する対抗策を考えて欲しいんだ。なに、時間はある。なにせ僕はアンデッドだからね。頼んだよ」

「頼んだよ、って、そんな気軽に。だが、やるしかないようだね」


 呆れつつも承知すると、ホームズはにこりと微笑んで立ち上がった。


「流石はわが友だ。任せたよ。それにしても、研究過程で蜂や蟻の社会性の事を少し調べたのだが、なかなかに興味深かったよ。事件がひと段落着いたら、蜂の研究でもしてみるのも面白そうだね」

「何を言ってるんだ。まずは目先の事件に、君の身体の回復が先だろう。相変わらず君という奴は。フフ」


 3年ぶりに再会した友は、心臓が止まっていることを除けば、昔のままだった。すっくと立ちあがると、鳥打帽を目深に被った。


「さあ、ワトソン君。それでは行ってみようではないか。月も変わり、爽やかな月曜の朝だ」

「ああ」


 そして私たちは、9月も頑張っていきましょう、ということになった。

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